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卒業論文で書けなかったことと、食品ロスと

あれだけ強い覚悟を持って進んだ哲学の世界。
僕は結局、学部卒で民間企業に就職しています。哲学科卒ですという自己紹介だけでウケが取れるくらいこれまでの世界とは無縁の、不動産会社です。
なぜ就職することにしたのか、正直最近までは自分でもよくわかっていませんでした。

直接的な原因は、占いです。
新宿駅東口の雑居ビルで、献血すると手相を見てくれるという怪しいキャンペーンをやっていて、インターンにも行かずただただ哲学書を読み散らかして猛烈に暇を持て余していた大学3年生の僕は、何も考えずにその献血センターでおばちゃん占い師に手相を見てもらいました。
そこで彼女から「あなたは世の中のことを生きづらいと思っているけど、本当は世の中を生きづらくしている側です」と言われました。そこで何か自分の中で意地になって守ろうとしていたものがボロボロっと崩れていき、僕は就職活動の世界に自然となだれ込んでいきました。

もちろん、占い師に言われたからというのは一種の方便です。確かにものすごく背中を押された感触はあります。しかし、正直自分の中で前からモヤモヤしていたことを、それっぽいことを言う役割を背負っている第三者からスパッと指摘されたことで、僕は大きく針路を変えることになりました。占いって本当によくできている。

僕のその「モヤモヤ」は、卒業論文の最後の1ページに如実に表れています。
それを理解してもらうためには、まず僕が人生を賭けて挑もうとした環境倫理学についてちゃんと説明する必要があります。


環境倫理学が生まれた背景には、ゴールドラッシュ直後のアメリカのダム開発で生じた問題がありました。
「人間が生きていくにあたって必要な水資源を確保するためにダムをつくりましょう。でもダムをつくると自然が壊れます。でもまあ、人間が生きていくために必要なんだからしょうがないですよね。」
すごい雑に言うと、これがダムをつくる時の理屈です。この理屈に、「人間の都合を優先して、自然が壊れても良いのか?」という問いは、"抗議"としてはあるけれども、経済合理性を盾に攻め込んでくる開発派へのカウンターパンチにはならず、結果的にはただただ自然が壊れていくのを見届けるしかなかったと言われています。

そこで自然保護派の人たちは、自然には人間の都合とは一切関係のない「内在的価値」というものを理論として打ち立てようとします。
人間の生活が大事ってすごい言うけど、でも自然の側にだって存在に値する価値があるんじゃないか?そして自然にもそれ固有の価値があるんだとしたら、人間側の都合だけで自然の"権利"を侵害しちゃダメなんじゃないの?といったものです。
古典倫理学は、何千年もの時間をかけて"尊重されるべき価値とは何か"を定義づけてきた学問体系です。そんな倫理学の力を借りて、自然保護派は「自然にも価値がある」ということを理屈だてようとした。これが環境倫理学の興りだと言われています。

この「人間生活vs自然保護」という対立は、環境倫理学においては「人間中心主義vs非人間中心主義」として整理されました。
人間中心主義、極悪極まりない響きです。それに対して非人間中心主義とは、例えば野生動物が生きていく権利を人間と同等に認めましょうとか、いやもっと大きく生態系というシステムそのものに権利の主体があって人間はそのオマケなんじゃない?みたいな、人間ではない何かに重きを置く思想のことを指しています。

しかし、それでも環境破壊は百年以上にわたって続き、そうしているうちに、公害、気候変動など、環境問題は人間の文化・生活にまで影響を及ぼすものへと変貌していきました。
環境倫理学はその間何をしていたかというと、「内在的価値ってこうすればもっと正しく理論化できるんじゃない?」「いやいや、カントの議論を参照すればその考え方は間違ってる!」みたいな、価値を定義づけるという学術的な議論をものすごい頑張っていました。
元々は「止まらない自然破壊に対するカウンターパンチ」として機能するはずだった環境倫理学。その目的を見失ってはいないか?という問題提起が、倫理学の内側から起こりました。それが僕の卒業論文のテーマである「環境プラグマティズム」です。

環境プラグマティズムの主張は、従来の環境倫理学からするとかなりエッジが効いています。

  • 内在的価値を理論化しても環境破壊って止まらなくない?

  • 人間同士の議論で「人間じゃない存在を大事にしよう」って筋通らなくない?人間なんだから、人間じゃない存在の都合なんてわからなくない?

  • それよりも自然を守ることが人間にとっても実は都合が良いんです、ってことを理論化した方が良いんじゃない?

  • っていうか理論化して世間を説得しようとすること自体がもうダルいから、学界で議論するのとかやめて世間のみんなと一緒に合意形成した方が良いんじゃない?

もうめちゃくちゃ揉めました。揉めに揉めた。
特に「お前、それは人間中心主義(=オレたちの敵)だろ!」という批判が最も強かったと言われています。人間中心主義から脱却するための非人間中心主義=環境倫理学なのに、環境倫理学の中から人間中心主義の人が出て来ちゃったら元も子もないよ、という。
でも環境プラグマティズムの人たちは、自然破壊を肯定したいわけではもちろんなく、際限ない自然破壊を本当に止めるためには人間側の都合にもっと寄り添うべきなんじゃないかと主張していました。

僕の卒業論文では、環境プラグマティズムが自分たちの主張を「"弱い"人間中心主義」と呼んでいたことを手掛かりに、環境プラグマティズムとは「対立軸を修正する」ことが目的だったと分析しています。
つまり、従来の環境倫理学は「人間中心主義(敵)vs非人間中心主義(オレたち)」という二項対立を前提としていて、しかも非人間中心主義の中でも「理論A(敵)vs理論B(オレたち)」という内ゲバを盛大に起こしていた。しかし、本当の対立軸は「短期的な利益を優先するあまり自然破壊を無制限に許容してしまう社会構造vs人間の"長期的な利益"(=弱い人間中心主義)」なんじゃないかと。

僕は環境プラグマティズムの意見は、言い方はどうかと思うポイントもあるけどとても納得感がありました。
僕はまだ学問の力を信じているタイプです。僕がお世話になった指導教官を始めとして、社会の中に身を置いて対話を重ねながらあるべき姿を導き出そうとする学者が、世の中にはいっぱいいます。
しかし、環境倫理学と同じような謎の内ゲバ、社会にとって何の意味もないような言葉遊びも同様に氾濫していましたし、何よりも僕自身が学部生ながらそれの隅の隅に加担している気持ちがどこかにありました。つまり、社会にアプローチしようとせず、文献をいじくりまわすことで「哲学やってます」感に浸ろうとしていた。哲学専攻を決めた時のあの熱量を失い、ゆっくり死んでいく感覚でした。
それを占い師にズバッと言われてしまった。だから僕は、自分自身を否定して乗り越えるために環境プラグマティズムに向き合おうとしました。

僕の「モヤモヤ」にやっと入れます。
僕は卒業論文で、環境倫理学の始まりから環境プラグマティズムに至る軌跡をとにかく丁寧に記述しきりました。そこのパートについてはものすごく自信があります。
しかし、じゃあそれで本当に自然破壊が止められるのか?という結論までは、僕の卒論では辿り着くことが出来ませんでした。あまりにも苦肉の策で書き綴った最終章の一部をご紹介します。

さて、公衆に訴えかけるこの段階において、最も重要な対象である強い人間中心主義、たとえば短期的な利益のために自然への収奪を続ける産業などに対しては、どのような「説得」を行うのだろうか。
ウェストンは、万人に説得的な理論を提示することは困難であると告白しているものの(Weston 1985, p.303)、環境プラグマティズムの姿勢に則って現実の社会情勢を見つめると、達成は不可能なものではないように思える。滋野が環境配慮行動の動機について分析しているように、今や環境配慮という行いを社会的な圧力のもとで強く要望されるような仕組みが整備されつつある。たとえば企業においてはCSR[Corporate Social Responsibility]という名の下に自社の環境配慮の取り組みを公表する動きが活発であり、また4-2でみたように節電行動においては「社会的に求められているから」節電を行うという外発的な動因も存在することが明らかにされている。
このような情勢・知見を鑑みれば、あらゆる人々にとって説得的な理論を提示して強い人間中心主義へ制限を加え、自然保護を達成するという目的は現実離れしたものではない。

どうですか?この"現実離れ"したピュアな文章。

当時から、僕は限界を感じていました。企業のCSRとやらが社会にとってどれくらい意味のあるものなのか、そして企業はそういう利他的なアクションに本気で踏み出せるものなのか。僕には全く手触り感がなかったし、学問の世界でいくら経験を積み重ねても自分の言葉に魂を込められる自信がなかった。
僕が就職活動に踏み切った理由がちょっとでも伝われば嬉しいですし、その結果実際に僕が見たビジネスの世界は、僕が想像していた以上に甘くないものでした。


あれから数年の時を経て、僕はリディラバの仕事を通じて、神奈川県相模原市から食品ロスの撲滅を目指している日本フードエコロジーセンター(J.FEC)という会社に出会いました。

日本の食品ロスの定義は"まだ食べられるのに捨てられてしまっている食品"です。
野菜のまだ食べられる切れ端とかだけではなく、賞味期限がまだ切れていないのに在庫過多や謎の業界ルールで廃棄されるお菓子とか、コンビニに命令されたから大量に炊いておいたのに結局発注されなかったので廃棄されるお米とか、そういうの全部コミで年間520万トン、1日1人当たり茶碗1杯分の食品が捨てられています。

髙橋さんという社長が立ち上げたJ.FECは、そういった全国の食品ロスを回収して、試行錯誤の末生み出した製法で「ブランド豚のエサ」として生まれ変わらせ、もう一度食卓に返していこう、という工場を経営しています。
更には、エサとしては再利用できない食品ロスもムダにしないために、向かい側の土地にバイオガス製造の工場も建造してしまうなど、とにかく目的逆算で事業を育てつづける猛烈なパイオニアです。
世界中から政府・企業の視察やメディアの取材が毎日押し寄せ、100人訪れれば100人全員がそのサステナブルな事業と髙橋さんの圧倒的な視座に感銘を受けて帰っていきます。

リディラバの仕事で、「大企業の社員が、食品ロス撲滅のためのネクストアクションを髙橋さんに提言する」という3カ月のプログラムを企画したことがあります。
その最終発表で、あるチームがこんな提言をしました。
「どうすれば行動変容を起こせるか、とにかく徹底的に悩み抜いた。ふと、僕たち自身は行動を変えられたことに気づいた。その理由をたどると、それは髙橋さんに出会えたからだった。髙橋さん、あなたが食品ロス撲滅の大使として、全国に講演して回る事業をつくって、それを収益化しましょう。」

髙橋さんの答えはNOでした。

「私の話が皆さんを始め誰かに響いているのは、自分が実業に挑戦しているからではないかと思う。食品ロスの問題をただ喚起するだけでなく、こうすれば解決するかもという可能性を、事業という形で社会に示し続けているからではないか。」

卒業論文のはるか向こう側を歩んでいる先輩がそこにいました。


リディフェスのチケット、買って下さい。
髙橋さん出ますから。


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