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貴酒の城

飲めない作者が書く、とあるお酒の物語。 

 

 頬杖をつくふりをして、両耳を塞いでいる。

ぎゅっと抑えて、ふっと弛める。また抑えて、弛める。騒音を箱詰めにしたような店内でそうしていると、歓声の飛び交うプールで平泳ぎしているみたいにノイズが出たり入ったり、不思議な音楽になった。わ、わ、を、え、ん、ふぁ、う。

 こんな所、来るべきではなかったのだ。いや、来るつもりなんて初めからなかった。私がぼんやりしていたのが悪い。今日初めて知り合った女の子に、「ぼっちだとあれだから、ね、お願い」と腕を引かれ、ついて来てしまった。今朝、愛猫のリリィを亡くしたショックで、私にはもう寒さ以外に何も感じることができなかった。

 とはいえ今日は、大学生活の初日という、色々と面倒な手続きをしなくてはならない日。まだ温かいリリィの身体をタオルで大事に包み、とりあえず大学へは行った。起こること全てが私の周りを流れていって、川の中の杭みたいに、なすがままにされていたら時間が経った。でもまさか、気づいたら訳のわからないサークルの新入生歓迎会に出席しているほどに、自己喪失していたとは。



 横に座った人は、なぜか私について知りたいらしく、飽きもせず質問を浴びせる。放心していたのと、この人物に個人情報を伝える必要を感じなかった私は、どの質問にも適当な答えで返した。どうせ、再び関わることもない。

「なんでうちに入ろうと思った?」「通りかかって」「出身は?」「地球」「学部は?」「イスラム文学」「趣味は?」「トランポリン」「彼氏は?」「ロシアに」「それ本気?」

 が、適当がすぎたせいで、かえって興味を持たれる悪循環に陥った。適当にするにも、それなりのコツがいります。ああ、帰りたい。今日はリリィを悼む日なんだ。命日なんだ。身も心も喪に服しているんだ。私の悲しみを、この張り裂けそうな心を、どうしてくれる。

 何度目かの質問に、耳に当てた手の力を弛めたら、恐ろしい事実が発覚した。このサークルは、いわゆる飲みサーという部類のサークルらしい。その存在については、私も友人から聞いて知っていた。この大学には、そのうちでも特に悪名高き三大飲みサーと称されるサークルがあると。思い起せばたしかに、会の最初に聞いた名前、聞き覚えがあった。うわ。警戒心があまりにも足らなすぎた。何されるかわかったものではない。そもそも、私はお酒が飲めないではないか。こうしたサークルでは、新入生にも容赦なくお酒を飲ませると聞く。私は事情により休学していたので、一応成人済みだった。しかし、年齢の条件はさておきアルコールの分解酵素はというと、全く持ち合わせがない。

「新入生諸君、ようこそ我がサークルへ!!さぁ、今夜は初々しい一年生を歓迎して、思う存分飲み明か%@*◇#♩…」

そんな声をたしか聞いた。見ると、注文の際、誰もがアルコールの名前を口にし、お酒を注文しない者など一人もいない。そういう暗黙のルールらしい。何というディストピア。順番が回って来て、私は店員さんにようやく聞こえるか聞こえないかくらいの声で、烏龍茶、と囁いた。見た目はウーロンハイと変わらないはず。あまりに小さかったため何とかばれずに済み、次の人の番になる。ほっとすると同時に、肩の力が抜けた。

 横の人が、向かいに座る人にまで私の話を吹聴して、前からも訊問が始まった。包囲されたオセロの気分だ。何も面白くなんかないのに。飲めないし、頭頂から爪先まで、空虚なんだ。私はつとめて無心に、タッチパネルで手当たり次第に注文を打ち込み(食べ放題である)、出された料理に黙々と箸を動かした。食欲など、あるはずもない。掃除機のようにただ口に入れては飲みこんでいく。枝豆。冷や奴。出汁巻き。ポテトサラダ。揚げ餃子。梅きゅうり。

「結構食べるね、意外」
「飲まないの?そんな食べてばっかで」
「いえ、まあ」

なぜなら食べる以外に選択肢がないからです。と言いたかったが、しだいに苦しくなり、どうにも箸が進まなくなった。ふっと顔をあげたら、大分皆さん、酔いがまわっていらっしゃる。そういえばあの女の子は大丈夫だろうか。席に目を向けて、私を連れてきた子の姿を探す。その時、奥の左端に座る人がなんとなく気になった。なんだか、異様に目を引く。何がというと特に目立った特徴がある訳ではないが、その人のいる所だけ切り抜いて貼ったような、空気が違う異質さを感じた。黒い髪に黒い服、男の子なのか、ショートカットの女の子なのか、分からない。


前の人が突如、酔った勢いで身を乗り出してきた。

「ねぇちょっと君さぁ、さっきから聞いてる?」

あわやという所で私は体勢を低くして、肩にかけられようとした手を避けた。おお。幼き日に見ていたアルゴリズム体操が、こんな時に役立った。その人はバランスを失って、隣にいた女の人から支えられるような格好になる。

「先輩、何してるんですかもう〜あぶな〜〜い」

よかった。彼らが幸せになってくれたら良い。私はお手洗いに、と言って席を立った。話し声や歓声が、遠く聞こえる。全部くぐもっている。つよいお酒の匂いと煙草の煙、反響する音に、眩暈がしていた。飲んでもないのに世界がぐらぐら揺れて、足がふらつく。外へ、とにかく外へ出よう。テーブルの脇を通る時、僅かに目を向けたあの黒髪の人と、視線が合ったような気がした。

 扉を開けると夜風が、優しく頬を撫でていった。この時季の夜気は、日によってまだ肌寒い。そのつめたさが心地良かった。目を閉じて、詰めていた息をふうっとはき出す。すってはいて、もう大丈夫と思えるまで、少し歩くことにする。一刻も早く帰りたかったけれど、コートを掛けっぱなしにして来てしまった。あのコートは買ったばかりだし、酒宴の終わった頃にこっそり取りに戻ればいいか。


 と思った矢先、つよいアルコールの香りが鼻先をかすめ、嗅覚を疑った。外に出たのに、またしても、お酒。目を開けて、まずその明るさにくらりとする。お店を出た時は夜9時を回っていたはずなのに、まるで昼のような明るさだ。見渡すと、大衆居酒屋が立ち並ぶ目がちかちかする照明に照らされた大通りはすでになく、足元からすっと伸びた白砂の一本道が、ずっと先の方まで続いていた。車も、道路も、通行人も、お店も見当たらなかった。霧が辺り一体に濃くたちこめており、あまりよく見えない。

道は橋になっていて、下には水の気配、どうやら海のようだった。海なのか、あるいは大河なのか。じっと観察していると、漂うアルコールの香りは、その水から蒸発してくるものとわかった。そして、そのお酒の海から気化したものが、霧の正体だということも。そうして悟った。私はついに、気絶してしまったんだ。きっとお店の真ん前で倒れて、あんな汚い道路に伏して、通りがかりの人か店員さんに見つかって、あのサークルのリーダーか誰かが呼ばれて、集まった人々に見るも哀れな姿を晒される。ああ、考えるのも、いやだ。



 段々と霧が薄れてきて、前方の彼方、海の上に建物の輪郭が浮かび上がった。いくつか塔のある、かなり立派な建造物のように見える。孤島に浮かんだお城。既視感をおぼえて、何だっけ、と頭を巡らせたら(気絶の最中に?)思い出した。フランスの古城、モン=サン=ミッシェル。あれとよく似ている。

「足が止まっている。進みたまえ」

居丈高な声が背後からして、驚いて振り向くとあの人だった。整然と毛先の揃った黒い髪の毛は、明るさの下で見ると、カラスの羽のような虹色をしていた。声のトーンは高めの男の子とも、低めの女の子とも取れる。背は履いている靴のせいか、私より少し高い。この人、何者だろうか。

「私はリカー。リカと呼んでいい。酒神の使徒だ」
「あなたあの席の」
「夢だと思っているなら否定する。これは現実」
「え、どう見てもそうとは・・・」
「これからあの城に行ってもらう。説明はそこでする」
「何で?何しに行くの」
「進まないか。時間の無駄だ」

なんて不親切な、尊大極まりない態度。たとえ夢でも少しくらい、現状を受け入れる時間をくれるものだ。私は男ですか女ですかという質問をしたくても、世情を気にして差し控えているというのに。

「わかったよ、あの建物に行くの?」
「それ以外に何がある」
「そうだけど、目的は」
「貴酒の手ほどきを受けてもらう」
「きしゅ?」
「酒を貴ぶ。文字通りだ」
「いい、家に帰る」

リカーという名のその人は、私の訴えを完全に無視して、勝手に城の方へ進んで行こうとする。残念なことに、まともな会話が成立しない。困った。でもまあ、現実の体が気絶しているならどこへ行ったって同じか。それに、お城の内部がどうなっているか、ここまで来たらやはり気にもなる。私はリカーの後を追って、城へ向かうことにした。

 白砂の道を歩き続けて、とうとう城の目の前まで来た。白と黒、ツートーンのその城は、間近で見ると、天まで届きそうなくらい高さがある。霧に濡れて光る木の扉が、少しだけ開いているのが門の向こうに見えた。その隙間から一人の人物が顔を覗かせ、こちらへ近づいて来ると、門を開いて私たちを招き入れた。

「君のことを待ってたよ、さ入って入って」
「こちらはアルコ。同じ使徒で、私の片割れ」
「アルでいいよ、みんなそう呼ぶ」

現れたのは、リカーと全く同じ見た目の、口調は柔らかで親しみやすい人だった。顔も髪型もそっくりだ。双子というが、ドッペルゲンガーを疑ってしまう。貴酒などと、何のことかよく考えもせずついて来たが、ここでお酒を飲まされるのだろうか。あの宴会に比べたらずっと静謐で綺麗な所とはいっても、結局私は、同じ過ちを繰り返しているではないか。意思が弱いばかりに。

「ここで君に植え付けられた、悪酒観を浄化します」
「あくしゅかん??」
「酒は本来、清いもの。だが先刻のような飲み会で、清い酒も穢されてしまう。吐くために飲むなど、神への冒涜だ」
「そう。君を救ってあげたくて呼んだんだ」
「それで、酒神はどちらに」
「忙しいお方だ、今はヨーロッパに居られる」
「葡萄園の偵察だろうね」
「ピノ・ノワールか」
「君にも飲んでほしいな」
「よく分かりませんけど、私はお酒が、」
「では始めよう、こちらへ」

ひどい。この人たちは、人の話を聞くという基本的な教育を受けてこなかったのだろうか。ってこれ、さっき人の質問を音楽のように聴いてた私への罰?



 リカーの誘導のもと、はじめに蒸留室なる部屋に案内された。ここはありとあらゆるお酒を蒸留するための場所だという。見上げると、いつかクラフトビールの工場を見学した時に目にしたような、いくつものパイプに繋がれた機械が盛んに稼働している。ここにある機械は全て透明なガラス製で、中の液体が細かな泡をともなって上がったり下がったりしているのがよく見えた。

蒸留室、精製室、発酵室、熟成室、保管庫など、城にはお酒に関わる部屋が数知れずあって、さらに進むと〈記録と資料および試飲室〉という、いわば研究室のような部屋にたどり着いた。どうやらここで、私は何か教えを賜るらしい。根も葉もない宗教の布教活動とかじゃないといいけど。いや、大いにあり得るから、夢であることを祈る。

 通された部屋には、中央に落ち着いた色合いの木の椅子と長テーブル、部屋を囲むように置かれた書棚、天井には小さな葡萄の彫刻があしらわれたシャンデリアが下げられていた。テーブルの上には、種々様々な形体の、値の張りそうなグラスがずらりと並んでいる。居心地の良さは申し分ない。心の平静を取り戻せそうな空間だった。酒神の使徒たちは椅子を引いて私に勧め、アルが分厚い本を持って私の正面に向きあうように座る。リカは戸棚の奥に見えなくなったと思うと、色とりどりの酒瓶を詰めた木箱を重そうに抱えて戻ってきた。歩く度、がちゃがちゃと瓶がぶつかり合う。

「今から君に、真の酒の嗜みを教えよう。用意したのは全て、麗しの貴酒。神も認める一級品ばかりだ」
「うるわしのきしゅ」
「馬鹿みたいに繰り返さずともよい」
「だってまた、大層なお言葉遣い」
「当たり前だ。君を見ていてすぐに分かった。あいつは酒というものを知らない、もしくは誤った不遜な認識を持っていると」
「やっぱりあなた、あの席にいた人?」
「あれも使徒活動の一環」
「リカは諜報員なんだ。人間界の飲み会に紛れ込んで調査をしてる」
「風紀委員みたいね。だけど、私を更生しようとしても意味ないよ。お酒に良いも悪いも感じてない」
「嘘だ。あれほど頑なに飲もうとしなかったではないか。君だけが唯一」
「飲めないから。体質で無理なの」
「飲めない?そんなことがあるか」
「飲んでみようよ。美味しいよ」

ふたり揃って、切ないほどの理解力のなさだ。使徒がこれでは、神もさぞ苦労することだろう。私の言葉を、嘘かデタラメだと信じ込む彼ら。自らが最も崇めているものを体が受け付けないなんて、想像も出来ないのだ。酒神、どこかに居られるなら、そろそろ私を家へ帰してくれませんか。でもこんな状況も、お酒が飲めたらきっと楽しいのでしょうね。リリィがこの世からいなくなって、私だって本当はやけ酒でもしたい気分です。あ。ちょっとそれ、良い考え。

「少しだけ・・・試してみる」
「当然。そのために呼んだのだ」
「よしっと。最初はウォッカにしよう」

リカが持ってきたガラス瓶の中から薄紫色の小瓶を取り出し、栓を抜いて、無色透明の液体を氷塊の入ったグラスに注ぎこむ。液体のつめたさでグラスは一瞬白く曇り、氷がカランと音を立てた。

「これは、ヨーロッパで最初に出来た蒸留酒。12世紀頃にモスクワ公国で誕生したんだ。当時は生命の水とも呼ばれてた」
「ウォッカの歴史はウイスキーやブランデーよりも古い。ライ麦など穀物が原料で、白樺の炭で濾過して作る」
「カクテルのベースか、ロックで飲む人が多いね」

アルがお酒の辞典と思われる本の頁を繰りながら話し、リカはそれに補足を加えながら、ウォッカの概要を説明する。どうぞ、と渡されたグラスを受け取り、私は思い切って飲み干した。グラスに入ったお酒はほんの少しだったが、額を突かれるようなアルコール度数の高さ、すでに目が回りそうだ。

「次はジン。ウォッカ、テキーラ、ラムと並ぶ、世界四大スピリッツとされているお酒だよ」
「オランダの博士が植民地の熱病対策のために開発したのが始まりで、もとは薬用酒だった」


 こんな調子で、延々とお酒の教義が繰り返されていった。リカが注ぎ、アルが説明し、私が飲む。色も香りも異なるお酒が、それぞれに相応しいグラスに注がれていく様子は見ていて愉しかった。琥珀色のウイスキー、黄金色のビール、桜色のロゼ。各々のお酒が持つ背景や製法、ブランド名を聞いては香りを嗅ぎ、味わい、また聞いては味わう。なにしろ気絶中なのだ、体質なんか、ここでは関係なかった。ブランデー、ワイン、リキュール、焼酎、日本酒。一体何種類のお酒を嗜んだことだろう、あらゆる言葉と香りと味とが入り混ざって、お酒の酔いはどんどんまわって、もはや異星に来た心地。ロマネ・コンティ。山崎。カヴェルネ・ソーヴィニヨン。アルマニャック。マッカラン。モスコミュール。霧島。ジョニー・ウォーカー。ヴーヴ・クリコ。純米吟醸。ドンペリ。


それからの記憶は、残っていない。




 朦朧とした意識の中で、コート、コートとそれだけを、呟いていたのを耳が覚えている。その後、何かに乗ってゆらゆらと、聞こえる音はさくさくと、この身に何が起きていたのか。飲み会に行って、倒れた? 頭が少し重くて、鈍く痛む。胸焼けもする。でも飲まされはしなかったような・・・。まったく世話の焼ける、というその台詞が誰のものだったか、もう思い出せない。霧が晴れるようにいつしか感覚が鮮明になって、瞼を開けたら、家の玄関前にうずくまっていた。ちょうどその時、ごみを捨てに外に出てきた母が私を見つけ、驚いて言う。

「ちょっと何してるのそんなとこで!もしかしてお酒飲んだ?」
「飲んでない・・・と思う」


 立ち上がる時、夜風が吹いた。なぜだか肩に掛けられている買ったばかりのコートから、ふんわりと甘い、ブランデーの香りがした。


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