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サラリーマンのセカンドステージ


 1985年にサラリーマン人生をスタートして35年、57歳で少し早めにリタイヤすることにした。 色んな事情が絡んで来たのだか、妻と二人自分達の残り時間を勘定するようになったことが一番の理由である。
振り返れば比較的恵まれたサラリーマン生活であったと思う。 嫁に恵まれ、子供達に恵まれ、一人前に子育てを経験させてもらった。 子供たちは新しい家族を見つけて巣立ち、50歳を過ぎた頃に孫にも恵まれた。 仕事は思い描くようにはなかなか進まなかったがそれなりに思いを形にすることもできた。 定年までも秒読み段階に入った。
 そんな頃、自分の中に疑問が生まれて来ていた。 「今までの生き方に満足していない訳ではないが、このまま残り時間を枯れるように過ごしていいのか?」「体はあちこちが綻び、加減しながら使うしかないが、まだ動けるぞ!」「仕事以外の世界に何があったのかもっと知りたくないか?」「お金を使うだけの老後に満足できるのか?」 定年を通っていかれた先輩たちも同様の思いに駆られたであろう 不安と疑問と欲望 こんなものが頭から離れなくなった。
 一人目の孫が生まれた。 可愛い(何処の家もそうだろう)女の子。 その子の顔を見ているうちに、疑問の答えが浮かんで来たように感じた。 20年後、彼女の前にいるであろう自分はどんな爺さんになっているのか? 自分で自分の20年後を作ってみたくなったのである。
 サラリーマン時代の後半を滞在型スポーツリゾートの運営を担当した。 その関係で体育関係者やトレーナーの方々との接点が多くあった。 周りが驚くぐらい元気な爺さん(おじ様)達に恵まれた。 彼らも私と同じ年代を過ごして今を作っている。 彼らを学べば、自分の20年後を自分で作っていけるのではないか? そう思うようになった。 それが私にセカンドステージの扉を開かせることとなった。 53歳になった頃だった。
 
準備の心がまえ
 雇用延長が当たり前になり、定年70歳も始まるのではと叫ばれる中、どの時点でセカンドステージの準備に踏み出すかは最も熟慮すべきところである。 家族の状況、夫婦の健康状態、親の介護の問題、仕事の責任、資金の問題 等々 いつ踏み出すかを決めると、後は迷わず進むのみ。
 私の場合は資格取得が必要な道であった為、体力(記憶力)の問題を優先し、早めに準備に取り掛かる覚悟を決めた。 資金の問題は不安だったが、もしうまくいかなくても夫婦二人食っていく事ぐらいは何とかなると腹をくくった。 その上で、どの程度の生活レベルを維持するか、何を優先し何処は我慢できるか 二人で十分確認しあうことが大切だと思った。
 
美意延年
 妻は書を学び、教えている。 新しい道に進むにあたり彼女が素晴らしい言葉を見つけてくれた。 「美意延年」美しい=楽しい、意=気持ち、延=伸ばす、年=寿命 荀子のことばから引用したものだが、楽しい気持ちでいることが自分の時間(寿命)を伸ばすことになる。 この言葉をこれからの二人のモットーとすることに決めた。
 
何を優先し何を切り捨てるか
 楽しい気持ちで居るためには、何が必要なのか? それを掘り下げて自分たちの暮らしの中での優先順位を決めていく。 
 
  切り捨てても大丈夫
   ・子供たちが巣立ってやけに広くなった家、家財道具も整理する
   ・燃費の悪い大きな車  ⇒ 必要ない(2人乗れれば十分)
   ・高級店での会食  ⇒  美味しい居酒屋で十分
   ・ブランドの服  ⇒  必要ない 以前から興味ないが
  優先したいこと
   ・週末は楽しみに出かけること(イベント、ゴルフ、演芸、ハイキン 
    グ。。。)
   ・運動すること
   ・合理的な値段の良いもの探すこと
 
 私はホテル業に長く身を置いていたので、休日の感覚がかなり麻痺していた。 休みがない生活に慣れてしまっており、ましてや連休など本当に特別な場合のみだった。 それでも本人はあまり必要性を感じていなかったが、人生の残り時間から逆算するようになり、もっとも優先したのは規則正しいリズムで休日を設定することであった。 週の内5日は仕事、2日は連休で休む。 年間52週の内、4週間を長期の休みと設定する。正月、GW、お盆の他に1週間の休みを設定し、連泊での旅行が計画できるようにした。 このリズムを守ることが第一優先課題であり、この休日を充実させるために働き、休日を考えることも含めて楽しむことにした。

65歳迄のスケジューリング
 新しいことをスタートするには、思い切りがないと始まらない。 これを夢と呼ぶのかも知れないが、夢を現実にするには、綿密な算盤勘定も必要だ。 サラリーマン時代に結構文句を言いながら控除された厚生年金が頂けるのは65歳。 離職時点で65歳までのスケジュールリングを慎重にしなければならない。 
 私の考えるサラリーマンのセカンドステージは、年金を頂ける年齢に達してからどう暮らすかの事である。 そして、それまでの準備期間の過ごし方をどう選択するか? 雇用延長で資金を蓄えて満期を迎えるのも一つ、また65歳以降に余裕を生み出すためにサイドビジネスの準備も一つである。 しかし、それらの場合は65歳からの時間をどう使いきるかも準備しなければならない。 毎日仕事に行くことが当たり前になっていた我々世代は、突然することを失う。 ゆっくりしたい気持ちもわかるが、半年もすれば飽きる。 セカンドステージをどう過ごすか、それぞれの夢を描く必要がある。 そして考えるのはできるだけ50代前半である方が良いと感じる。
 
私達の場合
 50代前半に重なった 父の死と初孫誕生がきっかけとなり20年後に起こりうる自分たちの問題を考えるようになった。 そして、組織に属さず毎日働ける場所を自分達で作ることそれは自分たちの健康維持に役立つ仕事であることボランティアではなく対価を頂けるものであることそして元気であれば生涯続けられること、これらの条件を満たし、自分たちにできることを探してたどり着いたのが「パーソナルトレーナー」だった。
 選択肢は無限にある。 私は組織に属さないことを優先順位の上位に置いた。 私は扱う側からは使いにくい存在であるのと、他人への気遣いに浮世ではかなり疲れた気がしていた為である。 組織(団体)に属することに拘らなければ、選択肢がもっと広がるはずである。
 どの道を選択するにしても、定年後の時間が思いのほかたっぷりあるということを自覚し、この時間をどう使うか? 何を優先し、楽しみ、生きがいにしていくべきか? 50代のできるだけ早い時期から考えるべきであると思う。
 人生100年時代がすでに始まっているのなら、差し引きの残り時間をどう生きるかは自己責任で実現しなければならない。
 
生き方のコンセプトを固める
 私たちが選択したパーソナルトレーナーという生業は、一般的にはダイエットとかプロポーション維持のイメージが先に来るが、我々の年代にはプロポーションもさることながら健康維持がもっとも大切。 体力が年々落ちていることを如実に感じるようになり、これから先の自分の姿を想像すると不安になる。 この不安を取り除き、運動の継続によって体のコンディションを維持することができる場所は必ず役に立てるはず。

 そして「50歳以上限定のパーソナルジム」という発想に繋がった。
 
 世間を見渡してもこの年代に特化したパーソナルジムは存在していないようであった。 体力の衰えを感じるようになってはいるが、毎日ジムに通うほど暇ではない。 まだまだ社会の主役にいる責任を抱えた世代にとって、健康の不安を解消する環境は意外に少ないことに気づき、このすき間を我々の居場所にしようとしたのである。
50代~60代をイメージし、短時間で効率よく運動を行い、継続が可能な時間的負担と経済的負担を満足し、また運動不足で無様な姿を他人に見られることなく安心してトレーニングできる環境を作る意味から、「こっそり・ちゃっかり・健康貯筋」というコンセプトが生まれた。 周りに気づかれない環境でちゃっかり運動を継続させる、そして健康の貯筋を積み立てていく。 これを実現する場所を生業にすることにした。
 
私達のスケジューリング
 セカンドステージのコンセプトが固まったので、スケジュールを開始した。 私達の場合は、55歳がスタートであった。
 以前からトレーナーの方や体育系大学の先生方とのお付き合いが多く、自分でも小さなジムの運営を行った経験はあるが、私自身はトレーナーとして知識やスキルを持ち合わせていない。 55歳のスタートは、トレーナーの資格取得に向けて、東京での毎月1回の講習参加だった。 周りは大半が20代、現役の体育大学生もいる。 なかに私と同年代の方も混じっていたが見るからに現役トレーナー 彼らに交じって不安一杯、そして記憶力の恐ろしい低下に1年間の苦闘が続いた。 仕事をしながらの受験勉強だったので、その一年は大好きなお酒も少し控えて頑張ってみた。
 資格試験は、年末から翌春までに4回のチャンスがあったが。 4回あればなんとかなる位の腹で臨んだら何と1回でクリアーした。 お陰で在職中、給与を頂いている間に取得できたのは、経済的にも助かったし、開業準備を早めることができたのは付いていたと思える。 
 
 家内は書を教えることができる。 トレーニングと書は関係ないようにも思えるが、 綺麗な文字を書くことは、手先を器用に使えることであり、認知症予防につながると考えた。 健康とは体のみではない、これからの私達世代に起こってくる問題は、目や耳や手先、そして脳。。。 広い意味で健康を捉えるには、フィットネスではなくウェルネスという言葉の方が適切であり、「ウェルネス倶楽部SHOAYA」が誕生した。 トレーニングからスタートするが、今後 広義の健康をテーマとした取り組みを実現していこうという願いがこもっている。
 
 すでに会員の皆さんに対して、手先を使った認知症予防と称して家内の書道教室が始まっている。 今後は、外部の専門家諸氏のお力を借りながら、栄養学や誤嚥防止。。等々のプログラムを考えたい。
 
退職のタイミングで
 結婚して子供が生まれた頃、ぼんやり55歳で会社を辞めて後は自由に暮らすなんて考えていた。 子供たちにもこんな話をしていたらしい。  私が56歳で退職を決めたとき、少しも驚かず「少し遅くなったの?」と言われたのには、私の方が驚いた。 子供たちは親が退職することには無関心だったが、色々面倒な説明もいらず、それはそれで助かった。
 家内は、言い出したら変わらないことを十分承知しており、反対はなかった。 心配はあっただろうが、仕方ないという思いと夫婦二人なら何とかなるという割り切りがあったのだろう。 おかげで退職に関して家族からのブレーキは全く掛らなかった。 
 会社では、多少の責任と部下を持つ身であったので 彼らに負担がかからない様に消えられる準備はそれなりに整えたつもりである。 いなくなっても何とかる。 少し寂しい気持ちもあるが、そんな立ち方もサラリーマンの後半には必要な処世かもしれないと思った。
 
残り時間とタイミング
 セカンドライフについて考えるのはできるだけ早い方が良いと思う。 若い頃に目標にした上司の口癖で、「サラリーマンは50歳を越えたら惰性だ」という言葉、すごく印象的で残っている。 私は30代前半、上司は50歳直前だったと思う。 いつもこっ酷く指導を受けていたので、いつかぎゃふんと言わせてやろうと思っていた。 上司からは、「50歳を越えたら俺の脳みそも停滞するが、お前には絶対に負けんよ。」 惰性というのは誇張かも知れないが、早く追いついてこいという叱咤だと思っていた。 しかし自分が同じぐらいの年齢になり、自分の立場もその時の上司と同じ位になった頃、まんざらその言葉に嘘はなかったと思い始めていた。
 組織の中での立ち位置が最後までだいたい見通せるようになり、頭の感覚も新鮮さを失い始めていると実感するようになり、また経験が自分に蓋をしていることを感じ始めたことで、セカンドキャリアを意識するようになったように思う。 組織では、丁度そのころ「ライフデザインセミナー」なる大変ありがたくない教育活動が行われるタイミングである。 退職してからの現実の話と、それまでに準備をすること。 貯金はいくらいる? 社会活動を積極的に行い孤立しない様すること 等々 蓋をしておきたいような未来をつきつけられる頃だった思う。 私の場合は、未来を受け要れるのではなく、セカンドキャリアを切り開こうと考え始めた。
 
退職時期は自分で決める
 セカンドキャリアを考え始めることで計画が始まる。 いつ始めるかは、いつ退職するかであり、退職のタイミングは自分で決めることになる。 但し、それまでに周りに迷惑が掛からないような準備を整えなければならない。 周りとは会社の関係、家内、子供たち、両親 等々 自分の場面が変わることで影響が起こる人たちに被害が及ばない様な準備とタイミングを計る必要がある。 会社関係者の場合は、できるだけ最小限の直属の者のみ事前にタイミングを説明し、多くを語らず大半の人には突然居なくなった方が良いと思う。 私の場合は、半年前から準備に入り、1か月前に公表する段取りで進めたが、上手くいったと思っている。
 組織の中の一人なんて本当にちっぽけなもので、本人は「私が居なくなったらあれこれ大変だ」と思いたいが、そんなことは無くて、社長であったとしてそれなりに何とかなっていくもの。 サラリーマンならそれ位の横着さで大丈夫だなと振り返って感じる。 もちろんいなくなっての事は知る由もないが、組織が無くなっていないということは大丈夫だったということだ。
 
守られていた自分と縛られていた自分
 年度の区切りの一番いい12月で退職をすることに決めた。 その月末に最後の給与が振り込まれた。 給与明細を見れば、各種の税金や保険料等 毎月引き落とされている。 毎月いくらお国に納めているのかと少し腹立たしく感じていたこともあったが、そのうち意識しなくなり、毎月当たり前のように引き落としされていた。 退職して一番に感じたのは、引き落として頂いていたんだということだ。 これからは自分で手続きをして支払っていかねばならない。 所得税、住民税、健康保険料、年金、個人の生命保険料、自動車保険料 等々 すべて会社が支払いの代行をしてくれていた。 文句を言っている場合ではない、感謝すべきであった。 
 12月に退職したので、年末調整で所得税の手続きは完了したが中途半端な月に退職したら、その年度中は所得に関わる手続きを引っ張ることになる。 例えば、住民税は前年の給与水準をもって翌年課税されるので、翌年の住民税を確定させるには、その年度に確定申告をする必要がある。 住民税は、所得が0になった翌年も前年所得で計算された額を支払わなければならない。 給与明細の住民税をあまり気にしていなかった者には、結構驚きの額を負担することになる。
 健康保険についても、驚きの事実がその時点で判明する。 サラリーマンの場合は、企業内の健保組合または協会けんぽのような組織に加盟し健康保険料を支払っている。 退職すると「国民健康保険」に加盟する。 国民健康保険も前年の所得によって支払額が決められるが、これまた驚くような額になるので覚悟しておく必要がある。 
健康保険の制度は非常にありがたいが、勤めていたから余り意識せず恩恵に預かっていたが、一人になればこんな負担額が発生するとは多くのサラリーマンは気づいていない。 逆に個人事業主の方は肌で感じておられ、価値観の違いは否めない。
 年金についても、厚生年金から国民年金にかわる手続きが必要になる。 毎月結構な額の厚生年金を負担していたので、これを毎月貯金しておけばもっと早くから沢山のお金を手にできるのではなんて、現役の時は思っていたりもした。 国民年金も前年の所得を基に負担する為、所得0になる身には法外な額である。 年金は、60歳まで国民の義務として負担しなければならないが、これも結構厳しい。 但し、年金については支払いの猶予、または免除の申請も可能である。 私はしばらく免除を選択させてもらうことにした。 これによって年金額が減額されることはない。 そのまま60歳迄払い続けるよりは少なくなるが、支払う能力が整えば補填するという選択肢を選んだ。
 退職と同時に、いろんな手続きを急いでやる必要がある。 特に健康保険はないと困るので、慣れない役所をいくつも回って指導を受けながら約1か月振り回された。
 サラリーマン時代は、正しく納税する仕組みに縛られていたが、お陰でこの煩わしさから守られていたんだとつくづく感じた。
 
給与がなくなる
 12月に退職し、1月は各種の手続きや引越しの準備に終われて、あっという間に過ぎていった。 1月末、いつもの給与日に振込がない。 当たり前のものがない。 今まで本当にそれに見合う仕事でお返しできていたのかと不安になると同時に、とても有難いことだったと感謝の念が沸いてくる。
 2月私が最初に行ったのは、積立預金の解約と生命保険の残金払い込み だ。 子育てが終了後、少しづつ積み立てていた定期や株式等を現金化して残金を把握した。 また生命保険は、60歳払い込み完了分まで前倒しで支払い、医療保険と死亡時の葬祭費用以外を解約した。 残っていたローンも完済し、入るところも無ければ出るとこもない状態を作ることにした。
 それから残金を3種類に分け、3種類の通帳に振り分けることにした。 一つ目は、向う3年分の生活費の通帳 これは家内に預けることにした。 諸般の事情から向こう3年分の猶予があることを二人で確認した。 
 二つ目は、起業の資金を新しい口座に振り込んだ。 起業に必要な初期投資及び2年分の家賃等最低限の維持費を確保した。 起業のタイムリミットは2年、上手くいかなかった場合は、その時点で撤退し、新しい働き口を探すことを誓った上でスタートを切った。
 三つ目のお金は、最後の砦で、証券会社2社に当分に振込、安全を第一で投資することを脇に置くことにした。 これが最終的には65歳以降の老後資金となる。 事業が軌道にのれば、年金に加えて収益分も余裕資金となるという算段だった。
 それから、一年 残金が増えることのなくなった通帳に一喜一憂しながら、やっと2番目の通帳残高が増えだした。 一つ目の通帳の残高の減り具合も鈍くなり、タイムリミットが延長されてきた。 株価の高騰にも救われ、第3の通帳も残高を伸ばして助けてくれる。 などなど何とか今日にいたっている。 65歳、本当の意味でのセカンドライフスタートにはまだ少し時間があり、この期間も十分楽しみながら、乗り切ることが今の課題である。
 
今の仕事の楽しみ
 現在、倶楽部の会員数は30名程度に膨れてきている。 5日間はフル活動しながらなんとか食い扶持を稼げる程度になって来た。 現役世代であれば考えられないような価格設定にしていることからか、コンセプトである50歳以上というカテゴリーが受け入れられたのか、ありがたいことにコロナ禍にも拘わらず少しずつお仲間が増えて来た。 
 年代は50代・60代・70代、お仕事や抱える状況は様々である。 会員様は友人ではないが一見客とも違い、週に1回会って会話する同士かな。 サラリーマン時代は地域のボランティア団体に所属していた。 職種がバラバラだが社会的な立場の似たもの同士が集まり、ボランティアイベントを開催したりしていた。 分野の違う話が聞けて週一回の集まりを楽しみにしていたことを思い出し、会員様との会話から得られる情報が週末の楽しみに繋がっている。 私は人が好きなようである。 人と会話しその中から発見すること、学ぶことが得意。 正しい仕事を選択したと感じている。
 今後は会員の皆さんと共に年齢を重ね、皆さんの状況変化を受け止めながら自分達も変化しいていく事を楽しみにしていきたいと思う。 私達が健康という切り口でお手伝いできるのは、たかが数十人のことであるが、似たようなコンセプトのシニア向けに特化したコンディショニングセンターが広まってくれたらと願っている。 その為には、この様なタイプのジムの必要性を説く機会を見つけて話していく事も仕事の楽しみの一つにしたいと考えている。
 
余暇の楽しみ
 私のジムは、日曜日と月曜日がお休みである。 それに加えて年に4回の長期休みを決めている。 1年52週の内、48週間×5日間 年間240日が仕事、残り125日がお休みとなる。 週末を楽しむ為に5日間を働きながら情報を収集するというスタイルである。 毎週末に何をするか? これを考えるのがもっとも重要な課題、そして週末も休むことなく遊び続けられる「疲れない体づくり」が私たちのジムのモットーである。
 余暇の楽しみ方は様々であるが、とにかく外に出かけて、見たり・体を動かしたり・話したり・食べたり・感じたり…。 具体的には、ゴルフ、ハイキング、美術館めぐり、街の散策、寄席、観劇、温泉、プチ旅行 等々 毎年ある街のイベントもスケジュールに入れないといけない。 年々スケジュール表を充実させていく事がこれからの暮らし方の全てだと考えている。
 
料理の楽しみ
 番外編の楽しみが料理をすることになった? サラリーマン時代は家事の一切を全くしない役立たずの旦那だった。 ジムを妻に手伝って貰っていることもあり、一日の大半を妻と一緒にいる。 従って、家事もできるだけ平等に負担していかないとならないと感じたのだが、包丁が使えないことがネックで料理に関してはなかなか始められなかった。 仕方ないので、当面は洗い物で許してもらうことにしていたが、夜の予約が増えて家に戻る時間が遅くなると、夕食の支度がなかなか大変なので、休日に作り置きできるおかずを何品か作ることから挑戦することにした。
 理系脳は料理に向いているのかも知れない。 実験のつもりで料理をしている。 家内に言わせると段取りを考えすぎで時間がかかりイライラするらしいが仕方ない。 週末に約2時間かけて3品を備蓄するのが私の任務になっている。 野菜スープ・シチュー系、肉類の漬け込み料理、野菜の常備菜、ソース系 こんな部類のものを何パターンか作れるようになった。
 料理をする際の一番大きなハードルは、包丁を使えないことだったが、みじん切り用のカッターやスライサーの様な道具を買ってもらって何とか始めると、半年ぐらいで包丁だけでもある程度のものが作れるようになって、新しいものにチャレンジしたくなっている。 とにかく全くできなかった事の扉を開けたのは良かった。
 
人生の楽園を目指して
週末の楽しみにしているテレビ番組で、セカンドライフを楽しく生きておられるご夫婦の姿を取り上げる番組がある。 恐れ多いが、今の私達の夢はこの番組に取り上げてもらえるような楽しそうな生き方をすることかな? 
目標ではないけれど、これからの後輩たちにも参考にしてもらえるような生き方を残していきたいと思っている。
「美意延年」これが私達の生き方のモットー。 これからの時間を楽しみながらいつまでも前向きに、そして1年の暮らし方のスケジュール表がどんどん充実していく事を楽しむ。 まだまだ知らない世界や知らない人たちと出逢い、学び 毎日が発見ある人生であることが私達の楽園であると考えている。

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