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藤井直敬さん『RITUAL(リチュアル)──人類を幸福に導く「最古の科学」』書評

『Ritual(リチュアル)──人類を幸福に導く「最古の科学」』を読んで、儀式について僕がぼんやりと感じていた違和感についてかなり整理できた。

 僕は博士号を取ってからMITのラボでポスドク期間を6年半過ごした。そのラボは、脳内の基底核[きていかく]という場所を中心としたHabit Formation(習慣)ができあがる仕組みの解明を研究テーマの一つに据えていた。簡単に言うと、習慣が身につく仕組みを研究するラボで、習慣については普通の人より考えてきたほうだと思う。習慣というのは、同じ行動を繰り返すことで自動化される脳内の仕組みのこと。自動化というのは、いちいち考えなくても連続した複雑な行動を実行することができるということだ。もちろん運動に限らず、物事の考え方なども同じように習慣化され、その場合は「認知バイアス」というものになる。
 たとえば、わたしたちは自宅に戻る数メートル前からポケットの中の鍵を取り出して、鍵束の中から正しい鍵を選んで、鍵穴にその鍵を正しい角度で差し込んで鍵を開け、ドアを開いて、玄関のどこかに鍵を置きながら靴を脱ぐという一連の複雑な動作を特に何も考えなくてもスムーズに実行することができる。そういう一連の動作を習慣と呼ぶ。
 逆に、習慣を構成する一つひとつの動作、たとえば腕の角度や力の入れ具合を考えながらそれらの個別の運動を行うと、とたんにギクシャクしたものになってしまい、自宅の鍵を開けるという動作1つもままならない。

 同じように習慣的な振る舞いは生活のあらゆる場面で行われているし、日常生活のなかだけでなく、宗教的な儀式などにおいて不思議な形で数多く見られる。日本人だと神社のお参りで、二礼二拍手一礼というのは当たり前に行われているし、スポーツでも選手が大事な場面でおまじないのような仕草を挟んでプレイしたりする。ラグビーの五郎丸選手がキックの前に不思議な動作を毎回行っていたことはよく知られているだろう。
 個別の儀式の仕草がどうしてそういう手順になっているのかは不明だけど、そのような儀式的な行為に関して、僕はこれまではそれらを習慣の一部だと思っていた。複雑な手順は、繰り返すことで自動化されるため、儀式行為の実行そのものは無意識に行われる習慣的行為と区別がつかない。
 しかし、「行動の意味」という視点で考えてみると、両者は明らかに異なっている。習慣を構成する要素は、それらを行う意味があり、それを外してしまうと習慣行動のゴールを達成できない。たとえば、前記のドアを開ける習慣行動の要素のうち、正しい鍵を取り出すというプロセスを省くと、ドアは開かない。
 一方で、儀式はそのステップ一つひとつの動作と効用の因果関係が明確ではない。たとえば、呪術師が雨乞いの儀式を行って、たとえ雨が降ったとしても、科学的には儀式の遂行によって雨が降ったと説明することは通常は不可能だ。しかし、その儀式の手順は社会的に厳密に決まっている。もし効果が無かったとしたら、手順を間違えたのか、それとも効果が無かったのかの区別がつかないからだろう。そもそも、雨乞いの儀式をしても普通は雨はふらない。複雑な手順が必要でありながら効用との因果関係が認められないものが儀式になる。

 そんな儀式は、文化や時代を問わずに人類に共通のふるまいであり、それがなぜ生まれ、社会で維持され続けるのかを認知科学的に明らかにしようとするのが本書の主題である。一般に儀式というと、変わった風習のコレクションと観察者の主観に基づく解釈という文化人類学的な研究で終わってしまいがちだけれど、本書はそれだけではなく、現在の人類にも共通する神経科学的な仕組みを取り入れることで明らかにしようとしている。それを認知人類学と呼ぶらしい。
 本書で繰り返される神経科学的な実験と検証は非常に面白いところだけれど、そこについては実際に読んでもらうのがいい。世界各地で見られる火渡りの目的と効用についての認知的検証からはじまる研究の流れは大変興味深い。儀式のような目的と効用が曖昧なものに、神経科学的な考察を加えることで、文化人類学的な行動のコレクションを横断する認知的共通基盤を与え、人類社会に共通する普遍性を明らかにしていく作業はワクワク以外の何物でもない。
 人類の脳は、数千年単位では変化をしておらず、それゆえ昔から続く儀式のような一見おかしな振る舞いには共通の脳内メカニズムとそれによる社会的効用があるはずであるという考え方は強い説得力がある。認知科学は、今ここにいない過去の人々の儀式的振る舞いを説明することはできないけれど、今を生きている人々の儀式に関わる認知科学的基盤を明らかにして、それを過去の儀式に拡張することで観察者の文化的バイアスに囚われずに理解することができるのである。

 また、並行して『万物の黎明』(デヴィッド・グレーバー/デヴィッド・ウェングロウ[著]、酒井隆史[訳]、光文社)と、『宗教の起源』(ロビン・ダンバー[著]、小川哲[訳]、白揚社)を読んだことで本書の面白さが倍増した。いずれも数千~数万年に渡る人類社会の進化の系譜を議論しており、本書にも通じる証明困難な問題を扱いながら、一般に言われている西洋哲学的な、狩猟民から農耕民への社会構造の変化が現在の私たちの社会と文化を構築しているという考え方に挑戦し、これまでと異なる新しい視点から議論を行っている。
 三冊を合わせて読むことで、いままで感じていた社会の仕組みに関するぼんやりとした違和感が減り視界がクリアに開けた気がする。ぜひ併読をオススメする。

藤井直敬(ふじい・なおたか)
東北大学医学部卒、眼科医、東北大学医学部大学院にて博士課程終了、医学博士。98年よりMIT Ann Graybiel labでポスドク。2004年に帰国し、理化学研究所脳科学総合研究センターで副チームリーダーを経て、2008年より適応知性研究チームのチームリーダー。社会的脳機能の研究を行う。2014年に株式会社ハコスコを創業。著書に『予想脳』(岩波出版)、『つながる脳(NTT出版 毎日出版文化賞受賞)、『ソーシャルブレインズ入門』(講談社)、『脳と生きる』(河出新書)、『現実とは?』(ハヤカワ新書)

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