ノンフィクション「逆転」事件(H6/2/8)

【概要】


ノンフィクション賞の中でも最も権威のある賞の一つである大宅壮一ノンフィクション大賞第9回に輝いた伊佐千尋(本件、上告人)の『逆転』という作品での表現の自由が問われた裁判。
1964年当時アメリカ合衆国の統治下にあった沖縄県宜野湾市で日本人4人とアメリカ兵2人の間でけんかが発生、アメリカ兵1人が死亡、1人がけがをした。日本人4人が逮捕され、アメリカ合衆国琉球列島民政府高等裁判所の陪審評議の結果(アメリカ統治下の沖縄では当時は陪審員制だった)、 4人は有罪になった。
伊佐はこの時の評議員の一人であり、その後、この時の被告人らの無罪を確信し、その名誉回復を図るために発行したノンフィクションが『逆転』である。出版当時、既に刑期を終えていた被告人4人のうち、1名は死亡しており、2名からは実名表記の了承を得ていたが、残り1名が所在不明であったことから、伊佐はその了承を得ないまま被上告人の実名を使用して刊行に踏み切った。
一方、被上告人は本件事件のこともあって沖縄での生活が上手くいかず、やがて沖縄を離れて上京し、就職・結婚。会社にも、妻にもこの前科の事実は隠していた。そもそもこの事件は当時の沖縄では大きく報道されたものの、本土では話題にならず、被上告人の前科に関わる事実を知るものは東京にはいなかった。そこで、本件『逆転』の出版によってプライバシー侵害による精神的苦痛を被ったとして民事訴訟が提起されたものだ。
さて、ノンフィクションで実名を公表する利益と、前科を公表されたくない利益のどちらが勝つのか、表現の自由をめぐって最高裁まで争われ、後者が勝ち損害賠償が認められたのが本裁判である。

【条文】


条文を確認しておこう。まず、今回の論点ではないが、いわゆる慰謝料請求の規定は民法にあり、

第七百九条 故意又は過失によって他人の権利又は法律上保護される利益を侵害した者は、これによって生じた損害を賠償する責任を負う。
(財産以外の損害の賠償)
第七百十条 他人の身体、自由若しくは名誉を侵害した場合又は他人の財産権を侵害した場合のいずれであるかを問わず、前条の規定により損害賠償の責任を負う者は、財産以外の損害に対しても、その賠償をしなければならない。

そして、今回の争点である「表現の自由」は憲法に
第二十一条 集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

とある。今回はこの出版の自由がどこまで認められるか、というものである。

【判決】

判決文は
1) 前科については、その者の名誉あるいは信用に直接かかわる事項なので、みだりにこの前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する利益を有する
2) 一方で、事件それ自体を公表することに歴史的または社会的な意義が認められる様な場合には、一定程度実名を明らかにすることが認められるべき。例えば、その者が選挙によって選出される公職にある者あるいはその候補者など、社会一般の正当な関心の対象となる公的立場にある人物である場合には、前科等の事実が公表されたとしても違法とするべきではない。
 と云ったことを前提に、「陪審制度の長所ないしは民主的な意義を訴え、当時のアメリカ合衆国の沖縄統治の実態を明らかにしようとすることを目的としたものであり、そのために本件事件ないしは本件裁判の内容を正確に記述する必要があった」というこの『逆転』について一般人の実名まで明らかにする必要があったのか、について必ずしもその必要があるとは言い切れない、と判示した。

(判決文)
要するに、前科等にかかわる事実については、これを公表されない利益が法的保護に値する場合があると同時に、その公表が許されるべき場合もあるのであって、ある者の前科等にかかわる事実を実名を使用して著作物で公表したことが不法行為を構成するか否かは、その者のその後の生活状況のみならず、事件それ自体の歴史的又は社会的な意義、その当事者の重要性、その者の社会的活動及びその影響力について、その著作物の目的、性格等に照らした実名使用の意義及び必要性をも併せて判断すべきもので、その結果、前科等にかかわる事実を公表されない法的利益が優越するとされる場合には、その公表によって被った精神的苦痛の賠償を求めることができるものといわなければならない。なお、このように解しても、著作者の表現の自由を不当に制限するものではない。けだし、表現の自由は、十分に尊重されなければならないものであるが、常に他の基本的人権に優越するものではなく、前科等にかかわる事実を公表することが憲法の保障する表現の自由の範囲内に属するものとして不法行為責任を追求される余地がないものと解することはできないからである。この理は、最高裁昭和二八年(オ)第一二四一号同三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁の趣旨に徴しても明らかであり、原判決の違憲をいう論旨を採用することはできない。

そこで、以上の見地から本件をみると、まず、本件事件及び本件裁判から本件著作が刊行されるまでに一二年余の歳月を経過しているが、その間、被上告人が社会復帰に努め、新たな生活環境を形成していた事実に照らせば、被上告人は、その前科にかかわる事実を公表されないことにつき法的保護に値する利益を有していたことは明らかであるといわなければならない。しかも、被上告人は、地元を離れて大都会の中で無名の一市民として生活していたのであって、公的立場にある人物のようにその社会的活動に対する批判ないし評価の一資料として前科にかかわる事実の公表を受忍しなければならない場合ではない。
所論は、本件著作は、陪審制度の長所ないし民主的な意義を訴え、当時のアメリカ合衆国の沖縄統治の実態を明らかにしようとすることを目的としたものであり、そのために本件事件ないしは本件裁判の内容を正確に記述する必要があったというが、その目的を考慮しても、本件事件の当事者である被上告人について、その実名を明らかにする必要があったとは解されない。本件著作は、陪審評議の経過を詳細に記述し、その点が特色となっているけれども、歴史的事実そのものの厳格な考究を目的としたものとはいえず、現に上告人は、本件著作において、米兵たちの事件前の行動に関する記述は周囲の人の話や証言などから推測的に創作した旨断っており、被上告人に関する記述についても、同人が法廷の被告人席に座って沖縄へ渡って来たことを後悔し、そのころの生活等を回顧している部分は、被上告人は事実でないとしている。その上、上告人自身を含む陪審員については、実名を用いることなく、すべて仮名を使用しているのであって、本件事件の当事者である被上告人については特にその実名を使用しなければ本件著作の右の目的が損なわれる、と解することはできない。
(中略)
以上を総合して考慮すれば、本件著作が刊行された当時、被上告人は、その前科にかかわる事実を公表されないことにつき法的保護に値する利益を有していたところ、本件著作において、上告人が被上告人の実名を使用して右の事実を公表したことを正当とするまでの理由はないといわなければならない。そして、上告人が本件著作で被上告人の実名を使用すれば、その前科にかかわる事実を公表する結果になることは必至であって、実名使用の是非を上告人が判断し得なかったものとは解されないから、上告人は、被上告人に対する不法行為責任を免れないものというべきである。

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