「デスストランディング」考察その7:ヒト・クジラ戦争説#1
しかしでは、デス・ストランディングとは何だったのか。
それはこれまで様々な要素を検証した通り、ある物語として語られるような時間軸を持った出来事であり、またそれはおそらくこの物語内の自然的な法則に基づいた現象だろう。
もちろん起こっていることは超自然的で、ひとくくりのお話としてはとても言い表せないようなスケールを持っている。ただし「デス・ストランディング」はいってしまえば一つの創作物であり、その造物主の思惑を決して窺い知ることは出来ない、というものではないはずだ。
このように考えを突き詰めていった結果、あくまで僕個人の見解ではあるが、DS現象とは人間種に対し鯨種のDOOMS能力個体たちが起こした、生物種間の生存戦争であるという仮説に至った。
以下この記事シリーズでは、その仮説について説明していこうと思う。
まずゲーム中のDS現象は、明らかに人間という生物を対象とした、恣意性を持った現象であると言える。
OPでは時雨によって命を落としてしまう烏の映像が流れるが、サムはそれをすぐさま処理し、ボイド・アウトが起こらないような処置はとらない。このボイド・アウト現象は作中で物質と反物質との対消滅のようなものと説明されるが、もし実際に対消滅のような現象が数百グラムの身体をもつ烏の死体で起こったとすれば、かなりの規模の爆発が想像できる。
もちろんこのボイド・アウトの爆発の規模は、そこまで作中の世界観を崩してしまわない程度のものに押さえてあるが、それにしても烏の死体程度でも火薬兵器程度の爆発は十分見込めると考えられる。死体はすべからく危険物となるはずだ。
また同様にOPの洞窟でフラジャイルとBTをやり過ごすシーンでは、洞窟から走って逃げる鹿に対して、BTは全く反応していない。
作中で語られる”死体”というのはほとんどの場合、登場人物の暗黙の合意によって人間のものに限られる。しかしもしもそれ以外の生物の死体にも同様の現象がありうるのならば、そうした描写はあってしかるべきだろう。
またさらにそうしたDS現象は、劇中の時代に起こる大量絶滅期と関連付けられて語られる。そしてアメリの言葉を聞いていると、それは宇宙の物質と反物質のバランスを保とうとする、宇宙の摂理のようにも説明されている。
しかしこの後者については、おそらく彼女の行き過ぎた思い込みだろう。
前回でも考えたように、アメリという人物は混乱も自己矛盾も起こす”信頼できない語り手”である。こうした独白をする黒い服のアメリは、おそらく演出上の目的で分けられた彼女のネガティブなこころの一面だろう。
サムの姉か恋人のようにふるまう、赤い服のアメリ。サムの母親そしてアメリカの大統領としてふるまう、白い服を着たブリジット大統領。そして彼女の欝的な破滅願望を表すような、黒い服のアメリ。
以前の記事でも説明したように、彼女はその特異な経緯から、一個人として一貫性を保てないような複雑な心境を持った人物である。また自律神経やホルモンの異常、免疫力の低下や破壊衝動、自殺衝動などは、彼女が長年ビーチに接触していたことでおこる、カイラル汚染の症状と思われる。
もしもDSが宇宙的な規模の物質の現象ならば、これら人間をターゲットにした爆発は、明らかにその規模が小さすぎる。
そしてそうした観点から見てみれば、また大量絶滅そのものがDSによって起こされているというのも疑わしい。
大量絶滅という現象は、地球環境の大規模な変化によって、多くの種類の生物がある期間で大量に絶滅していまうことである。DSによって何億という人間の命が脅かされても、その事実はこの大量絶滅という現象に対して一つ分のカウントをもたらすだけである。
先ほど見たようにBTが他の生物とボイド・アウトを起こさないからには、彼らの目的は大量絶滅というよりも、人間のみに限定した単なる一種族の絶滅だろう。
ビーチや絶滅体のへその緒が本当は何に繋がっていて、そこからの操作によってどうした理屈でボイド・アウトを起こすのか。そうした大きな疑問に対し、物質と反物質の理論は応えておらず、また答えになっていないように思う。
この宇宙の存在を破滅させる反物質世界の存在があるのならば、何故こちらばかりがその摂理においては悪とされ、こちらから能動的に反物質世界を覗くことができないのだろう。
したがって、これらの説はどちらも疑わしいと考えられる。
DSは明らかにもっと地球上の僕らのスケールに近い事象として起こっていて、そしてそれらはゲーム中で実際に目にするものが重要なキーとなっているはずだ。
なぜボイド・アウトでは魚やカニが出てくるのか。なぜ結び目の空間には水が満ちていて、時折”彼ら”があらわれるのか。そして何故人間の胎児は羊水の中に浸かっていて、魚、両生類、爬虫類というよいうな過去の祖先の特徴を描いて人間になっていくのか。
この仮説はこうした物語の中に映されてきた描写について、それらが単にメタファーとしての表現ではなく、物語のはっきりとした要素だとして考えていく説である。
次回以降、さらにくわしくその内容を語っていく。
2022/12/18
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