『第二摩訶般若波羅蜜』第一段その1〔すべては不生不滅の境界に渡す偉大なる仏智慧のはたらきだ〕 

『正法眼蔵第二摩訶般若波羅蜜』          
〈正法眼蔵ショウボウゲンゾウ涅槃妙心ネハンミョウシン:釈尊が覚られた涅槃妙心である身心と大自然のありようを、道元禅師も覚られ、それを言語化し収められた蔵。
第二巻摩訶般若波羅蜜マカハンニャハラミツ:不生不滅の境界に渡す偉大な仏智慧のはたらき〉 

第一段その1〔すべては不生不滅の境界に渡す偉大なる仏智慧のはたらきだ〕        
〔『正法眼蔵』原文〕                               
観自在菩薩カンジザイボサツの行深般若波羅蜜多時ギョウジンハンニャハラミタジは、渾身コンジンの照見ショウケン五蘊ゴウン皆空カイクウなり。                 
五蘊は色受想行識シキジュソウギョウシキなり、五枚の般若なり、照見これ般若なり。        
この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空シキソクゼクウなり、空即是色なり、        
色是色シキゼシキなり、空即空クウソククウなり。百草ヒャクソウなり。万象バンゾウなり。 
       
〔抄私訳〕                            
「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若なり、照見これ般若なり。」云々。
「観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は」と言えば、観音(観自在)は行ずる菩薩、般若波羅蜜は行じられる般若だと、一般には理解するだろうが、そうではない。般若が現成する時、般若でないものは一つもない。今「渾身」とある「渾身」は、「観音」であるのか、「般若」であるのかと言うにちがいない。今の「照見」も、見るものと見られるものがあるわけではない。「般若」によって「照見」と説くから、「照見これ般若なり」と説かれるのである。

「五蘊」の「色受想行識」等は、皆「般若波羅蜜」〈不生不滅の境界に渡す仏智慧のはたらき〉だと説かれる。一般には、この五蘊を皆空だと観音が照らしみられると理解するであろう。そうであるならば、見る人である観音と見られるものである五蘊が相対する二つになりかねないが、決してそういうことではない。「照見」も「五蘊」も「渾身」も、「般若波羅蜜」だと説くのである。

また、「観自在」(観音)とも説くことができるのである。また、「色即是空」〈色は言い換えれば空である〉、「空即是色」〈空は言い換えれば色である〉とあるが、色」〈現象〉と「空」〈有に非ず無に非ず〉は、大いに相違するものと言うにちがいない。そうではあるが、十分に念を入れて色空の二見が取れるように説けば、ただ「色是色」〈色は色きり〉・「空即空」〈空は空きり〉の道理である。また、この道理に限らず、「百草なり」「万象なり」〈百草のありとあらゆるものはみな空だ、また万象のかき、かべ、瓦、小石何もかもみな空だ。これが色即是空、空即是色だ〉というように尽きることがない道理である。

〔聞書私訳〕                              
/「蘊」ウンとは、集まることである。               
/また、「照見」は智慧であり、般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す智慧のはたらき〉と同じことである。                                       

/また、五蘊(身心)をみな空〈有に非ず無に非ず〉と見る時が仏法である。それを、また照見とも言うのだろうと思うのは、やはり誤りである。空と言っても必ずしも五蘊をなくすことではない。「五蘊」は、日頃我々が考えている五蘊ではないから、行じる菩薩、行じられる五蘊とは言わず、「観自在菩薩」が、そのまま「照見」なのである。

仏法を学ぶのは、身心解脱〈実在していない自分という思いから解脱すること〉のためである。世間の五蘊(身心)を解脱して、仏法の「五蘊」を知るべきである。たとえ「照見」を色法(物質存在)に付けても、色法の様子は、また世間の色法ではない。「空」も五つの空があり、色空・受空・想空・行空・識空があるのである。だから、「五枚の般若」である。

また、仮ケ(仮の物)より空に出て、空より仮に出る菩薩もある。天台の教えでは、仮より出て空に入ると言うけれども、出入の言葉は天台の教えと同じでないから、空に出ると言っても過ちはない。                                   

/「五蘊皆空」は、「観自在菩薩」の面目(すがた)である。     
/我々の三世(過去現在未来)や、我々の四威儀(行住坐臥などの日常活動)を、そのまま般若波羅蜜だと言えば、般若をつまらない我々の妄見によって、繋縛ケバクの業に引き入れることになる。罪業を為すことは深く恐れるべきである。

このように言えば、それでは、「皆空」も「照見」も「五蘊」も、我々とは関係がないように思われるけれども、「観自在菩薩」の三世並びに行住坐臥等によって、我々の三世並びに行住坐臥を摂する時は、あまる所なく摂せられるのである。                   

/また、「色是色」〈色は色きり〉、「空是空」〈空は空きり〉とは、「悟上得悟の漢」(悟の上に更に悟を得る人)である。             
/「色」〈存在するもの〉と「空」〈有に非ず無に非ず〉と別のものを挙げているように見えるところを払いのける為に、「百草なり、万象バンゾウなり」〈百草のありとあらゆるものはみな空だ、また万象のかき、かべ、瓦、小石何もかもみな空だ。これが色即是空、空即是色だ〉と言うのである。「百草・万象」が共に「般若」であるなら、別のものとは言い難いからである。「百草なり、万象なり」という言葉は、「諸法なり、諸仏なり」というのと同じである。「般若」であるから、「百草・万象」は、「色是色」である。

このような「色」を世間の「色」と理解するなら、実体のある物質的なもの(有体質礙の法)となる。仏法ではこの「色」の外に別のものはなく、「色是色」〈色は色きり〉と説くのは、「諸法の仏法なる時節」と理解すべきである。「諸法の般若なる時節」と理解すべきである。                                                            

〔『正法眼蔵』私訳〕                         
観自在菩薩の行深般若波羅蜜〈行深なる仏智慧のはたらき〉が現れる時、全身心は認識が生じる前の照見であり、五蘊ゴウン(身心を構成する五つの集まり)は皆空である。(観自在菩薩カンジザイボサツの行深般若波羅蜜多時ギョウジンハンニャハラミタジは、渾身コンジンの照見ショウケン五蘊ゴウン皆空カイクウなり。)      

五蘊〈身心〉は、色(身体)・受(感受作用)・想(想像作用)・行(意志作用)・識(認識作用)であり、五つの般若波羅蜜〈不生不滅の境界に渡す仏智慧のはたらき〉であり、認識が生じる前の照見はまさに般若波羅蜜である。(五蘊は色受想行識シキジュソウギョウシキなり、五枚の般若なり、照見これ般若なり。)
  
この般若波羅蜜の宗旨を押し開いて言うには、「色〈現象〉は言い換えれば空〈有に非ず無に非ず〉である」、「空は言い換えれば色である」、(この宗旨の開演現成するにいはく、色即是空シキソクゼクウなり、空即是色なり、)                                  

〔しかし色空の二見〈二項相対の観念〉が取れない者のために、開山がもう一つ転じて見せられて、〕色は色きりだ、空は空きりだ。(色是色シキゼシキなり、空即空クウソククウなり。)

〔更に、色空という字まで取り上げてしまって、〕百草のありとあらゆるものはみな空だ、また万象のかき、かべ、瓦、小石も何もかもみな空だ、これが色即是空、空即是色だ、と。(百草ヒャクソウなり。万象バンゾウなり。) 

*注:《 》内は御抄著者の補足。〔 〕内は著者の補足。( )内は辞書的注釈。〈 〉内は独自注釈。
                              合掌
                               

  

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