息継ぎ/志月ゆかり【ボイスドラマシナリオ】

 海。
 水。
 つめたい水の底。
 深い深い水の底に、沈んでいる。
 肺に残っていた空気はとっくの疾うに使い切ってしまっていて、
 手を伸ばした先にわずかにできる気泡などはなんの役にも立たない。
 息苦しくて、生き苦しくて、仕方がない。 

 水の中に棲んでいるから、他の誰の声もよく聞こえない。
 反応が一瞬遅れて、ああ、やってしまったと自戒する。
 それでもこの、くらくて、しずかで、重たい水の中が心地よくて、僕は望んでこの苦しい水の中にいる。 

 それにしても息ができない。
 息継ぎができるのは夜。誰もいない家に、自分の部屋に帰って、泥のように布団に倒れ込んで、意識を失うまでの三十分だけ。
 それ以外の時間は、たとえひとりでいたって、ずっと水の中にいるように、息苦しくて、何もなくただ沈んでいたくて、けれどもそうするわけにもいかなくて、まるで皆と同じ陸の上にいるかのように、振る舞わなくてはならない。たとえひとりでいたって、皆と同じように。 

 水の中は、きれいだ。
 哀しくなるくらい、きれいだ。
 一面の青。
 ずっと浸っていたくなる。何もしないまま、水の底に。
 こんなに息苦しいのに、それでも。
 この美しさと息苦しさを感じるためだけに、今僕は生きているのかもしれない。 

 けれども、一番美しいのは、やっぱり息継ぎの瞬間で。
 そのときだけ僕は、水の底から水面(みなも)へと浮上する。
 布団の上に大の字になるように、水面へ浮かび上がって、空を見上げる。
 本当の時間と違って、青い、青い空。
 少しだけ、水平線の傍が曙光の橙色に縁どられていて、
 手を伸ばすと太陽に手が届きそうな気分になる。
 そのときはじめて僕は、肺にめいっぱい空気を吸い込む。
 つめたい、澄んだ、やさしくきれいな空気を。
 吸って、吐いて、吸って、吐いて、吸って。
 思い切り呼吸ができる瞬間。
 けれどもそうしていられる時間はそう長くない。
 すぐに、どぷんとまた水の底へ飲み込まれる。
 伸ばした手から気泡が水面へと昇っていく。
 くらくて、しずかで、つめたい水の底へ。
 とっくに慣れてしまった僕は、この息苦しささえ愛おしいと思いながら、意識を手放す。 

 そうしてまた一日が始まるのだ。
 水の底へ潜ったままの一日が。
 息継ぎの瞬間に見えた曙光のあの美しい光は、現実の世界で見えることはない。
 暗いくらい部屋の中で、動きたくない、動きたくない、水の底に沈んでいたいと思いながら、現実世界の僕は仕方なく、動かなければと、動かなければと思う。
 けれども僕の心に広がる水はそれを赦してはくれない。
 動け、動くな、動け、動くな、動け。
 けれどもどうせ、時間がくれば僕は動くのだ、動くしかないのだ。
 陸の上にいるかのように。皆がそうしているように。

  水の底にいる僕は、どうにも生きづらい。
 道を歩いていても、油断するとすぐに意識がどこかへ、あの水の中へ、沈んでいってしまう。けれどもそうしていないと、歩くことすらままならない。
 一番苦痛なのが、人と関わらなければならない時間。例えば、仕事とか。
 誰も僕が水の底にいるなんて気づかなければ興味もないので、当然のように必要事項を僕に話しかける。
 けれども水の底にいる僕には、どうにも人の声が届きにくくて、反応が遅れる。
それを悟られないように、息苦しい中で必死に笑顔を作ってそれに応える。
 厄介なのが、本来この水の中は音が伝わりやすいのだ。
 僕の周りの世界中の音が、ひどくざわざわと僕の耳を刺激して僕を翻弄する。
 必要な声が、より聞こえづらくなる。
 僕は必死にそれに食らいつく。
 ああ、息継ぎがしたいと、そればかりを考えながら。 

 仕事が終われば帰路につくわけだが、それは行きよりも辛い道になる。
 必死に音を、人の声を拾おうとした後遺症で、周囲の音がひどくうるさい。
 いけないこととわかっていながら、イヤホンを耳に着ける。
 何も音を流さないイヤホンから流れてくるのは、水の底のような静寂。
 それが心地よくて、まるで音楽を聴いているかのような恰好で、僕は静寂を聴く。 

 そうして家に帰り、服を着替えたりご飯を食べたりなんかはそこそこに、僕は早々に布団に潜る。あの息継ぎの瞬間の曙光の光が見たくて。
 三十分。三十分だけの、息継ぎの時間。
 水面で太陽に向かって、実際には虚空に向かって手を伸ばして、たまに考えることがある。
 もしも、この水の中から僕を引きずり出す人間が現れたとしたら。
 僕を水の底から陸へ引き上げてくれる誰かが現れたなら。
 僕はそれを幸せと感じることができるのだろうか。
 この生き苦しさと引き換えに、この美しい心象風景を逃して、僕はそれで幸せなのだろうか。
 こんなに苦しいのに、僕は今幸せなんじゃないだろうか。
 幸せだと、思わなくてはいけないのではないだろうか。

  それほどまでに、水の底は美しい。
 僕の心をとらえて放さない、この生き苦しい水の底。
 誰にも邪魔されない、三十分の息継ぎの時間。
 きっと明日も僕は、この息苦しさを抱えながら生きる。
 水面に浮かびながら、そんなことを考えて、僕はまたどぷんと、水の底へ沈んで意識を手放すのだ。
 昨日と同じように。
 明日と同じように。

FIN.

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