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あの日のマズいソーダ水の中に

年の瀬になるといつも思い出す、中学2年生の冬の冷たい風と、ソーダ水の安っぽい味があります。
いつか書きたいと思っていたその思い出について、ちょっと吐き出してみようと思います。

温めなおしたお弁当と、笑っていいとも

僕が中学時代を過ごした平塚は、人口30万人強。横浜や東京にも電車で1本で、ベッドタウンとしては一流の立地でしたが、県内有数の工業地帯でもあるため、市内で働いている人も結構多い街でした。
ご当地ラッパー(?)が「クラスに1人 オヤジ横浜ゴム」とライムを刻むくらい、横浜ゴム・日産車体・三菱樹脂など、当時は生活圏に工場がいっぱいあり、それは市民の生活に溶け込んでいました。今は随分撤退しているようです。

何がそうさせるのか、相応に荒れている街でもあり、犯罪発生率も首都圏トップクラス、バカデカいオートバイが深夜まで走り回り、中学の頃からブイブイ言わせているクラスメイトもざらでした。
横浜の中心街に比べるとかわいいものだと思いますが、駅前の裏路地で●人が●を売っていたり、お祭りの時にはコワいおじさんが一斉に街に繰り出して元気にケンカしていたりと、かわいい分だけ随分と身近にアウトローを感じることが出来るエリアです。

僕はといえば、中学1年生まではおとなしく学校に通って勉学に精を出していましたが、中学2年生のはじめくらいから段々と足が遠のいていきました。今思うと不登校に近かったのかもしれません。

平塚の空気感を丁寧に説明してから不登校の話をするということは、タバコやゲーセンに励んでいたと言いたいのか?と思われそうですが、なぜか僕は、市立図書館でボーっと過ごす日々がほとんどでした。
僕は部活も3か月で辞め、趣味も何もなく、学校の先生への反骨心だけすくすくと育っていきました。段々と自分から居場所を消していった結果が、それだったのだと思います。部活に精を出す一団にもなれず、立派なヤンキーとして活動する仲間にもなれず、休み時間にカードゲームに興じるグループにもなれませんでした。僕は中学校生活というゲームの中では何の役割もありませんでした。

それからというものの、毎朝「行ってきます!」と元気よく家を出て、そのまま学校と反対方向にある図書館に直行し、親から買ってもらったばかりの携帯で学校に電話し、うるさがたの教師勢が朝の会でいなくなり攻略しやすい事務のおばさんが電話番をしている時間帯を狙って、声色を変えて「息子はお休みします」と伝え、図書館のベンチで午前中を耐えしのぎ、母が仕事に出る12時を狙って家に帰り、母が持たせてくれた弁当を電子レンジで温め、笑っていいともを観ながら黙々と食べていました。
国語・英語・体育・技術など、嫌いな先生の教科が午前中で終わっている日などは、いいともの終わりを待たずに学校へ向かい、数学・社会の時間にしっかり寝て、担任と顔を合わせたくないので夕方のクラス会前にまた帰る。改めて書き出してみると恐ろしいくらいナメた日々です。

声色を変える作戦もそう長くは続かず、僕には話の通じる電話要員が必要でした。幸いにも、不干渉な祖母が近くに暮らしていたので、祖母が一人の時間を狙ってお宅訪問し、電話を掛けさせるという作戦も時折挟んでいました。祖父は競輪に出掛けていることを、僕はちゃんと知っています。
そういう日は、祖母の家の古い電子レンジを使って弁当を温めていましたが、古い電子レンジで温められた弁当はなぜかマズく、しかも笑っていいともではなくテレ東の水戸黄門(再放送)を観させられます。明かりが弱く隙間風が吹きさらす祖母の家を、僕は早々に退散していました。それは弁当を美味しく食べるためなのか、笑っていいともを観るためなのか。

同じ経験をした人はわかると思いますが、そもそも手作りの弁当というものは、不思議と温め直した方がマズかったりします。
冷めてもおいしく食べられるような食材が多いからでしょうか。それとも、温め直した弁当を食べているという状況にうしろめたさがあったからでしょうか。でも僕はなぜか、いつも弁当は温め直すことにしていました。

笑っていいともは、最後にいつも「曜日対抗いいともCUP」という、その日の曜日レギュラーごとに同じミニゲームで競い合い、1週間を終えてもっとも点数の高かった曜日が優勝?するというくだりがありました。
時には、きちんと全曜日の点数を把握した状態で金曜日のエンディングを迎えることもあって、さすがにその時は「全曜日観ちゃってるじゃん、俺」とドキッとすることもありました。笑っていいともだけが、かろうじて僕に「逸脱」を気づかせる装置になっていました。

ある日、いつものように12時過ぎに家に戻ると、リビングのテーブルに母が作ってくれた弁当と、「お弁当はちゃんと食べなさい」という置手紙がありました。
その日僕はいつも通り意気揚々と家を出て図書館に向かい、弁当を忘れていることに気づいていなかったのです。
もちろん母はすぐ気づいて、急いで弁当を届けに学校へ向かいました。どうやらそこで「清水くんは学校来てませんよ」と言われたらしく、しかもそのニュアンスが「いつものことですが(お母さん知らないんですか)」的な感じだったようで、おそらく母はそこで全てを悟ったのでしょう。
それ以来、図書館へ行くことは段々なくなりました。


驚くべきことに、しかも僕にはそれ関係の記憶が完全に抜け落ちているのですが、僕は中学2年生の1年間、たしかに生徒会役員を務めていました。ちゃんと選挙に出て、クラスメイトの良いヤツに推薦人をちゃんと頼んで、ちゃんと当選していました。
しかも中学2年生の1年間も一応成績を付けてもらえていたので、最低限の登校日数はクリアしていた。つまり実際には、僕が上に書き連ねたような日々が大多数ではなかったというわけです。
とはいっても、僕の中学2年生の記憶は、今書いたものと、これから書く冬の日々が全てです。

人生で一番遠かった徒歩10分

平塚の中学生は自我の芽生え方が若干いびつで、バスケ部のほぼ坊主のヤツですら休み時間はずっと鏡の前でワックスをつけた頭頂部をいじっていました。
もちろんそういう点は僕も例外ではなく、朝になると使い慣れないワックスをべったりつけて、世界が終わるその時までずっと前髪の位置を調整していました。

そうしてやっと家の玄関を開けると、すごい風が吹いています。
冬の強い風が僕は一番嫌いで、せっかく納得した前髪の位置が変わります。本当は後ろ歩きで登校したいくらい嫌。ですが自我がそうさせてくれません。
僕が出した結論は「登校時間を遅らせる」でした。

もちろん前髪だけが理由ではありません。というか登校時間を遅らせても風は吹いています。
朝の通学路は中学生がいっぱいいます。そして人間は、通学路を歩いている時が一番無力です。為すべきことが何もない時間にこそ、人間の素の社会資本がむき出しになります。ちゃんと日頃から人間関係を大切にしている人は、通学中に自然に会う友達と自然に合流し、自然に学校へ向かえるのです。
日頃の行いが最低の僕としては、地獄の10分間という訳です。中学生が充満している建物にこれから入り込むにもかかわらず、登下校時にひとりであるということは孤独感を加速させるから嫌でした。

朝8時半から朝の会が始まりますが、平塚の中学生に対して朝の会は無力なもので、生徒たちは8時50分くらいまでバラバラと校門に入っていき、そのまま1時間目に、そして10時くらいから2時間目が始まります。
そのため、僕が誰にも会わずに学校まで辿り着くためには、1時間目は捨て、2時間目から教室に入るのが最適、という結論に達しました。

母親というのは偉大なもので、1時間目が何時に始まるかをちゃんと知っています。
なので、8時半を回っても優雅にワイドショーを眺めている息子の様子を見て、きちんと事情を察してしまう訳です。
したがって僕は、2時間目から登校すると決めているにもかかわらず、母を安心させるために8時40分には家を出ることになります。「母を安心させるために」というワードの意味がこれほど濁っている用例もなかなか珍しいのではないでしょうか。

通学路に繰り出し、困ります。
順当に歩いていけば登校の一団とぶつかり、1時間目に間に合ってしまいます。通学ラッシュのピークなので、一番歩きたくない時間です。
かといって市立図書館に行けるほど時間に余裕もありません。僕はいつものように学校と反対方向に歩き始めますが、それはただ遠回りをして50分ほど時間を潰すための無意味な散歩でした。

路地を抜け、右に曲がり、また右に曲がり、同じ道に出てしまったら今度は左に曲がり・・・金属加工の工場地帯からはワイルドなニオイがするので、その一帯だけ避けながら歩きつづけます。クリスマスプレゼントで両親からもらったオレンジ色のMP3プレイヤーで、歌詞の分からない洋楽を流しながら、ただひたすら、誰にも目立たずしれっと2時間目に席に着くために必要な図太い精神統一を図ります。

2時間目が始まる10分前に、計算通り学校の近くにあるダイドードリンコの自販機に辿り着きます。これが僕にとって最も大事な儀式です。
ダイドードリンコの飲み物はだいたいマズいですが、商品企画部の努力の結晶なのか、なぜか美味しそうに見える魅力的な造形の飲み物が結構多い気がしませんか?僕のお気に入りは、復刻堂というシリーズで出している「ソーダ水(ブルーハワイ)」でした。

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何を復刻したものなのかよくわかりませんが、コンビニではお目にかかれない青色のレトロ炭酸飲料が、僕の購買意欲を刺激します。
買って飲んでみると、ちゃんとマズいんです。本当にただの甘い炭酸。ちょっと贅沢なカブトムシが飲むやつ。そもそもブルーハワイって何味なんだ。

僕はいつもこれを飲みながら学校に乗り込んでいました。他のことにお金を使った記憶がほとんどありません。僕の中学時代の色んな思い出は、ほとんどこのソーダ水に集約されています。
学校に行くのが理由もなく嫌で、この世界そのものへの嫌悪感も含めて全てソーダ水のマズさで吹き飛ばしながら、僕は学校へ乗り込んでいました。

啓蟄

このルーティーンには、切り離せないもう1つの思い出があります。
僕が2時間目登校を決行する日は必ず、道中で女性4人の不思議な一団とすれ違っていました。
僕は彼女たちと何十回もすれ違っている記憶がちゃんとあるので、この日々はそれなりに長い間続いていたことになります。

僕のモーニングルーティーンよりはるかに、彼女たちの行動は規則正しいものでした。
背丈は僕より少し低く、がっしりした体型のおばさんが3人。真冬なので淡い色のダウンジャケットを着込んで、ホームアローンみたいな耳が垂れてるニット帽を被っている人、ものすごい度の強いメガネをかけた人もいます。工場に出入りする大型トラックが爆走する小道の脇を、彼女らは一列縦隊で胸を張って歩き、3人とも思い思いの独り言を小さくつぶやきながら、でも雰囲気はどこか物静かでした。

その一歩後ろを、細いおばさんが付き従っています。細おばさんだけは独り言を言わず、ややうつむき加減で小さいバッグを小脇に抱えていました。

僕は今日にいたるまで、彼女たちが何者なのか全く知りません。
彼女たちは間違いなく毎日あの道を、僕と同じようにただ歩いていました。
雨の日は、4人とも傘を差しながら歩いていました。傘の色はピンクか水色でした。
僕が家を出る時間を少しズラすと、ズラした分だけ違うポイントで彼女たちとすれ違うことが出来ました。一糸乱れぬ見事な隊列です。ですが、どこか特定の目的地がある様子ではなさそうでした。

彼女たちと会話したことは一度もありませんし、向こうが僕のことを認識するはずもないでしょう。それなのに不思議な連帯感を一方的に感じていました。
今まで、1時間目に間に合うように真っ当に通学していた時には決して会えなかったからかもしれません。僕が学校にわざと遅刻することで出会えた気がするという、ただそれだけの理由だったのかなあ。

数十分前には、学校へ向かう小中学生や、工場へ向かう労働者諸君であふれ返っていた街並みも、9時台にはいつも僕とその一団しかいませんでした。彼女たちと僕は、ほとんど同じ理由で、その道を散歩しているような気がしていました。人がごった返していると困る理由が。


ある寒い日、僕はいつもより少し遅い時間にダイドードリンコの前に辿り着こうとしていました。
ソーダ水を買って、飲みながら10分歩いて、飲み終わる頃には学校に着く。このソーダ水のボトルが空になる瞬間がいつも嫌でした。そんな気持ちの移ろいも含め、いつもと同じ作業です。

すると向こう側から、あの一団がやってきました。いつもと同じようにめいめいが独り言(ご)ち、細おばさんは何も入ってなさそうなエコバッグを抱えていました。
ちょうど、ダイドードリンコの前ですれ違うことになりました。彼女たちは、ダイドードリンコを通り過ぎ、果てしなく歩いていき、また明日どこかで僕とすれ違う。僕は、ソーダ水を買って、飲みながら10分歩いて、飲み終わる頃には学校に着く。ただそれだけの関係です。

僕がソーダ水のボタンに手を伸ばそうとしたその時、彼女たちは僕の真後ろにいました。目視していないのでハッキリとはわかりませんが、たぶん僕の方を見てはいなかったと思います。ですが、僕の耳には間違いなく「ソーダ水」という消え入るような女性の声が聞こえていました。

バッと後ろを振り向くと、彼女たちが街の外れへ向かって歩いていく背中しかありませんでした。中身のないしおれたエコバッグがぶらぶら揺れていました。


春が来て、寒風がおさまり、中学3年生に上がる頃には、また普通に学校へ通うようになっていました。たまに遅刻する日もあったり、受験期になって中2の頃の負債が原因で県内の高校受験が難しくなったりしましたが、概ね穏当な生活に戻っていきました。

そうなると、もうあの一団と会うこともほとんどなくなってしまい、そのまま上京して現在に至ります。あの当時の自分では決して想像できなかった、ある意味で真っ当な日々を過ごしています。
それでも、僕はいまだに、風が強い冬の朝9時に、あの小道でソーダ水を飲んでいた日々のことを抱え、あの一団のことを思い返しながら過ごしています。
自分の原点は何かと聞かれることもありますが、この記憶のことを語るのはあまりに繊細で難しく、けむに巻いてしまいます。
でも間違いなく、僕は今日もまたあの道を歩いています。

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