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銀色の人

夜中にぱちりと目が覚めた。午前1時半。
はて、何で目が覚めたのかな、と考えていると、窓の外から人の声が聞こえた。

我が家のマンションの一階は飲食店だし、すぐそばは大通りの交差点だしで、夜中に酔っ払いの大声や緊急車両の音がするのは珍しい事ではない。

なのでその時もただ、ああ酔っ払いが喧嘩でもしてるのか、と思って、また眠りにつこうとした矢先、また声がした。
大きい。しかも近い。
近い?うちは5階だぞ?

いつもと違う感じに興味がわき、私は起き出して声がした方角の窓を開けた。
ガス臭かった。
外が。
そして、下の階の外廊下で、消防隊員と思われる、全体に銀色をした人が「避難してください!」と誰かに叫んでいた。
マジか。しかし私は強度近視なのである。そして今は裸眼。まるで見えない。だから多分、あの人は消防士さん。そんな感じ。

とにかく急いで窓を閉め、深い寝息を立てている夫の肩を揺さぶり、
「外がガス臭い。ちょっと外の様子見てきて」
と言った。実はあまり反応は期待してなかったのに、夫は飛び起きてパーカーをはおり、玄関に向かった。
こんな夫は初めてみた。

ピンポンピンポンピンポン…!!
ガンガンガンっ…!!
夫がドアノブに手を伸ばした瞬間、激しくチャイムが鳴らされ、ドアが叩かれた。

ドアを開けると、銀色の人が立っていた。やっぱり消防の人だった。
「南棟の3階の一室でガス漏れが発生しています。しばらくの間、外に避難してください!」

ああやっぱり…。
軽く「めんどくさいなあ」と思いながら部屋にとって返し、娘を起こす。あまり怖がらせてもいけないので、ごく気軽な口調を心がけることにする。

「お~い、お~い、ちょっと起きてくれるかな~?」
夫と違って、こちらはちょっとやそっとじゃ目を覚まさない。ガクガク肩を揺さぶると、やっと反応があった。
「…なに…?」
「あのさぁ~、今学校で、オリオン座の観察やってるって言ってたよね~?ちょっと、夜中のオリオン座がどこにあるか、観察してみない?」
「…今何時…?」
「一時半」
「…いや…いいよ…大丈夫だから…ありがとう…」
「だよね~そうだよね~。でもさあ、ちょっと消防署方面からお誘いが来ててさ~。なかなかこれは断れないんだよね~」
「…意味が分からないよ…」
「だよね~お母さんもあんまり分かりたくないんだけどね、まあとにかく起きてくれると嬉しいなあ」
「…何なの…?」
不承不承と言う感じで半身を起こした娘に、すかさず夫が上着を着せ、首にマフラーを巻きつける。

ちょっと考えて、結局持ち出すものは財布と携帯だけにした。まあ大事にはならんだろうという希望的観測を込めての判断で、根拠は何もない。正常性バイアスと言うやつだったかもしれない。それと星座観察のための双眼鏡。強度近視の私には必要なのである。
いざドアを開けると、いつもとはちがう景色が広がっていた。
緊急車両の明かりのせいか、まず外が明るい。そして外階段に人がぎっしり立っていた。その人たちは3階あたりに多くいて、みんな同じ方向を見ている。ガス漏れ会場がそこにあるのだろう。

「何号室の方ですか」
銀色の人が近づいてきて聞いた。点呼だ。
「しばらく、敷地の外にいてください。もう皆さん避難されていますから」

見ると一階にも沢山の人が寒そうに腕組みをして立っていた。
私達はもしや、逃げ遅れているのだろうか?ちらっと嫌な気分が頭をよぎる。

「うわ~すごい!消防車が4台もいる~!!パトカーも2台いるよ!すごいすごい!!ねえ、ちょっと見に行っていい?」
娘はすっかり眠気もさめ、目の前に広がる非日常の光景に興奮していた。ついでにオリオン座の事も忘れてしまっているようだ。

寒空にじっと立っているだけというのも芸がないので、三人でマンションの周りを一周することにする。
娘は最近、社会で消防署と警察について勉強したらしく「この間学校に消防車が来たけど、4台は来なかったなあ~。なのにうちに来てくれるなんて…!」などと言いながら、習ったことが目の前の事と同じだと私たちにまくしたてた。

南棟のベランダが一望できるところに来て上を見ると、一か所だけ明かりが煌々とつき、しかも窓が全開になっていて中からいろんな声が聞こえてくるところがあった。
あそこか!
まあとにかく今は火は出ていない。このまま無事速やかに作業を終えていただきたいものだ。そして私を部屋に帰していただきたい。もうそこそこ、体が冷えてきた。さすがに2月の夜は冷え込みが厳しい。

ぐるっと一周して戻って来ると、顔見知りの人に会った。下の階に住んでいて、会うと話をしたりする年配女性だ。
声をかけると、彼女はちょっと離れたところに立つ2人を指さし、「あの人の部屋からガス漏れしてん」と教えてくれた。
初老の夫婦が私達と同じように、寒そうに立っていた。なぜそんな、被害者っぽい風情で立っているのか?
「なんかようしらんけど、突然『シュー』言うてガスが出て来たらしいねん。『うち、ガス止められてんのに』って言うてはったわ」

嘘だ。
部屋の明かりはついていた。
ライフラインは普通、電気、ガス、水道の順に止まる。電気がついていて、ガスだけとまることはないはずだ。だから嘘だ、と思った。一体、何をしていたら夜中にガスがシューと突然出てきて止まらなくなるというのだろう?
考えても良く分からないので、しばらくの間、私は井戸端会議に花を咲かせてみた。時間つぶしにはちょうどいい。

避難して1時間が過ぎたころ、1、2階の部屋に帰宅が許された。
それから20分ほどして、私たちも帰宅することが出来た。しかし現場の上下の部屋の人はまだ帰れない上に、明日はガスが使えないらしい。何という災難だろう。気の毒に。間もなく私は念願の布団に帰ることが出来たが、体が冷え切っていて、なかなか眠りにつくことが難しかった。ああ、明日、いや今日も仕事なのに…寝不足だよもう…。あの夫婦、明日は菓子折り持って謝りにくるくらいのことはしてほしいもんだわ…なんて毒づいているうちに寝てしまった模様。

翌朝は、いつもとまったく変わらない日常だった。緊急車両もなく、外は静かに晴れていた。
すべてが、昨夜の騒ぎなどなかったかのように、いつも通りであった。

もしや、あれは夢だったのか…?と思いながらリビングに行くと、かばんが普段は置かないテーブルの上にあった。片付けようと中身を出すと、財布と携帯と双眼鏡が入っていた。やはり、夢ではなかったのだ。
双眼鏡…全く意味のない避難グッズであった。
ああ、避難するならもっと他に必要なものはあったはずである。次はこの辺の改善に挑まねばなるまい。
日常が戻ってきた安心感が私を包む。もう一度窓の外の日常を確かめてから、いつもと同じように、朝の支度を始めた。

ガス漏れの原因は、結局分からなかった。

#エッセイ #しづの#ガス漏れ#非難

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