SP「ノンフィクション課題①」

①参考文献にあげた6作品から一つを選び、その作品の中で最も印象に残ったところ、または最も感銘を受けたところを2,000字程度でまとめてください。その理由について必ず触れてください。

 とうとう自白する、その直前の容疑者の様子を表している。それがP312「膝の上で握りしめた保の両の拳が、小刻みに震え始めた。」という部分だ。ここまで300ページ以上も、これを待っていたと言っても過言ではない。結末が始まるということが伝わってくるだけじゃない。まるで見てきたかのように加害者の心情が伝わってくる。震えていたのは、拳だけではないことが容易に想像できるからだ。なぜなら、動揺していなければ手が震えることなんかない。筆者は震えている心を表現するために、握りしめた拳の描写をしている。やっと真相にたどり着いた、という思いは捜査をした刑事だけではない。この本を手にして行く先を見守っている読者にも同じように感じさせる。自白を引き出した状況が見えるようだった。それが風景でも状況でも、ありありと想像することができる。その中でも心情の表現が抜群だった。罪を自白する男の様子は、まさにその描写が秀逸だった。そのきっかけは母の言葉。刑事の伝える、母の許しを乞う言葉は、この男を人間へと戻した。緊迫した部屋の状況に、極限の緊張状態を表す言葉の数々。終わりの始まりが、始まってしまったという瞬間だった。
 それまで無表情だった男が、罪を告白したことで、やっと人間らしい言葉と態度で「悔い」を表す。心の変化が鮮明に伝わってくる。最終章は男が残した沢山の短歌がまとめられている。田舎から上京して働いていた気弱な男の、最期に向けた心情の吐露ばかりである。誘拐殺人犯は、本来なら凶悪犯として描かれるだろう。小さな罪なき子供の命を奪ったのだ。それも金が欲しかったからという理由なのだ。身勝手で自分勝手な人間の、残酷な罪と罰。それなのに、なぜここまで気弱な男の横顔が見えるのか。それは男を取り巻く家族や知人、関係者すべての人間たちの細かい取材。それをさらに詳細に文章にしている。被害者と加害者はもちろん、警察関係者についても網羅されている。もちろん、そこまで書く必要はなかったのではないか、という部分もある。犯人に知らず知らずのうちに協力させられてしまった人もいるからだ。しかしながら、すべての要素が必要なものだった。数百ページかけて綴られていく、関係者の証言と人生。小さな命のための捜査に充てられたのは、膨大な時間と年月だけではない。関わった人間達の人生すべて。それぞれから、まるで直接話を聞いているような温度まで感じられる。関係者が話したとされる言葉と、それを話している様子までも伝わってくるのだ。その中でも特に強く伝わってくるのは、P311「おれが帰るとき、山道を追い掛けてきて、何て言ったと思う?私はあんな悪いことをする子供を育てた覚えはない。もし保が犯人だったら、何とも申しわけない。刑事さん、勘弁してくれ。」のところである。母親の思いが書かれているのは、この部分だけである。それでも、この言葉には母親としてのすべての思いが詰まっている。罪を裁くのも許すのも刑事ではないのに、許しを乞う言葉を発したことがすべてだろう。それが、それまで自白することはないだろうと予想された男の心を動かすには充分だった。充分すぎるからこそ、年老いた母親にこんなことを言わせた、と知った男の心情が伝わってくる。それが震えた拳の描写だった。
 長い長い刑事の追及と、関係者の苦悩や事件当時の状況が綴られていた。早く結末が知りたいと読み進めていた自分が、やっと結末にたどり着いた時に見えたのは、凶悪犯ではなくただ一人の哀れな男だった。許されない罪を犯した。そして罰を受ける。それだけの記録ではないのが、この作品だったからだ。小説にはない、事件関係者の「真実の声」が溢れている。この作品との出会いは、この誘拐事件を知っていただけだった。知っているから、他の作品より入りやすいだろう、課題を書きやすいだろうという安易な理由だった。それなのに、読み終わった直後は書きたいことが溢れて、この作品を選んだことを少し後悔した。おそらく課題を書きあげることが難しい、とまで考えた。初めて出会ったノンフィクション作品としては、とても重い作品であった。加害者も被害者も、そしてその関係者達も辛かった。一人一人それぞれが、辛い人生と思いを吐露していた。報道では明かされなかった人間達の、それぞれの人生と思いを描きたかった作品だろう。実在した人間を描く作品は、想像しやすく心情が伝わりやすいことを知った。嘘偽りない真実の思いが、心を震わせる。そして伝えたかったことは「罪を憎んで人を憎まず」だろう。使い古された言葉、しかしながら他に当てはまる言葉はない。人間は過ちを犯す、そして悔いる。それが哀れな男、哀れな人間なのだから。

本文総文字数1928字

註・参考文献
本田靖春『誘拐』(ちくま文庫、2005年)

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