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ショートカット

現実世界ではショートカットキーがきかないことを、ときどき忘れる。洗濯物を畳むときになんだか上手く畳めなくて、無意識に⌘Zをしようとして、あれっ?あ…できないや…となり、ひじょうに不便。当然コピペもできない。私をコピーして、キッチンとお部屋と洗面所にペースト、お料理しながらリモート会議に出席しつつ歯みがきしたい、歯みがき粉はtooth paste、ペーストつまりパスタ、そんなことはどうでもよいが、あぁ…不便だ。この世って不便。とくに巻き戻しがきかないのって、本当にあぶないです。塩と砂糖をまちがえたら終わりで、歯みがき粉と絵の具をまちがえたら終わりで、茹で上がったパスタの茹で汁を全部茹でこぼしてしまったら、おいしいパスタは生まれないから終わり。折れた骨は治っても、落とした指は戻らない。チャンスは一回。それなのに、たった一回しかないそのチャンスを、いとも簡単に手放していて、そのことに気づいたときにはすでに手遅れで、あとはひたすら放心状態。立ち直るまでにはだいぶかかる。慎重にやってよ、やってるよ、わかってるけど、どこかで戻れるって思っちゃう。そういう頭になっちゃってる。片手操作で戻ったり進んだり、ああでもないこうでもないと、朝から晩までやってるのだから。ある朝家を飛び出して、公園を突っ切った先の柵のないところからざぶんと川に落ちて沈んで、しんでしまったとしても。大丈夫、⌘Zでやり直せるよ。そんな声が、そんな2Dの感覚が、私という現実の身体を持った存在をあやうくしている。人生は3D。この世は絵空事でも机上の空論でもありませんし、⌘も⌥もききませんし、手っ取り早くすませたいならまわり道せよということわざさえあるくらいですので、なんのショートカットキーも使えないものと思いなさい。という訓戒をふかく心にとどめ、くれぐれも取り返しのつかぬ失敗をせぬよう気をつけていたい。うす味にしておこう、まだ足し算ならできる。入れすぎた塩は回収できない、覆水盆に返らず、こぼしたミルクも戻らない、そんなこと言われても。どこかで落とした大事だったものが、今も守られた安全な場所で、うとうと夢をみていてほしい。鳥かごを巣立った私の鳥が、あたたかな風が吹く南の島で、ココナッツの白くておいしい部分だけ、ぬくぬくつついていてほしい。胃袋をコピペして、あるいは口元に運んだ一連の動作を八分目あたりまで⌘Zして、食べすぎても絶望しなくてすむようになりたい。そう思った、しょっぱいパスタを食べた日でした。

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