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人の誕生日は喜べるのに自分の誕生日は苦痛

年に一度、自分が生命を持って

この世界に誕生した日として「祝福」される日。

 「おめでとう」

と言われるたびに、 申し訳ない気持ちになる。

 いつもは話さない人でも 

この日はお祝いのメッセージをくれる。 

 その労力を使わせることが申し訳なくて、 

 ありがとうございます。

と 返すのも申し訳ないし、 

どうしていいかわからない気持ちになる。 

 これは、昔からあったわけではない。 


幼稚園の頃は、毎月開催される誕生会を 

楽しみにしていた。 

幼い私は、4月生まれは早くていいなぁ。 

私は秋だから、4月、5月、6月、、と 

みんなが一つ大人に近づいていくのを 

羨ましく思っていた。 

 小学校に上がってからは、 

誕生日はプレゼントを買ってもらえるし 

お祝いもしてもらえるのだけど、 

実家の家業が繁忙期なため、 

いつもそれが終わってから 

家族でパーティをしていたから、 

 誕生日当日は忘れられていることも多く 

それはそれで寂しいものだった。 

 大人になってから、 

特にお付き合いする人ができてからは 

誕生日は楽しみなものとなった。 

 誕生日当日はレストランを予約してくれて、 

プレゼントも用意してくれて、 

ホテルに泊まってはしゃいで過ごした。 

 社会人になりたての誕生日は嬉しいものだった。

やりたきことのリストがあったとしたら 

それはやり尽くした気がしている。

 それが30歳を越えて、 

誕生日を1人で過ごすようになってから 

「誕生日」

は苦痛でしかなくなった。 

 自分にプレゼントを買ってみたりしたし、 

いつものバーで騒いだこともあった。 

 増えていく年と、この先の不安と 

仕事の忙しさでなんだかもう 

お祝いなんてどうでもよくなっていった。 

 ひとりの誕生日を過ごした30代も半ば。

 結婚を経て、今は誕生日にプレゼントも 

お祝いも大切な近しい人に 

お祝いしてもらえることは、 

幸せなことだとしみじみ思う。 

 大切な近しい人は、私に何か高価なプレゼントをしたいと いうけれど。

私は必要なものは持っている。

大切なものも両手におさまりきらないほど持っている。

もうそれ以上のものは必要ない。 

 近しい人は言う。

「誕生日らしいことをしてあげられていない」

と 。

そう言ってかなしんでいるけれど、 

一番最初の

「お誕生日おめでとう」

を言ってくれただけで、

いつ使うかわからない高価なプレゼントを

一生懸命探してもらうより

何千倍もうれしいことなのだ。

ありがとう、お祝いの思いは

届いているよ、と伝える。

この世界に生まれてきた私を

祝ってくれてありがとう。

私も生まれてきて、

あなたに会えて本当に幸せだよ。


そうそう。

 職場から宅配便でプレゼントが 

届いたことは嬉しかった。 

 焼き菓子のアソート。 

 私は焼き菓子が大好きなので、 

なんて素敵なチョイスなんだろうと 

感動した。 

「 おめでとう」

と声をかけられるより、 

 そっとさりげない物をもらえると、

 何より嬉しい。 

 言葉より、気持ちを物に代弁させてもらえると、すんなり喜んで受け取れるのが 

私の矛盾したところだ。 

 ありがたい。

嬉しい! 

 その気持ちがなにより嬉しい。 

 覚えていてくれて、ありがとう。 

プレゼントを選んでくれて、ありがとう。 

私のために、用意してくれてありがとう。 

 嬉しい気持ちはいっぱいある。 

 うまく、喜べなくてごめんなさい。 

 「おめでとう」の重圧に、

へこたれながら、ニヤニヤし、

おどおどしながら無事、

今年も乗り越えることができた。

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