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誕生日と命日

今日はお盆。天気は晴れ。東京は雲ひとつない青空です。

例年、お盆の休暇は必ず帰省していますが、

昨年、米寿を迎えた祖母にだけはコロナを運びたくないので自粛。


外出もできず自宅で読書をしていると、どこからか元気な声。

バルコニーから眺めると、小さな男の子と

後から追いかける(おそらく)おじいちゃんが通り過ぎていきました。


友人にもあまり話したことはありませんが、僕のじいちゃんの話です。


海と山

1993年3月14日、熊本県の天草という島に僕は生まれました。

幼少期、母は仕事が忙しく祖父と祖母に育てられたことを覚えています。

保育園の帰りに目の前にあるちっさな商店でアイスを買ってくれる祖父が

大好きでした。

買ってくれたアイスを食べながら、

「じいちゃん、ありがとう!だいすき!」と言うと、

祖父は決まって、目尻にシワを寄せながら笑うのでした。

家の前の海では魚釣り、裏山の畑では家庭菜園。

都会では決して経験出来なかったであろう幼少期を過ごせたことは

僕の大事な宝物です。


引越し

僕が年長に上がるタイミングで、祖父母の家から引っ越しました。

車で40分ほどの街です。

一通りの商業施設があるところで当時の僕にとっては大都会です。


この年から僕が祖父母の家に行くのはお盆とお正月程度になりました。


学習机のマットに挟まれた夏目漱石

さて、引っ越した先はドラマに出てくるようなオンボロアパートです。

アパートとは言っても、各階に部屋が複数あるようなタイプではなく

1階と2階が中で繋がっている、分かりづらいですがそんな家です。

祖父母の家は平屋だったので、当時の僕は少し楽しくなっていました。


もちろん2階に”自分の部屋”をつくり、小学校に上がるタイミングで

学習机を買ってもらいました。(祖父母からのプレゼント)


月に一度僕の街にある病院に検査で訪れる祖父は、

僕が学校に行っている間に家に立ち寄っては

必ず学習机のマットに、しわしわの夏目漱石を、そっと、

挟んで帰るのでした。


中学校2年生の冬

お正月休み、いつものように祖父母の家に帰省した僕は

居間で大量に出された宿題とたたかっていました。


今でも鮮明に覚えていますが、いつも元気なじいちゃんが

その当時、何となく喋りづらそうにして話しているんです。

その時、もっと早く、気づけばよかったのに、

数時間後、歩行も難しくなって、やっと救急車を呼びました。

診断結果は脳梗塞でした。

一命は取り留めたものの、左半身の麻痺と言語障害が残り

話すことは一切できなくなってしまいました。

そこからは入院生活が始まります。


高校進学後は忙しくなって・・・

その後、僕は普通科の高校へ進み、福岡の大学へ入学。

中退して東京の専門学校へ行き卒業。

高校に入学してからは、勉強と部活動の両立で忙しく、

祖父へ会いに行く回数は年に1〜2回程になっていました。

実家を出て、福岡、東京へ進学してからは

今思い返せば、何回会いに行ったのか、数えたくもありません。



最期

専門学校の卒業式が無事に終わり、就職の準備をしていたある日。

ちょうどその日は僕の誕生日で

大好きなバンドのライブがある群馬に日帰りで出かけていました。

日中、母から着信がありましたが、誕生日には毎年電話をくれるので

後でかけ直そうと、その電話は無視しました。



ライブが終わってかけ直すと、じいちゃんが亡くなったと告げられました。

夜の10時前でした。

話を聞くと、僕の誕生日に日付が変わった、午前2時すぎだったそうです。

じいちゃんの誕生日は僕の1日後、3月15日です。

あと1日待てば、自分の歳をひとつ、重ねられたのに、

僕が22歳になったことを見届けて、

学生生活が終わる年、社会人になる年を待って、

安らかに亡くなったと聞かされました。


僕が14歳の時から約8年、病気と闘って、

366日ある中、この日を選んで逝きました。

僕の家庭は裕福ではなく、病気の間もじいちゃんの年金から

学費を出したり、部活動費を出したりしていたと母から聞きました。


今年のお盆も終わり

さっきまでカンカンに照りつけていた太陽も月にバトンを渡しはじめ、

少し涼しくなってきました。

今年のお盆は、お墓参りに行けませんでしたが、

自宅からじいちゃんに感謝を伝えようと思います。


「じいちゃん、今年も1年無事に過ごせたよ。ありがとう。」

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