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なぜ大学で「哲学」を専攻したのか

試験に落ちたり受かったりした話

2011年3月。
東京大学に後期試験で合格した僕は、「文科三類」と書いて入学書類を提出しました。
それからしばらくして、父と口を利かなくなる時期がありました。

今はもう違う制度になっていますが、当時の東京大学は「前期試験」と「後期試験」という2つの入学試験枠があり、毎年3000名の合格枠のうち前期試験で2900、後期試験で100という配分でした。
前期試験は志望する学科を予め自分で選び、受かればその学科に入学できます。後期試験は志望する学科を選ばず全員一律で同じ試験を受け、受かれば(理科三類=医学部)以外のすべての学科から自分の希望する学科を選択できる、という方式でした。

さかのぼること数カ月。いや数年前からそうだったかもしれない。
父は僕に「実学」を勉強させることを強く望んでいました。
実学とは、父に言わせると法律や経済など、「社会人になってから"潰しが利く"」専攻のことで、その裏には明確に「虚学」、つまり社会人になるにあたって必要のない専攻なるものが存在するというニュアンスが含まれていました。

その意味では東京大学の文系はとてもわかりやすく、文科一類(法律)・二類(経済)という「実学」と、文科三類(文学、哲学、歴史等)という「虚学」に分かれていました。
当然、父は「東大を受けるなら一類、または二類を受けなさい」という趣旨のことを言いました。

今では、というかその当時から、父が言わんとしていることはよくわかっているつもりです。
それでも僕は、文科三類をどうしても志望したかったのでした。僕はどうしても、大学で歴史の勉強を続けたかった。多くの人にとっては踏み台になっているであろう、高校の教科をもっとちゃんと究めたかった。世界史を、日本史をもっと勉強したかったっていう、ただそれだけなんですけど。それだけで親の進路に対する意見(指示)につい抵抗したくなってしまうくらいの思い入れが歴史学という世界にはありました。

紆余曲折の末、「東大に合格するのなら"虚学"でもまあ一旦良い。それ以外だったら法律や経済の学科に進みなさい」というところまで辿り着くことが出来ました。僕が東大を志望することにしたのはそんな背景がありました。

前期試験では文科三類を選択しました。
結果は不合格。
2011年3月10日。わざわざ地元から2時間かけて1人で合格発表を見に行って、ものすごいうねりの中で人混みをかき分けて、かき分けて、アメフト部に胴上げされている女の子のつま先が目にぶつかったりしながら、ようやくたどり着いた合格発表の掲示板に、僕の番号はありませんでした。本当に、そこからどうやって、どんな気持ちで地元に帰ったのかよく覚えていませんし、親にいつどんな形で報告したのかもよく覚えていません。

翌日、3月11日。震災がありました。
僕の実家は停電・断水・父の帰宅困難などで済みましたが、とても2日後に迫った後期試験のことを考えられる状態ではありませんでした。

3月12日。
色んなニュースがあふれかえっていました。その隅っこで流れ続けるテロップには、なんとか大学が後期試験を取りやめるという報道だとか、どこどこ大学がセンター試験の点数のみで合否を決めるという報道だとか、色んな情報が錯綜していました。
結局僕は、東京に前泊して後期試験に臨むことにしました。初めての一人泊の夕食は、コンビニで辛うじて手に入ったポカリスエットとカロリーメイトでした。

3月13日に試験を受け、23日にまた合格掲示板まで足を運びました。
前期試験の時とは打って変わって静かでした。胴上げも一応ちらほらありましたが、女の子のローファーが目にぶつかる心配など全くない。
その先に、番号がありました。いや、厳密に言うと、あの時の合格発表が軽いトラウマになっていて自分で番号を探すことが出来ず、僕はアメフト部だかりに隠れて、わざわざそのために誘った友達に掲示板を見に行ってもらって、「なんか番号あったんだけど」という淡白な言葉がありました。

後期試験の入学書類には「希望学科」を自分で記入する欄がありました。ここで「1」と書くか「3」と書くか、その一筆のタッチの違いで人生が決まり得ることなんて全く考えず、僕は勝手に「3」と書いて勝手に提出しました。

環境倫理学を選択した話

並々ならぬ向こう見ずな気持ちと共に入学した文科三類。好きな歴史学を好きなだけ勉強できる。
結局僕は、哲学を専攻しました。

東京大学はモラトリアム期間が充実していて、入学から1年半の間に専攻を決めれば良いという仕組みでした。文科三類といっても歴史もあれば文学、哲学、言語学、教育学など色んな選択肢があります。

タイトルはキャッチ―にしたかったので「哲学」と書きましたが、厳密には僕が選んだ専攻は環境倫理学でした。

ここでこれを出すと明らかに「それが理由なのか」と思われてしまいますが、別にこれが理由ではありません。でもここで『寄生獣』という漫画の話を急に挟みます。

1990年代初頭に連載されていたこの漫画が現在に至るまで評価され続けているのは、当時少しずつ言われ始めていた「人間の文明・生活・存在そのものが、地球にとっては"悪い"ことなのではないか」という、公害などの個別具体的な社会問題を超えた大きな話としての"環境問題"と強くリンクしていたからだと言われています。

公害問題で困っているのは人間であり、公害のもとになっている何とかとかいう企業の廃棄物垂れ流しを規制して止めれば、人間に対する被害を食い止めることができる(かもしれない)。
しかしよく考えると、木を切ったり、車に乗ったり、食糧を生産したりといった、人間が"普通"に生きるためのもっと大きな営みそのものが、野生動物や生態系など、本来は人間の手の届かない世界にまで取り返しのつかない被害を与えてしまっているのではないか。そんな感じの問題提起がありました。

これらに対して、極端な主張をしようとすればいくらでもすることが出来る。車をやめよう、木を伐採するのをやめよう。でもそれが果たしてどれほど意味のある主張なのか。僕は小さい時から疑問に感じていました。

『寄生獣』のしっかり目のネタバレになりますが、劇中に登場する「寄生生物(パラサイト)」は、(地球環境を守るために)人間という種を根絶させることを本能として自然発生したと言われています。
そしてその1つの象徴であるラスボスの「後藤」というパラサイトを、主人公の泉新一くんはやっつけて、でも命を助けようとします。でも、やっぱり殺します。
この描写が、『寄生獣』がただの環境保護マンガではない所以だと言われています。

普通に考えれば、パラサイトなんて人間にとっては自分たちの種を根絶やしにしようとする害悪でしかないので、逆に殲滅するのが合理的なはずです。
でも彼らも彼らで必死に生きようとしている。そこに「情」なのか何なのかよくわからない感情が生まれてしまう。それが人間なんじゃないか。
でもそんなことを言っていたら、「人間(の生活の一部または全部)を犠牲にして、人間ではない他者を守る」か、「人間を優先して、人間ではない他者への加害に目をつむるか」の2択しかなくなってしまう。というかその2択が正しいのかどうか。
新一くんは、それが正しいのかどうかは誰もわからないけど、自分で1つの答えを出そうとしました。

この話って、環境問題に限った話ではないはずだと僕は思っていました。
人間は、日本人は、僕は、"普通"に生きているだけで他の誰かにとって迷惑になっているかもしれない。誰かへの加害を助長しているのかもしれない。
でも、だからといって、"普通"を捨てることなんて"現実的"には出来ない、という気持ちもあります。

びっくりするくらい矛盾したこの2つの気持ちに、僕はなんとか折り合いをつける必要がありました。折り合いというと語弊があります。僕は「自分の答え」を、何年かかっても良いから出したかった。

そして、このびっくりするくらい矛盾した2つの主張に正面から向き合おうともがいている世界が環境倫理学でした。
僕は、そのことを人生を通して考えられずにはいられなかった。でも将来に至るまでずっとそのことを考えていられるかはわからないという不安もありました。だからせめて、大学にいる間はこの「矛盾」に向き合ってみようなんて思ったんです。それが環境倫理学を専攻することにした理由です。

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