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この家どうするの? (6) 家だけが
祖母は未婚で父を産みました。
戸籍では、祖母と父は歳の離れた姉弟。この事実は真実を越えることはできませんでした。
祖母の離婚を知る
父を連れ子に、嫁ぎ先で男女を出産した祖母でしたが、離婚していました。
てっきり戦争で相手がいなくなり……と思っていましたが離婚とは。
わたしが、ものごころついた頃は、もう「祖父」らしき人はいなかった。
「おばあちゃん」はいるが「おじいちゃん」は戦争で死んだ……実際、そんな家も多かったのだ。
わたしの子どもの頃は、おばあちゃんたちが町に溢れていた。
おばあちゃんたちは、若い頃にオシャレができなかった。パーマも禁止。
着物と食べ物を交換して、ひもじい時代を過ごした。
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そして平和になった。今度は、おばあちゃんたちが、寂しさを埋める番だ。
ド派手なヒョウ柄の服を着てアクセサリーを着けた。
ひとりになった自分を慰めていたのかもしれません……
おおきな買い物
わたしの祖母も例外でなく、帯や大島紬の着物・陶器・日本人形……
気がついたら買っていました。金額より量が多くて。百貨店の紙袋もありました。
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働き詰めだった祖母。
ストレス解消のため
「買い物症候群?依存症?」
になっていたんだと思います。
最後は「家」を、三人の子どもたちに買いました。
父と、弟(叔父)・妹(叔母)に。
わたしは、いまになって経営上手な祖母に驚愕しました。
家を何軒も……。子どもの頃はそんなことまで、思いもしなかった。
さすがに父の「仕事場兼自宅と別荘」は父名義になっていました。
祖母に雇われの父は、口数も知り合いも少なく生きられた。
弟と妹とは一切、関わらなかった。近所に住んでいたのに。
よっぽど嫌な思いをしたのだろう。
いつも祖母に守られていた父は、幸せだったと思います。
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祖母の他界
創業者の祖母が他界すると、当然のように父の仕事が減っていきました。
父は何も言わなかったし、できなかった。
父は祖母の葬儀の喪主と費用の支払いのみ引き受けた。
弟と妹が、押し付たのかもしれない。
わたしは、結婚したばかりだった。祖母にも父にも反発し家に寄りつかなくて勝手に生きていた。
30歳まで、ご縁がなかった孫が片づいたのを見届けて、祖母は安心して旅立ったのだろう。
世間的には父は長男。
戸籍上では父は祖母の妹。
祖母の遺産は全額、弟と妹へ。
「家」が父名義なのが幸いだった。
住むところだけ、家だけが。
父は仕事を廃業し、仕事場兼自宅を処分しました。
そして別荘を「終の棲家」にしたのです。
晩年は年金生活でひとりを楽しんでいたようだ。
早くに家を出て、家に寄りつかなくなった娘のことは露ほども思わず。
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父は、終の棲家の手入れや修理・改修は怠りなかった。
いつもキレイに掃除。仕事のように家を保っていた。
それは天国の祖母のため?
露ほども思わない娘のためではなかったか。
父とおなじ、無口の空っぽの家だ けが
わたしの目の前に残ったのです。
家だけが……
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「親の持ち家」の日
いつも こころに うるおいを。
水分補給も わすれずに。
最後までお読みくださり、
ありがとうございます。
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