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パテン語の息遣いを感じて

この note は松浦年男先生が企画されたアドベントカレンダー 2023「言語学な人々」の 8 日目の記事として書かれたものです。

私はベトナム語の音声を主に研究しています。「ベトナム語 × 音声」って一般の方からすればなんかよくわからないもの同士の掛け算だと思うのですが、こんなことをやるようになった経緯は 2022 年のアドベントカレンダー に書きましたので、気になる方はそちらもどうぞ(そういえば、昨年も 8 日目だったのですね)。簡単に言うと、わたしはもともと音声に興味が偏っていて、ベトナム語はそんな音声バカでも続けやすい言語だったのです。

最近わたしはベトナムに分布する少数言語の音声にも着手しています。ベトナムは主要民族であるキン族(ベトナム族)も入れて 54 もの民族を擁する多民族国家です。分布する言語を見渡してみると、5 つもの語族  [1] にまたがります。

[1] ベトナムに分布する語族
オーストロアジア語族(モン・クメール語派:ベトナム語含む)
タイ・カダイ語族
フモン・ミエン(ミャオ・ヤオ)語族
オーストロネシア語族(マラヨ・ポリネシア語派)
シナ・チベット語族

そのうち、フモン・ミエン語族のフモン語派(あるいはミャオ・ヤオ語族のミャオ語派)に属するパテン語(パフン語とも)という言語の音声について、ベトナム側と協働して取り組んでいます。昨年(2022 年)、ベトナム側の大学の先生と言語学とは関係ない共同研究をしたのですが、その先生から「君は音声が好きそうだね。最近録った少数言語の音声ファイルがあるけど興味ある?」と声をかけられた [2] のがきっかけでした。

[2] 実は、当初はわたしではなくベトナムにおける実験音声学のパイオニア Nguyễn Văn Lợi 先生との共同研究を計画されていたそうです。しかし、Lợi 先生は数年前に急逝され(R.I.P.)、めぐりめぐってわたしに話が持ちかけられました。私に Lợi 先生の代わりが務まるとは到底思えませんが、どこか不思議な縁を感じます。

昨年(2022 年)はベトナム側の先生がすでにお持ちだった音声データの分析を進めたのですが、それは量が限られていました(360 語程度の語彙読み上げデータのみ)。そこで今年(2023 年)の夏、データ拡充のために 3000 語規模の基礎語彙調査を敢行しました。コロナ禍をまたいで、実に 3 年ぶりのベトナムでの調査 [3] でした。

[3] 少数言語の調査は通常その民族の集落でなされるもので、わたしも当初は集落に入る予定をしていました。しかし、ベトナムで外国人が少数言語の調査をするためにはかなり煩雑な手続きを踏む必要があります。研究用のビザの発行のほか、ベトナムの大学機関が発行した調査許可証の発行、さらにフィールド入りする 10 日前には民族の集落に対して調査を行う旨を通しておかねばならない、といった感じです。今回はビザの申請で時間を食ってしまい集落への連絡等が間に合わなかったので、主たる調査協力者(パテン語話者)に町まで下りてきてもらい調査するという運びになりました。フィールド行きたかったなあ。

今回の調査の中でとくに印象的で忘れがたいのはパテン語話者の「息遣い」に関する最小対を発見した瞬間でした。最小対とは「朝 [asa]」に対して「赤 [aka]」のように、一カ所だけ発音の異なる語の対のことです。この対をもとにすれば、日本語では [s] と [k] という発音の差異によって「朝」と「赤」のような語の識別が可能になっているといえます。つまり、最小対はその言語の体系において機能する重要な発音の差異は何なのかを教えてくれるツールなわけです。

その最小対は「晩ご飯」という語彙のなかにたまたま居合わせてくれていたおかげで発見できたものです。下に発音例を示します。

この語は発音上 3 つのまとまり(=音節)からなっています。上の発音はこのまとまりごとに区切ってはっきりと発音してもらったものです。とくに、ひとつめとみっつめのまとまりはどちらも「ノー」に似たような音に聞こえるかと思います。話者によるとこれらのまとまりはそれぞれ個別の意味をもっていて、ひとつめのまとまりは「食べる」、みっつめのまとまりは「(午前午後、朝昼晩のような)時間の単位」をそれぞれ意味するそうです。

そこまで聞いて、わたしはひとつめとみっつめのまとまりは同音異義なのかなと思いました。「雲」と「蜘蛛」のように発音は同じだが異なる意味をもっていると思ったのです。ところが、念のため話者に「ひとつめとみっつめのまとまりは同音異義か?」と聞いたところ、「発音もまるっきり異なる」と返してきたのです。軽く聞いた限りではほぼ同じように聞こえるふたつの「ノー」が実は発音の異なる最小対だったのです。こういう事実に気づいたときの興奮こそ、研究の醍醐味だなと思います。

では、ふたつの発音はどう違うのか。話者にふたつの「ノー」を個別に発音してもらいました。まず、「食べる」の発音はこちら(イヤホンを使用して聞き比べることを推奨します)。

つづいて、「時間の単位」の発音はこちら。

これ、どうやら発音するときの吐息の量が違うようなのです。よーく聞くと「食べる」を発音するときはやや吐息の音が多く、「時間の単位」を発音するときはそれが少なく感じられます。「食べる」も「時間の単位」も声帯を振動させて発音される有声音から成ります(「ノー」と言いながら喉元に手を当てるとぶるぶると振動が伝わってきますよね)。ここで、声帯の振動は「声帯を閉じる➡開く➡閉じる➡開く…」という動作の繰り返しからなりますが、声帯を閉じる動作より開く動作のほうが長くなると声帯の間を通過する呼気が増え、逆に声帯を閉じる動作より開く動作のほうが短くなると声帯の間を通過する呼気が減ります(「はぁ…」と声を出しながらため息をつくと、「はぁ!」と覇気のある感じの声を出したときに比べて、吐息が多くなることがわかると思います)。つまり、「食べる」と「時間の単位」の発音は声帯振動の際の声門の開き具合の制御が違う(声質が違う)のでは、ということです。

ただ、このような発音の違いについての観察はわたしの「聴覚印象」に頼ったもので、あまりはっきりとした確証や自信はありません。上で述べたような「声帯を閉じる➡開く➡閉じる➡開く…」という動作を何らかの機器で記録できれば、その記録をもとに検証できます。幸い、そのときわたしは Electroglottography (EGG) という声帯振動を電気的に記録するための機器をベトナムへ持ち出していたため、上述の最小対の発音時の声帯振動の違いを記録することで検証することができました。

EGG とはこんな電極を
こんな感じで喉元に装着して
声帯振動をこんな感じの波形として記録する装置です。

EGG で「食べる」「時間の単位」を発音したときの声帯振動 1 周期中の声帯開放期の比率を経時的に計測しグラフにしたものが下図です。なお、時刻=0 は頭子音を開放するタイミングとしています。頭子音開放後から「食べる」と「時間の単位」とで声帯開放期の比率が乖離していることがわかります。これはわたしの聴覚印象による観察はそこまで間違っていないことを示していると思います。

たしかに「食べる」と「時間の単位」で声帯の開き具合(声質)が異なっている!

というわけで、今回は調査中に最もわたしの好奇心をくすぐった特徴である「息遣い」についてピンポイントながら紹介してみました。とはいえ、パテン語の音声はほかにもまだまだ興味深い特徴を多く有していそうな気がなんとなくします。今回の調査では EGG のほかに、超音波エコーをもちいた発音時の舌形状のデータも収集していたので、今後は「舌使い」などについても着目して研究を進めていきたいと思います。

ちなみに、パテン語の「息遣い(声質)」は先行研究(Niederer 1997)でも若干言及があり、わたしだけが唯一気づいた特徴というわけではありません。なお、調査前にその先行研究はある程度みていたのですが、記述を読むのと実際に聞くのとでは得られる情報量が全く違うな、とも感じました。百聞は一見に如かず。

Niederer, Barbara (1997) Notes comparatives sur le Pa-hng. Cahiers de Linguistique Asie Orientale 26.1: 71–130.



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