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受想行識と無生法認

こんにちは✋
まっつです。
今回は受想行識と無生法忍について考えていきたいと思います。まず受想行識を分解すると
情報を受ける→それについて想いが生まれる→その想いから行動が生まれる→行動して体感し認識する
といったように物事を認識するまでのプロセスのことを意味しています。
物理学でも言われているように宇宙は真空です。この真空が一つの想念(エネルギー)を受け取ると、強い力と電磁気力で作り出された相対的で時間が流れている空間が生み出され、その空間の中にある法華経を読むことで、この宇宙すなわち「自分は何もない真空だったんだ」と認識できるようになっています。しかし何もない真空を真空だと認識するためには、その真空を見るための視点が必要になります。その視点が私たちで、その真空自体も私たちなのです。存在するということは相対性のものがあって存在できています。だから何もない真空は全て有る無限があるから説明できるし、全てある無限だから何もない真空であるとも言えます。だから本来何も生じても滅してもないのです。これを無生法忍といいます。
現象には必ず原因があります。だから私は「なんで自分が生まれてきたのだろう」とか、「なんで人間とか他の生物たちが生きているのだろう」と考えていました。いろいろ考えていましたが、どれも腑に落ちませんでした。しかしこの法華経を出会ってからは違います。ここに書かれている「何も無いから全てある」という結論が1番腑に落ちてビビッと来ました。私たちはこの無生法忍を他の人にも教えて「自分は真空だったのか!」とさとらせるために生きているのです。つまり如来となって授記を授け、または菩薩となって授記を授けられて、真空を無限につくる作業をしに、この世界に生まれてきているのです。ただそれだけなのです。

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