見出し画像

SEKIRO葦名五行メカニズム仮説 陽

前回に引き続き、隻狼における陰陽五行思想の存在を考察していきます。

参考とさせていただいた、シード氏、なるにぃ氏のブログ記事や動画は以下の通り。

またこの記事の内容について、下記の動画やブログ記事、両氏へのSNSなどで無用の質問をすることはお控えください。

シード氏のブログ「ソウルの種」Sekiroまとめページ。

なるにぃ氏の動画。

参考にさせていただいている、五行思想のWikipedia記事。

葦名の異変

さて前回、仙峯寺の幻廊から奥の院の考察を行ってみて、変若の御子が五行の力を利用意して土行の”思う”ことを封じられた悟りの御子、人工の如来なのではないかという仮説をえました。

しかし彼女や仲間の変若の御子たちの犠牲にもかかわらず、どうやら仙峯寺のこの計画は失敗だったようです。彼らは未だ飴を売り、人をさらい続け、変若の研究を続けています。

なぜこのような彼らの計画が失敗したかと言えば、実は彼らが自然的力を操り御子を造る手段と考えた五行思想が、実は葦名では既に誰かの手によって歪められた後だったからでした。彼らが参考にした五行の法則では、木行の色である緑と土行の色である黄色がなぜか入れ替わっており、しかも葦名ではそれが入れ替わったままに自然法則が流れ続けていたのです。

土から出る毒が緑色で、しかも火行の内府軍の敵によく効くという相生の効果を発揮しており、水行と思われる淤加美には相剋関係によって特殊な毒モーションを誘発します。

弦一郎や淤加美の武者たちが放つ雷は黄色のエフェクトで、これもしっかり木剋土の法則により、地に足を着く者へ大打撃を与えます。

中毒と打雷。
五行思想における五色では風や雷を司る木行が緑(と青)、土行が黄色で表されるが、葦名では逆になっている。

この色の違いが単なる勘違いでない事は、以上の事からも明白です。明らかに葦名の五行関係には狂いが発生していて、自然現象にさえその影響が出ているのです。

しかも現代葦名では、さらに別の陰陽五行の歪みも存在しています。

先ほどの文を読んでいて、あるいは上記なるにぃ氏の動画を見ていた人ならば、私が毒を土行のものと決め付けていることについて、疑問のある方も多いでしょう。なぜなら我々がその毒を使う時、それは金属の刀身をもった錆び丸という義手忍具によって用いるからです。

錆び丸。

錆び丸のテキストにはこの緑の毒が刀身から出た錆びであることが描かれており、おそらく普通に読むのなら、この毒が金行のものだと考えるのが普通でしょう。

しかし現実としてこの緑の毒はその他での場面では常に土の底から湧いており、しかも地に属する存在にはこの毒が効きません。もしもこの毒が土そのものではなく土から出る鉱物毒、金属の毒であるのなら、相生関係によってむしろ地に属する存在へは早く効くと考えられるはずです。

なのでそうした考えから、私としては毒=土行だと考えて考察を進め、その他の事象とどのように対応するか考えていきました。

すると、先ほど金行と思われる錆び丸の刀身から土行と考える毒が出ているように、本来の相生関係とは逆の方向に五行の力が発現している例を数々みつけたのです。例えば桜竜は樹木のような体に雷や風を扱うといういかにもな木行の存在ですが、なぜかこの竜の力から葦名に豊富な変若水つまり水行のものが湧き出ているのです。

さらにそうした変若水の澱から生まれた赤鬼、変若水のたまる葦名の底で暮らす水生村の住人は、火を恐れる金行の性質を持っています。しかも水生村の住人の一部のものは変若水による変化の末に体内に宿り石を生じさせます。

この石も単純に考えるのなら土行のもののはずで、金行へ変化している水生村の住人から生まれるのはおかしな話です。

なぜか葦名の一部では木行→水行→金行→土行と、本来の五行の相生とは逆の流れが生じており、しかも一部の文化ではその異常を利用しているふしさえあります。

五行の逆流の図。

葦名源一郎は捨て牢にて道順に怪しげな研究をさせており、赤鬼はその変若の澱の研究によって生まれた存在でした。このような禁忌の研究は、内府へ抵抗するための苦肉の策のようにも考えられますが、物語の終盤では水生氏成という赤い目をした中ボスが現れ、このボスの独り言を盗み聞くと彼が一心に仕えた葦名衆の一人であることがわかります。

おそらくは一心が国盗り戦を挑む際には、水生村出身である氏成の力に気づいてそれを利用しており、一心の時代にはすでに変若の澱のようなものが存在していたことがわかります。実際にエマとの会話では道順の大師匠である道元の元で過去に変若の澱の研究が行われていたことがわかり、すでに破棄されたものの道順の直接の師である道策によって持ち去られていたことがほのめかされます。

一心の会話では彼ら葦名衆は長年のあいだ国を奪われ、源の水を祀ることさえかなわなかったそうなので、この研究は現在の桜竜の性質や竜胤を生むほどの大規模なものではなかったはずです。また密教系の寺院である仙峯寺は土地にかなり古くから根付いた寺院のはずですが、先回の記事のとおり、この葦名の五行の異変を深くは知っていなかったはずです。

つまりこうした五行の自然的力を歪めた元凶は葦名衆や仙峯寺より古くあり、おそらくは源の宮の貴族たちのような平安かそれ以前の時代に行われたことのように考えられます。

彼らがどのようにしてこの力を利用したのかという考察は後に述べますが、ともかくこうした五行の力を歪めた葦名の最後や、またそうした力の結晶である竜胤の力に触れようとした場合、突然の火によってすべてが焼かれてしまいます。

桜竜の涙を入手して帰った後、修羅ENDの天守閣や平田屋敷。なぜか竜胤の御子が野心を持つ何者かにさらわれそうになると、どこらともなく火が現れて周囲を焼いてしまいます。内府の火攻め、修羅の炎など各々理由はありますが、平田屋敷の描写などをみると、かなり深くに掘られた隠し仏殿の内部から突然出火したかのように、地下の柱や梁が燃えています。

平田屋敷の隠し仏殿。
なぜか屋敷周囲の族たちは未だこの隠し通路をみつけてはおらず、屋敷自体も侵入を許してはいるものの建物はほぼ無事である。しかし狼が畳をずらし地下深くの仏殿の扉を開くと、このとおり激しく焼けた柱や梁、奥に佇む九郎が見える。

これらの不可解な現象が次々と起こる葦名では、いったい何が起こっているのでしょう。竜胤の御子やその力によって起こされる、不死の原因とは何なのでしょうか。

  • 木行と土行の混乱。

  • 五行の逆回りの現象。

  • 竜胤の危機に現れる葦名の大火。

五行思想から考える葦名の異変の問題は、今のところこれら三つの現象について考察するのがカギではないかと思われます。

竜胤の御子と変若の御子

とはいえ源の宮が築かれたような古代葦名について、実際に何が行われたのかは、はっきり言ってわかりません。

宮の貴族の踊っているような、おそらくは呪いや巫術の意味合いを持つ振付や雅楽については生憎と知識はありませんし、古文漢文の読めない私ではこれ以上陰陽五行思想の込み入った理論については知りようがないからです。

しかしなるにぃ氏の動画で言われるように、例えば”ぬしの色鯉”が陰陽五行の力を表現したイベントとして用意されたものだとして。もしも、この五行思想が隻狼のストーリーの根底となる思想であるのならば、必然的にもっと隻狼全体にはそのような五行の力の流れを暗示するイベントや表現が数多く配置されているはずです。

隻狼のいくつかあるNPCイベントや背景物の描く景色から、さらに葦名で何が起こっているのかを間接的に表現している箇所が見つかるでしょう。

その中で一番代表的なものだと考えられるのが、先回の記事で考察した変若の御子のイベントやその周囲の背景表現でしょう。

前回の考察で考えたように、この”変若の御子”とは幻廊の猿たちと関連し、五行の相剋の関係を利用して”思わざる”ということを目指した”悟りの御子”ではないかというのが私の考えでした。

しかしこのいわゆる”お米ちゃん”を含む他の変若の御子たちに、さらに関連すると思われるNPCが仙峯寺には存在します。

それが仙峯寺入り口付近で一人寂しく泣いている太郎兵型NPCの”小太郎”です。

彼は最初に話しかけると要領を得ない話し方で、どこかへ飛んで行ってしまった風車について話します。既に覚えていない”みな”に置いていかれてしまったことでその場で一人泣いており、どうやら”赤白いおはな”を見ているうちにその”みな”とはぐれてしまったようなのです。

仙峯寺の小太郎。

この”おはな”というものが彼の求めている風車を表すもので、赤と白の風車を渡した場合任意に彼の行き先をきめることが出来、真白い風車を渡すと忍具の神隠しによって彼を幻廊へと送ることになります。幻廊のその後の会話では、彼が無事に”みな”に会えたことを感謝し、主人公狼に太郎柿というアイテムを渡します。

会話によるとこの小太郎というNPCは、変若の御子たちの世話係だったようで、その中の一人のために真白い風車を取ろうとしていたようです。

問題は、彼が彼の目的である幻廊にたどり着けた”真白い風車”と、迷う原因となった”赤と白の風車”の二つの風車が、いったい何を示すものなのかという部分です。この二つの象徴物が彼の運命を大きく分け、赤と白の風車のルートでは悲劇的な結末が避けられません。

このふしぎな風車の落ちている場所を観察してみると、白い風車は高い崖の頂上。赤と白の風車は、たくさんの風車と地蔵の並んだ崖の上にあります。

仙峯寺の風車。

不可解なことにこの地蔵たちは”地蔵”というのは名ばかりで、石ではなく木によって彫られています。

通常、道に迷う人々を救うのは道祖神として祀られる地蔵菩薩の役割で、特に子供の霊などについて御地蔵さまを拝み冥福を祈るのはよく見られる例です。地蔵菩薩はまた地獄の閻魔大王とも同一視され、地獄で善人悪人に、地上で迷う人々へ、その行き先を示す存在だと説明されます。

しかしここでは小太郎を迷わせる象徴としてこの赤と白の風車とともにいくつも置かれ、しかもこれらが石ではなく木で彫られてというのが違和感のある点です。

しかし、私たちは既にこの木彫りの地蔵が何を指すかを考えるヒントを、前回の考察で得ています。

それは、この仙峯寺に現在祀られている変若水の御子が、五行相剋の力を利用し木行の衣を着せることによって土行の性質である”思い”を断つことを目的に作られた存在だという考察です。まさに木彫りで造られた地蔵の姿は、仙峯寺が意図した変若の御子の象徴物のように考えられるでしょう。

仙峯寺は葦名の木行と土行の逆転現象に気づかず、変若の御子へ土行の”思う”ことを相剋するため黄色の装束を着せてしまいました。結果、土行の変若の御子は土の気がさらに強くなり、土行の五穀であるお米を出すという特異な形でその力を発現させています。

しかし仙峯寺は図らずも得たこの豊穣の御子を、信仰の対象として利用しています。もしかすると強い土行の気である甘みを持つ米を醸して、銭の種となる飴を造っていたのかもしれません。

ともかく彼らの意図した通りではないといえ、仙峯寺としては貴い存在である御子の力は守らなければなりません。

彼らはこの御子の土行の力が他に逃げないように、その流れの前後に位置する火行と金行、赤と白の色を回転させ混乱させるという方法で、御子の力が失われないよう封じたのではないでしょうか。

まさかそんな方法で、とは思われるかもしれませんが、実際に小太郎はこの風車で混乱し、自らの進むべき道を忘れてしまっています。

小太郎のイベントの図。
赤と白の回転する風車は、土行と思われる小太郎の行く先を惑わす象徴となっている。彼の本来のいく先は白い風車が象徴する金行の方向だと考えられるが、そこへ導くためには相剋関係となる木行の渦風を利用し、彼を神隠しするしかない。

橙の柿で育ち、白い風車を目的とするという小太郎の存在は、五行思想に則って考えれば土行の力の影響した存在なのではないでしょうか。彼のような仙峯寺に出現する太郎兵型のキャラクターが、神隠しの渦風=木行の力によって特別な反応を示すのは、前回考察した隻狼における属性の相剋関係の特徴でした。

この”その属性の力を守るため、その前後の属性を混乱させる”というのは、おそらく葦名における五行の力を操作する手法の一つです。

これらの手法をさらにひるがえって考えると、今問題としていた木行の色と土行の色の取り違えは、その中間に位置する火行の力が逃げないようにする封印だったのではないかと考えられるわけです。

葦名の五行の関係。
本来、火行の赤から土行の黄色へと自然の力は循環していくが、葦名ではそれが取り違えられているために、火の循環先は不明となっている。

三重の封印

おそらく古代葦名の何者かが火の力を封印しようとして、その前後の木行の緑色と土行の黄色を逆転させる儀式を行いました。

何故に火の力を封印しようとするのかと考えると、それが葦名の信仰の対象となった神なる竜”桜竜を殺しうる力”だと考えたからでしょう。

風雷を操り鱗を持つ存在である桜竜は、五行で考えれば完全な木行の存在です。しかし万物の流転する五行思想で読み解くならば、神なる竜と言えど木行の存在である限り、やがて次の力である火の糧となって死を迎える運命です。

おそらく葦名におけるこの”火の封”は、この桜竜の”運命の死”を回避しようという試みだったはずです。

葦名の火の封。
木行の流転した先の火行を封じてしまえば、木行の権化たる桜竜は死ななくなる。
そんな馬鹿なと思える理論だが、状況証拠は十分に揃っている。

しかしこれらの事をさらにたどって考えてみると、初めてこの陰陽五行の法則を知った人物は、いきなり桜竜を死なないように保護しようという考えで、これら五行の法則を利用しようと考えたのでしょうか。

おそらくそうではありません。

竜という存在の発見。大陸からの陰陽五行思想の伝来。それらの土壌が整ったあと、まず初めに竜から何かの恵みをより多く得る手段から模索して、後にその恵みの状態を維持しようという考えから、こうした桜竜の保護の方法を模索したはずです。

「原初、神とは力だった」とはまた別の作品のテーマですが、古代葦名の人々にとって未だ名前もないような原初的な神々への崇拝から、そうした明確化された力の利用、そして力を維持するための体系化された宗教への発展、という道をたどったと考えるのが自然だからです。

葦名における最初の”神なる竜の力”を利用する試みは、葦名の地とその豊富な水を求めて根付いた桜竜から、逆に彼を奉じて恵みを得る。木行である桜竜から、不老長寿の水である変若水を得ようと考えだされたものだったでしょう。

ですから源の水を祀る古代葦名の人々は、そのためにこの木行の竜の力をその前後の力、水行と火行へある種の封印を施し力を留めたあと、水行の側を”開く”ことによってそれを成そうと考えました。

黒の不死斬り「開門」と、抜けぬ赤の不死斬り「拝涙」。
長年この二振りの霊刀によって封じられた力は、硬質の木材で造られた忍び義手から炎が漏れるほどに溜まっていた。これ以前にもこの五行の力の淀みにより、葦名には様々な厄災が募っていたと思われる。

黄泉への道を切り開く、黒の不死斬り「開門」。桜竜の力を引き出す、”抜けぬ”赤の不死斬り「拝涙」。これらの二振りの霊刀は、桜竜から変若水を得る儀式のための呪具だったのではないでしょうか。

現在の葦名では桜竜の利用のため五行の因果を逆転させる、不死斬りの封印。そのような恵みをもたらす桜竜の運命の死を防ぎ、彼からいずれ生まれる火を抑える竜の胤の封印。そして人の世の思い煩うことを止めるため、土行の力を抑える変若の御子の封印。これら三つの封印が重ね合わされ、様々な異常が起きていたのだと考えられます。

五行の並びにおける木→火→土の流れは、自然界でも特に破壊的な力をもたらす部分です。神道では木=気を焼いて枯れさせる火は穢れとして扱い、同じく赤い血とともに時や場によっては忌避されるものでした。

葦名の古い信仰においては特にそうした忌むべきものを水に流す風習があったようですが、それはミズチあるいはクチナワと呼ぶべき存在への生贄の儀式ともつながっていたことが仄めかされます。

白蛇と、谷の御神木。
植物のような力強い生命が、ミズチ(水の力)によって育つという事実は、先史時代から人々によって観察されていた。いつしかその力を視覚化しその個所に宿っていることを示すクチナワ(朽ち縄)や注連縄が、神そのものと考えられるようになった。葦名の蛇信仰は、そうした変遷を経ているのではないだろうか。

古今東西においてそうした血なまぐさい風習はやがて文明化とともに消えていくものですが、日本においては仏教伝来における殺生への忌避が大きな転機だったでしょう。その流れは空海のような密教の伝播という形で葦名金剛山へ伝わったものだと思われますが、同時に地元の豪族たちへも京文化や律令制度、そして陰陽思想のような文化・学問として取り入れられていったはずです。

しかしそこで葦名へそれらを伝えた何者かが眼をつけたのは、未だ体系化も名辞化もされていなかった、先史葦名の原初の自然だったのではないでしょうか。

ここからは私の想像なのですが、葦名の名も無き神々が小さいながら強い力を秘めていると知ったその何者かは、彼らに本地垂迹という形で仏の名や姿を与える代わり、少しづつ本来とは違う役割や姿を葦名の神々に教えたのではないかと考えています。

岩壁に刻まれた無数の仏。
なぜか葦名のいたるところには、このような自然に刻まれた仏の姿が隠されている。しかし葦名人がこのような仏の姿に敬虔だったかというと、仙峯寺の不動明王像のように、わざと姿を逆に彫られているものもある。神道では八百万の神が宿るとされた自然に、このような仏像を彫った意図はどのようなものだったのだろうか

葦名の五行まとめ

いろいろ書きたいことがおおく、推敲もままならないので最後にまとめと考えられる全容を図を交えて書いておきます。

葦名の五行のような自然的力は、木行からの逆順、火行の封、土行の意図せぬ強化と封、という三つの呪いが複合的に作用しています。

葦名五行の封印の図。
竜から生まれ竜を殺しうる竜胤を封印し、不死斬り「開門」によって変若水を得る。さらにはそれを模して悟りを得ようとした仙峯寺の変若の御子の封印も重なりかなりごちゃごちゃしている。

その中の木行からの逆順という作用により、桜竜から変若水が湧き出る、湧き出た変若水からさらに金行の変若水の澱がでるという現象が現れています。変若の澱は刀傷などに動じなくなる一方で、火に対し恐怖心を覚えるなど、金属のような強靭な性質を帯びる作用があります。

しかしそのような澱が金行まで逆順を辿っていくと、今度は赤白の風車に象徴される土行の封によってその流れは止められてしまいます。故に彼らは「成りたいものに、成れなかった者」として、そのまま赤目となり苦しんでいるのだと考えられます。

葦名の底にいる水生村の住人はこの土の封と縁が遠いためか、火を怖がる金行の性質を帯びている一方、この赤目の兆候は出ていません。事実、彼らの中の少数ではありますが、”お宿り石”という土行と思われる徴を体内に宿します。

或いは「赤成り玉」というアイテムも、この”お宿り石”の固まる前のナニかなのかもしれません。

逆に、というか正常に水行から木行へも変化しようというある種の宿命は葦名の地に存在はしているらしく、壺の貴人のイベントはそれを象徴するイベントのように思われます。

他のマップの背景物として置かれる水甕か酒の入れ物のような壺に入った正体不明の人物たちですが、彼らは宝鯉の鱗をほしがり、そのような鱗を持つ鯉=木行の存在になろうとしています。

彼らは毛の生えた金行と思われる餌を主人公に渡し、源の宮の木行のぬしの色鯉を相剋関係によって殺させます。するとどうやら新しく”ぬし”になれるという理屈のようですが、彼らはなぜか普通の巨大な鯉になるだけで、ぬしの色鯉ほどには大きくなれません。

おそらく木行から火行への道が封じられているために、それ以上の巨大化や、あるいはさらに鯉から龍へというような変化は封じられ、彼らも「成りたいものに、成れなかった者」になったというわけです。彼らは逆順を辿った金行の存在ではありませんが、赤目を宿すことになりました。

鯉となった壺の貴人。
水瓶に入った腕だけの存在だったが、今は錦鯉となっている。
彼のあこがれたさらに巨大な鯉にはついに成れなかった。

このように魔術的な封を施された木行と土行ですが、その間にある火行への流れはかなり強く封じられているものと思われます。

その封印の副次的な作用として火行へと通じる木行、土行の象徴の色は逆転し、その事実を考慮しなかった変若の御子はお米を出す豊穣の御子になりました。

変若の御子。

一方で強く封じられた火の化身である竜胤の御子は、この世界における火葬や送り火のような役割を果たせずに、人を死から返してしまいます。

御子と強くつながった竜胤の従者は単にその場で蘇ってしまう回生以外にも、肉体が土に還るプロセスで逆に木によって彫られた鬼仏の中から因果から外れ蘇ってしまいます。鬼仏に宿る炎の色である青は木行のもう一つの色で、この仏師の彫った木像には強い木の気が宿っていることがわかります。

死と回生。
木行、土行の混乱のため、竜胤の化身となった狼は次にどの属性へ向かうべきか混乱し、回生が起こる。回生の力が無くなり強制的に死へ向かう場合も、火行の次の土行からではなく、木行を経て元の火行の身体に戻ってしまう。

過去には人を斬り続け”飛び猿”と呼ばれる忍びだった仏師ですが、その修羅の炎を一心によって切られ封じられると、おなじく火を封じられた”桜竜”と感応し葦名の因縁を背負う存在となったのではないでしょうか。

二対目の肢の左側が欠け、主人公狼との類似性が指摘される桜竜ですが、長年葦名で隻腕の存在として影の任務を負っていたのは、現仏師である猩々という人物です。彼は物語の終盤、桜竜の涙を得て葦名に戻ると人知れずいなくなり、怨嗟の鬼というボス的になってしまいます。

このボスは明らかに彼の奥底にくすぶっていた火行の念である”怒り”の相を表した姿を持ちますが、怨嗟の鬼の名の”怨み”という感情は五行では水行に属する感情とされています。

怨嗟の鬼。
何故仏師がこうした立場に置かれたのかは不明だが、荒れ寺で葦名の怨嗟と怒りを受け継ぐ存在とだったと考えられる。本来は火行の怒りとして発散されるべき力が、葦名では封じられ逆の側から流れる仕組みがとられており、彼は一種の人柱となっていたのだろう。

ここでもまた重要な桜竜や彼の彫っていた鬼仏の木行をはさんだ、二つの属性の混乱が見られます。この属性の反転、混乱は人々のいくべき道を見失わせ、葦名に深い淀みをもたらしているのではないでしょうか。

隻狼の物語には、このように登場人物の自らはどこから来たのか、またどこへ行くべきかというような迷いが常に根底に流れ続け、どこかもの悲しい雰囲気を漂わせています。エンディングの最後ではほとんどの場合で主人公狼かその主九郎のどちらかの犠牲が求められ、「成すべきことを成す」という主従の決意が、重苦しくも迷いの多い作中で確固とした物語の芯として描かれます。

隻狼は近年のフロムソフトウェア作品の中で珍しい、明確に登場人物のドラマを描き、その明確なストーリー性やキャラクター性が高く評価された作品です。

しかし、このいわゆるソウルライクゲームではない隻狼という作品も、他のソウルシリーズなどに描かれる、世界観の設定の非常に練られたものだとわかります。

それどころかこのように深く掘り下げて考察してみるに、おそらく独自の回生システムや他のシリーズに見られる死に戻りのシステムを独自の世界観の中にしっかりと規定し、作品のルールの中に忠実に再現しています。

さらに言うならば、それはおそらく最新作へもつながる自然界の中の”運命の死”を克服しようとあがく”人の野心”というテーマをはっきりと明確化し、そのような呪的な”火の封”の中に克服しえぬ”腐敗と病”の悲劇性を、具体的なメカニズムによって描こうとしたプロジェクトだったのではないでしょうか。

このようなフロム作品の骨子が考察によって導き出されることからも、この作品が近年の同社の作品の流れの中で、非常に重要な意味を持つ作品だとわかります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?