「なぜ欧米人は“本心から”自然や正義を愛せないのか?」って言うと、それはやっぱりキリスト教の影響だよね。多分。
上の記事で「欧米人は実は心の底から自然環境など愛していない」「上辺の正義ごっこでしかない」と指摘したのであるが、じゃあ更に論を進めて、今回は「じゃあ、なぜ欧米人は“本心から”自然や正義を愛せないのか?」を考えてみようと思う。
考えてみようっていうかもう既に僕の中では解答が出来上がっていて、それは多分、「キリスト教の影響」だよね…っていう。
無論これって全然僕オリジナルの論じゃなくて、めちゃくちゃ語りつくされてきた論点なのだけども。
世界の宗教にはざっくり言って「自然を対等な存在とみなす宗教」と「自然を見下す宗教」があるのだけども、ご存じの通り僕ら日本人の宗教は前者だ。
で、知ってる人は知っての通り、キリスト教は後者だ。
日本人にとって自然は僕らと対等な存在であり、というか、正確には“僕らが”自然と対等な存在であり、従って僕ら日本人にはデフォルトで自然に対する敬愛の念がインストールされている。
定期的に大地震などで全部もってかれるので、猶更僕ら日本人は自然を畏れ、愛さざるを得ない。
だから僕ら日本人は冒頭記事で語ったように、心の底から自然を愛するし、自然を守ろうとするし、そのために全力を尽くす事ができる。
その結果、この手の分野において日本人は欧米人とは比較にならない程の底力を発揮する。
それはきっと、「正義」などにおいても同様だと思う。
対するキリスト教(というかヤハウェ系宗教)においては僕ら人間は神をかたどった存在であり、対する他の動植物は「それ以外」「人間の下等存在」でしかない。
ついでに言えば異教徒も「その他」でしかなく、従ってこの辺の宗教においては異教徒はどれだけ虐殺しても罪に問われない。
旧約聖書などを読んだ時にまず「ん?」「なんかこの思想傲慢だよね」と日本人がひっかかるのは、このあたりだろう。
イエス・キリストですら、自分の思想に賛同しない者に対してはかなり見下すような態度をとる。
それはそのまま日本人が欧米人などになんとなく感じる幼稚さや傲慢さに直結している。
従ってキリスト教徒などは上辺でいくら繕ってもその内心には自然への見下しと、異教徒(他者)に対する見下しと無寛容と虐殺欲求を抱え続けている。
それを誤魔化すためにキリスト教徒などは“これ見よがしに”「自分は自然を愛しています」「自分は正義を愛しています」とアピールするのであるが、これは悪い人間が「ぼく悪い人間じゃないよ」と言いたくなる心理反応と同一線上にある。
また過度に理想主義すぎるイエス・キリストの教えも恐らく“逆に”欧米人の心を蝕んでいる*。
過度に理想主義な思想を植え込まれた欧米人は常に自他の言動を監視しており、少しでも自他の言動が規範から逸脱するとストレス…恥を感じる。
その恥辱が一層、「取り繕わねば」という欧米人の逼迫感を加速させる。
これがつまり、欧米人が正義ごっこやエコロジストごっこが大好きな要因であろう。大好きというより、神経症的と言った方がいいかもしれない。
要は、後ろめたさが故、という事である。
アメリカ人がやたらと「小児性愛者」とか連呼するのは、つまりはまぁそういう事である。好きなんだろうね。小児が。本音では。
他方で日本人があんまりその辺に執着しないのは、本心にデフォルトで一定以上の道徳心や博愛精神がインストールされているがために、態々「自分は善良な人間です」とアピールする必要性を感じないためであろう。
人間は本心を抑圧すると、当人も無自覚の内に潜在意識にどんどんストレスが堆積していく。
そしてそれがいつかは爆発する。
従って欧米人は必死の正義アピールの内心には常にストレスを抱えており、その結果八つ当たり染みた人種差別などを行ってしまうし、パレスチナ問題のような問題を“逆に”生じさせてしまう。
また肝心の正義ごっこも本心が伴っていないので悪戯に世界を引っ掻き回す事に終始してしまい、むしろ害悪でしかない。
日本人の僕として思うのは、大事なのは「本心から正義を行う事」だ。
それだけである。
おわり。
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