見出し画像

024. 17歳の黄土高原


高2の時に何故か突然映画を撮りたくなって、脚本を書き、監督をやった。その時にエンディングで使ったのがこの曲、坂本龍一の黄土高原だ。

高校いちばんのイケメン(のちに外科医となる)を主役に据えて、友達を片っ端から巻き込んだ。校長先生は毒殺される役で登場。


同級生のほぼ全員が中学をオール5で卒業した都立高校は、勉強はもちろん体育もできるスーパースター揃いだった。おまけにイケメンもかわいい子も、うじゃうじゃいた。あたまをトンカチで殴られた気分だった。実に楽しかった。

難点は場所が東京とは思えない「ど田舎」ってことと、都立高のくせに制服があって、有名デザイナーがデザインしたという噂だったのにめちゃくちゃ「ダサい」ことだった。杉並の中学時代からオシャレ番長だった私は酷く落ち込み、マイホームなどというものを建てた親を軽く恨んだものだ。


そんなぶっちぎりの頭のいい連中が集まる都立高校で、私が唯一「10」がとれた科目は「美術」だけ。あとの成績は記憶にない。入学したときは50番以内に入ってたと言われたが、その後は友達と遊び呆けて、見る見る落ち込んでいった。覚えてるのは、友達とテストの点を見せ合っても誰も「平均点」を超えてないから、「誰かが不当な平均点を引き上げてる」と言い合ったてたことくらい。当時、友達の間で流行ってたのは「成績が最下位で、最高学府に入って、学校の記録を更新する」ってことだった。しかし結果は、みんな見事に浪人して「ただのバカ記録」が残った。

それでも浪人後はさすが進学校で、文系連中が片っ端からトップクラスの大学に受かるのを尻目に、滑り止めで受けた大学の建築学科の三日目の面接受験会場(日本全国で最後の受験日と言われてた)の控室でスキー合宿のカタログを開いてた。

結果、浪人したくせに第一志望を落っこちて、滑り止めの大学に進学した。しかし、当時はまだ都会の真ん中にあったその大学は、都会に似つかわしくなく地味でダサい人ばかりで、行く気がすっかり失せてしまった。(こうして考えてみると若い頃の私はダサいかどうかで判断する、全くしょうもないやつだった笑)。

当時はまだバブル全盛期で「こんな楽しい東京を学生の身分で謳歌しないのはもったいない!」と自然と大学から遠のいた。入学早々「建築経済」の先生が「お前らの卒業するころにはバブルは崩壊して、就職難になるぜ」と予言してたが、まさかこの予言が的中し、現役と浪人でこれほど就職格差が生まれる年が来るとは思ってもみなかったが。


ちなみに卒業から数年後、一級建築士を受けるために母校に卒業証書かなんかを取りに行った時、心底驚いた。学生たちのセンスがとってもよくて、シュッとしてた。「あと10年遅く生まれてきたかった涙」と思ったものだ。一億総オシャレ時代がいつの間にか到来してた。

(ちなみにその後、建築学科で学んだ唯一のことは「オシャレ度は能力とは関係ない」ということだ。オシャレなやつが建築のセンスがいいとは限らないし、めちゃくちゃ優秀な人ほど、へんてこりんな格好をしてたりする。以降、人をセンスで判断する自分を大いに反省することとなる)。

そんなわけで大学四年生になると、足りない単位を全力で取る羽目になり、一年間しこたま大学に通った。無事に留年することなく卒業できたからよかったけど、社会人になってからもしばらく「単位が微妙に足りなくて卒業できない夢」を見た。卒業後は、サクッと社会人になった。四年生の時のリカバリーが功を奏して、先生からは大学院への進学を強く勧められた。だけど、その頃大学は、「郊外移転ブーム」にあったし、一刻も早く抜け出したかったのだ。


そんなわけで私は、建築界でもっとも不真面目な学生時代を過ごし、もっとも東京をフィールドワークをしたひとりだ思う。決して褒められたもんじゃないし、他人にはお勧めしない。そんなわけで私は大学にはほとんど近寄らない。どのツラ下げて行くんだよと思うし、完全な実力と実績の社会で、「学生時代の自分の尻拭い」も含めて、全力でやってきたから。呼ばれた時だけありざたく馳さんずる。

けど社会人になって役に立ったのは、綱渡りのように辻褄をあわせてきた「処世術」だった。私がよく顔が広いと誤解されるのは、その時に大学時代に東京のど真ん中で出会った人たちが未だに続いてるからだし。そのつながりが後の人生に役に立ったか、計り知れない。


もちろん「もう少し勉強すれば良かった」と思う。そうしたら、もう少しマシな人生だったかもしれない。だけど、面白かった授業はゲスト講師できた伊東豊雄だけだったし、「東京が面白かった時代に東京を遊び尽くす」ことを、人生をやり直したとしても、やっぱり同じことをするんだろうと思う。


で、最初の話題に戻るけど、そんな高校時代に「美術はそこそこ出来るって事だろう」と勘違いし(戦うフィールドがそもそも間違ってるわけだから、勘違いも甚だしい)、せっかく勉強して進学校に入ったんだし、「勉強と美術の融合といえば建築だな」と思って、理系クラスを選択し築学科に進んだ。

絵本を描いたのも17歳の時だ。今読んでも、我ながらすごい面白い。(今世紀中には出版したいものだ)

そんなわけで、私の原点はなぜか全て「17歳」にある。物語を書いたり、映画撮影スタイルがその後のプロジェクトを進めるスタイルとして確立され、今でも続いてる。建築家になろうと決めたのも17歳の時だったし、それから何十年も続けてる。

そして、17歳ごろに知り合った「黒歴史としてお馴染みの剣道部」の友達が、まさかお施主さんになってくれる未来が来るとは、思いもよらなかった。彼は、私と同時期に某有名な出版社を辞めて独立して、剣道場をつくりたいと頼んでくれた。これが私の独立後の新作になるだろう。


東京のど田舎の高校も、滑り止めの大学も、今となっては「誤差でしかない」どうでもいい事だ。むしろ第一希望の大学よりも、母校でよかったと思ってる。

人生は当たり前だけど「一筆書き」にしかいかない。パラレルワールドはなく、もう一度人生をやり直したとしても、やっぱり同じ道を辿ったんだろうと思う。だから「後悔」というのはしたところで意味がなく、自分で選択した道を「しゃぁねぇ、いっちょやるか」と進んでいくしかないわけだよね。

振り返ってみると、そのひとつひとつが繋がって今があるわけで、月並みな言葉だけど、何事も無駄な事はないと思う。


そんなわけで、気づいたら私も人生の後半戦に突入した。あの頃描いてた未来と比べるとややショボめではあるけど、そこそこ上出来な人生だったと思う。

そして想像を大きく越える未来はやっぱりなくて、どんなにバカバカしくても妄想した未来が実現するんだなと思う。


この先どんなことが待っているのかまったくわからないけれど、「17歳の妄想カード」の答え合わせを、これからもしていくんだろうと思う。


人生は「大した事ない」けど、一方で「捨てたもんじゃない」。これからも手持ちのカードで、人生の勝負に挑み続けたいと思う。


事務所は虎ノ門に構えた。
寅年の今年、虎ノ門から、新しい挑戦をはじめていくよ。


トラトラトラ

2022年1月




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?