見るモノ、見られる者/志月ゆかり

 気づいたときにはそこにいた。
 真っ黒なペンキで満たしたような闇の中。
 どろりとした空間の中に浮かんでいる。
 ここがどこなのか、私にはわからない。
 ただ、確信はあった。
 私はこの、私を取り巻くタールのような闇、そのものだということ。
 「ヒト」のような形はしていたけれども、私は決定的に人とは違う。
 「ヒト」というものが何なのかも、今一つよくわからなかったけれども。 

 何もない黒ペンキの海を泳ぐように彷徨う。
 生暖かくて、どろどろしていて、動きづらくて息苦しい。
 これは一体なんだろう。
 私は一体誰だろう。
 不安が募る。
 このまま何もない空間を、たったひとりで彷徨うのだろうか。
 足場もなく、永遠に? 

 と、思った次の瞬間、その場に半透明な「板」が現れた。
 それまでの黒ペンキと明らかに違う、水色がかった白のガラスのような板。
 その板の上に降り立つ。
 板はどこまで続いているのか、端を目で見つけることはできない。
 けれどもこれで、少しばかり動きやすくなった。
 ……まさか、私が「足場が欲しい」と思ったから、この「板」ができた?
 だとしたら。
 私は試しに、「壁を作る」と念じる。
 私が立っていた床が折りたたまれるように、四方に壁ができた。広さは十メートル四方といったところか。もう少し広い方が良い。横にもう十メートルほど広がった。さながら舞台のようだ。
 闇はいつのまにか、空気のようにさらりと居心地の良いものになっていた。

 どうやら私はこの空間をいくらでも好きなように操れるらしい。
 闇をボールのように固めて遊ぶことも、壁を越えてどこまでも泳ぐことも、ちょっとした人形を作って動かしてみることも、なんでもできる。
 しばらくそうして遊んでいると、私は妙な感覚を覚えた。
 遠くに何か見える。
 いや、見られている?
 目を凝らすと、見えたのは巨大な眼球だった。
 それもひとつじゃない。
 周りそこら中に、私の体の倍はありそうな目、目、目。
 それらすべてが、こちらに視線を向けている。
 ぞ、と体中が粟立つ。
 いつから? いつから見られていた? 初めから? どうして今まで気づかなかった?
 嫌だ。
 嫌だ、見られたくない。
 見るな、私を見るな。
 それまで遊んでいた人形を取り落として、視線を遮るようにしゃがみ込む。
 くすくすくす、と不快な笑い声が聞こえた。 

 どう頑張っても、無数の「目」から送られる視線を遮ることはできなかった。
 闇を操っても、壁を張っても、確実に視線を感じる。
 全ての「目」の注目を、私は一手に集めている。
 突き刺さるような視線が痛い。
 不快だ。私は誰にも見られたくないのに。

 
 そうしている間に、気づいた。
 この「目」には、感情のようなものがある。見たいものの好みがある。
 私が視線を遮ろうとして失敗するたびに、あのくすくす笑いが起こる。それも盛大に失敗すればするほど、笑い声は大きくなる。
 この「目」たちは、私の失敗を望んでいる。不幸な思いを愉しんでいる。
 そう理解するまでに、ずいぶん遠回りをしてしまった。 

 私は見られたくない。
 「目」たちは誰かの不幸を、失敗を、挫折を、鑑賞したい。
 であれば、やることは一つだ。
 私はそこらじゅうの闇を使って、人形を作る。
 自分の人形遊びで作っていた簡単なものじゃない。
 どこまでも精巧に。人間と見紛うほどに。
 それも一つではなく、いくつも、いくつも。
 「目」たちは、私が突然始めた人形作りを、興味深げに、また馬鹿にしたように、眺めている。 

 私は、闇の中に舞台を作った。
 作った人形たちを並べる。
 人形たちは、実在する「人間」たちを模倣して作った。私がいちいち操らなくても、自律して動ける高性能品だ。
 「目」たちが私を見ることができるように、私は無数の「人間」たちを見ることができた。彼らの中から、「目」たちが気に入りそうな人間関係を、この舞台に再現する。 

 今から何を始めるかというと、「お芝居」だ。
 「目」たちが気に入る、人間たちの失敗、挫折、関係の崩壊を描く。
 他人の不幸は蜜の味。
 鑑賞者たちがそれを望んでいるというのなら、私とは関係ないところで勝手に見ていてもらおう。
 私はそのおぜん立てだけすればいい。
 舞台の真ん中で、私は息を吸い込んで、台詞を始めた。 

「初めての君も、常連の君も、来てくれてありがとう。ふふふ。ようこそ、『おおかみさがし』へ。私はゲームマスターのシャーデンフロイデ。今回も選りすぐりのメンバーによるゲームを、楽しんでいってね?」

  そう、私はシャーデンフロイデ。
 他人の不幸を悦ぶ感情そのもの。
 私を見ていた「目」という名の野次馬たちも、私を取り巻くどろどろの闇も、私自身も、すべてが。
 他人の不幸を、見たくて見たくて仕方がないのだ。
 さあ、舞台を始めようか。

FIN.

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