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Nocturne

いつかの世界の、夜がきらいな女の子のお話。


 いつからか、日が暮れるのが早くなって、昼が1時間ごとに短くなった。ついこの前まで3時間くらいはあったのが、1時間に、20分に、3分になって、最近は、おはようの「よ」を言い終わるか終わらないかのうちに、もう夜がくる。あえて言うなら、「おは」が午前で、「よう」が午後というわけだ。夜は長い。といっても、昼の長さに比例して長くなるというわけじゃなく、夜そのものの時間はずっと変わらない。瞬く間の午前と午後のそのあとに、いつも通りの夜。1日が半分になった。いずれ、「お」すら言えないまま夜がくる世界になって、ついに、永遠の夜が世界を満たすのかもしれない。日々、当たり前のように10時間近くも光を享受していたというその時代に、私は生まれてみたかった。


 「おは」のうちに出来ることなんか、あるわけがない。事実、「おはよう」という時間すら惜しく、誰とも目を合わさずにおはようを口の中で言って、まっすぐ窓に目をとばす。光が見たい。光は希望であって、生命のよすがである。光を見ないで夜が来た日は、虚無。あってないような1日になる。多くの人は光を見たいので、みんなが同じ時間に、朝日が昇るのを見計らって起きる。とうに光を諦めた人は、夜になってから気怠げにのろのろ目を覚ます。夜は暗い。電気をつけなくちゃならない。電気は人工の光だから、その下に照らされている限りは生きているというより、生かされている状態になる。人びとは徐々に、都会のビルで育った野菜みたいになりつつあった。見た目には変わらないが、生命力に劣る。私はというと、すでに生きる意欲を失いかけていた。物語に出てくる、朝日を浴びたり、光の反射する川を眺めたり、木洩れ日の小道をたどったり、そういうことがしたくて、さっぱり乾かない洗濯物も、街灯に群がる羽虫や蛾も、見飽きたネオンばかりの景色も、夜の全部全部、許せなかった。


 昼がほぼなくなっても、おそろしく肥大した太陽が一瞬のうちにこの星を温めるおかげで、氷河期は来ていない。それに夜だからと、生きられないことはないのだ。電気をつければ明るいし、そうやって昼を演出しているところもある。こぞってその競争を繰り広げている百貨店や駅ビルは、偽りの光で買い物客の心を浮き立たせ、購買欲を唆す。見る限り、レストランやカフェはどちらかというと、夜を味方につけているお店が多かった。ゴッホが描いたような夜のキャッフェにお洒落なバア、モノクロ映画のレイト・ショウに会員制クラブ。エモーショナルだかなんだか。都会は1日中、そんな風に大人が愉しむ街になっていて、大人になれずに居場所をなくした子どもたちは、仕方なく隅っこでわびしい天上の星座を数えている。思い出すと最初の頃は、白夜の逆みたいな高揚感で、誰もが浮かれ気味だった。学校に仕事に、いそいそとランタンをつり下げて行く人もいたし、しゃらしゃらしたシルクやサテンの服が流行った。でも、夜から特別さが失われていくにつれ、人びとは二分化されていった。一方は夜の民となり、他方は僅かな光にすがった。夜だから、という理由でお酒を飲んで騒いだり、夜景にうっとりしたりはできなくなったのだ。彼らは朝がくると、われもわれもと押しのけるように朝日を拝み、光を目に焼き付けたあとは、放心したように夜をやりすごす。生かされている野菜たちは、濁った魚のような目で、ふらふら暗がりを彷徨い歩く。私もまた、その群れの一匹だった。


カラン、カララン


 銅製のベルのついた重たいオーク材の扉を押し開けると、深煎りコーヒーと古い倉庫とケチャップの混ざりあったような匂いと、暗がりをぼんやり照らす暖かい洋燈の光とが、ふわりと私の身体を包み込む。そのまま夜の闇から逃れるように、ドアから身をすべり込ませ、ようやくほっと息をつく。夜から逃げてばかりの私は、いつしか毎晩、この喫茶店に通うようになっていた。


「おはよう、グリーンガール。今日も生きてるね」


 この喫茶店のマスターは年齢性別国籍不詳、いつからこのお店をやっているのかも、もしくは引き継いだのかもわからない、奇しくも陽気なひとで、私は彼(彼女?)を、「トルネード」と呼んでいる。初めてここへ来た時、私は山奥のもみの木みたいな深緑色のワンピースを着ていて、このひとは私をグリーンガールと呼んだ。あの頃はまだ少し昼に長さがあって、これが最後と毎日いろんな色の服を着ていた。そのお返しに、私も名前をつけることにし、「tornado」という文字が刺繍されたニットを着ていたから、そうなった。だいたい、喫茶店の柱となるマスターが、そんな物騒な単語の入った服を着ているなんて、よろしくない。マナー違反だ。喫茶店というのは、心を癒す安らぎの空間であるべきで、そのマスターともあれば、口数少なく、決してからかうようなふざけた物言いをしたり、余計なお節介を焼いたりしない、場の雰囲気をみだすような荒くれた要素を1ミリたりとも表出することのない、穏やかさと謙虚さを兼ね備えているものだ(というのが、私の持論)。それがよりにもよって、大竜巻。喫茶店に似つかわしくないにも程がある。そんな皮肉を込めて名付けたのに、意に反して当人はどうやら、いたく気に入ってしまった。


「おはようって、もう夜じゃない。いつまでたっても、夜ばっか」

「夜ぎらいだねえ、相変わらず」

「誰が夜なんか。あなたくらいだよ、そんなへらへらしているの」


トルネードはふふと笑って、私のコップにお水を注ぎ、手書きのメニューを置いた。相変わらず、意味もなく楽しそうだ。羨ましい。毎日のことだから、私はメニューをほとんど暗記している。私が何を頼むか、このひともきっと知っている。それでも毎回、こうしてメニューをきちんと渡して選択権をくれるのが、なんだか嬉しくもあった。


「ラトナピュラに氷を4つ、濃いめに。あと今日はピラフが食べたい」


──たまには優しさに甘えて、いつもと違う注文をしてみたかったり。


「珍しいね。火曜日はアールグレイとオムライスじゃなかった?」

「今日はシーフードの気分。チキンじゃなくて」

「承知しました。ご用意しましょう」


ここで終わるなら真っ当なマスターと言ってもいいけれど、前菜にグリーンカールのサラダを出してくるのは、どうなの。他のテーブルを見渡せば、人参のラペとザワークラウト。からかわれている、完全に。


 それはそれとして、この喫茶店、なかなか良いお店であることは真実。毎日来るには理由がある。闇の中に柔らかい光が浮かんでいたら、誰だって入りたくもなる。私も所詮、虫なのだ。しかし、こんな夜ばかりの世界になったのに、この喫茶店が人でごった返しているのは一度も見たことがない。ほどよくお客が出入りし、静謐さと和やかさの調和がとれている。この世に私と同じ人間が何人もいたなら、この喫茶店は連日長蛇の列だろう。案外この世界のバランスも、全部がぐちゃぐちゃというわけではないようだ。


 ほどなくして、トルネードが紅茶の入ったティーポットを運んできてくれた。熱い紅茶に、氷をことんことん、と落として飲む。アイスティーより紅茶はやっぱりホットがよくて、猫舌に氷は必須で、だから氷は数個で足りる。入れた途端にしゅるしゅるほどけて、細かい泡から白い筋になって、跡形もなく溶けきったら、お飲み頃。


「それで、昨日はちゃんと寝たの」

「寝てない。眠くないし」

「それは良くないな・・・人間寝てないと心がなくなるんだよ、前頭葉が衰退して」

「そうなの? もう心とかどっか行った」


夜が一瞬でくるようになってから、私の生活に睡眠という習慣がなくなった。光のために起きるけれど、寝るのはいつだっていい。ほとんど活動していないのだから。眠くなったら寝て、眠くない日は寝ない。思い返すと最近は、机でうたた寝したのが3日前くらいだった。


「だめだよ、心を失くしたら人間じゃなくなっちゃうでしょう」

「じゃあ人間の姿したなにかになる」

「まあまあ、悪いこと言わないから、今夜はしっかり寝なさい」


このひとは、たまにお母さんみたいなことを言う。お父さんというより、お母さんなのだ。ふざけてるのかからかってるのか大事にされてるのか、さっぱりわからないから話を逸らす。


「ねえ、ノクターンてなに。このお店の名前」

「さあなんでしょう、きみの嫌いなものと関係があるね」

「嫌いなもの? 毛虫かな」

「それは違います」


ずっと気になっていた。訊こうと思えばいつでも訊けたのだけど、ノクターン、というそのオトの、暗いような明るいような響きだけの心地よさがお気に入りで、まだしばらくは、意味を与えずにそっとしておきたい気持ちがあった。


「今日こそちゃんと寝るって約束したら、教えてあげよう」

「わあ、交換条件。取引はしない主義」

「なら教えません」

「やだ寝る、5分寝る」

「5分で心は無理ですね、おそらく」

「3分でグラタンができるなら、5分で十分」

「あれは下準備が完璧だから成せる技であって、実質3分じゃない」

「ああ闇だーーーおとなの闇だ」


くだらないです。ご覧の通り。私は、自分のくだらなさをちゃんとわかっている。それでも私は、こんなやり取りをずっとしていたくて、永遠に続いてほしくて、毎日ここに来ているのじゃないかしら。この窓に映った暖かな光、飲めなくても大好きなコーヒーの香り、つやつやした木のテーブル、たわいもない会話。夜が暗くなくなる場所。ピラフ、初めて食べたけどこれは美味。普通のピラフかと思ったら、海老はほどよい柔らかさに茹でられ、魚介類のスープがしみ込んだお米に、ちょっぴりビネガーもきかせてある。トルネードの味覚はやっぱりセンスあるのだ、それは認めるしかない。


「まだコーヒー、飲めないんですか」


──トルネードがにやにやしながら、私の顔を覗き込んできた。まさかまさか、私がそんな子どもだとでも?


「飲めないんじゃなくて飲まないだけ、カフェインは紅茶で摂ってる」

「今夜は飲んでみませんか? とっておきのをお淹れしますよ」

「いい。第一、コーヒー飲んだら眠れなくなるよ。寝ろって言ったくせに」

「とっておきは眠れます。それに、ものは試しと言いますから」


トルネードは、私の言うことなどお構いなしに、すたすたとコーヒーを淹れに行ってしまった。コーヒーは苦いじゃない。飲めないんだって。さあどうする、私。無理して飲む?白状する?

ああでもないこうでもないと考えているうちに、もう、トルネードがにっこり笑いながらあらわれて、私の前に湯気のたつ淹れたてのコーヒーを置いた。うん、良い香り。でも。


「さ、飲んでみて。美味しいから」

「じゃあ、いただきます・・・」


私は渋々、なんてことないような顔をつくって、そろそろとカップに口をつけた。あれ。薄いわけではないのに苦くなく、酸味もなく、じんわり深みのある味がして、口あたりはまろやか。これは、たしかにちょっと美味しいかも。


「美味しいでしょう」

「これ、どうやって淹れたの」

「ノクターンをきかせてね」

「えっっ毛虫」

「だからちがうって」


トルネードのコーヒーは、嘘じゃなく、本当に美味しかった。苦くないコーヒーは飲んだことがなくて、どんな表情をしたらいいかわからない。コーヒーの良い香りをかいだときの、その良さがそのまま雫となって滴り落ち、飲み物になったといったらいいだろうか。滋味深い味。とにかく、私は生まれて初めて、コーヒーを美味しいと思った。ノクターンって、きっと魔法のことなんだ。


「ありがと。目は覚めちゃうかもだけど、すごく美味しかった。また淹れてくれてもいいよ」

「一杯1500円頂戴いたします」

「たっか! 悪徳商法だ・・・」


 喫茶店にいるのは、そんなに長い時間じゃない。食べ終わって一息ついたら、みんなそそくさと席を立つ。夜は長いけれど短くて、1日に使える時間があまりないこのご時世では、人の時間を無駄にしないよう気遣うのが常識化している。喫茶店も、午前3時には閉店。私はといえば、この後にすることがあるわけでもなく、無駄に時間をすり減らしているばかりなのだが。


「今夜はちゃんと眠るんですよ、わかりましたねグリーンガール」


黒いコートのフードを目深に被り、グリーンガールというよりモノクロずきんのような格好の私を、トルネードが出口まで見送りにくる。はいはい、寄り道しないで前だけ向いて、オオカミに遭ったら逃げるのね、お母さん。わかってるわかってる。


「また前みたいに、グリーンもイエローも着たらいいのに、似合ってたよ」

「光がなければ白黒だもん」

「そんなことない。闇もまた色だし、見えなくても色は楽しめる」

「どうやって?」

「想うんだよ。見えないものは、想うことで、見えるようになるんだ」

「ふうん。想う、か」

「そう」

「おやすみトルネード、また明日」

「おやすみなさい」


私は再び、歩き出す。
夜に向かって、闇のなかへ。
光のない世界へ。
背後の暖かい橙色の光が消える前に。
まっすぐに、振り返ることなく家路をたどり、新しい光を待つのだ。
たとえそれが、ほんの一瞬で消えてしまうものだとしても。



 ふわぁ、とあくびが出て、あれおかしいなと思った。眠いはずないのに。だって私はさっき、紅茶を2杯に、人生初のブラックコーヒーまで飲んだのだ。それなのに、久しぶりに、こんなにちゃんと眠い。


あ、もしかして。
・・・・ノンカフェイン?


とくん、と何かが鳴った、ような気がした。
と同時に、温かい何かが満ちてくる、ような気もした。
いえいえ、そんな。
私は心なんて、どこかへ置いてきたんだから。


暗がりにぽっと浮かんだ洋燈の灯みたいな優しさは、二度目のあくびと一緒に夜空に溶けて、涙が出るのは、きっと眠いせい。



とはいえ。
きっとこの先、あのオトの本当の意味を知ったとしても、私にとってはおそらく永遠に、ノンカフェイン、になってしまうのだろうな。




──黒から紺へ、紺から青へ。

ほのかに明るみ始めた東の空を見上げて、私は思わず、足を速めた。


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