ある中国残留婦人への悔恨の記録
強行帰国
駆け出しの新聞記者として埼玉県内にある支局にいた一九九五年の話だから、もう四半世紀前のことになる。その夏、私は中里光子さんという中国残留婦人と知り合った。「祖国ニッポン 2年目の夏」という連載を新聞で始めることになったのがきっかけだった。
一九九三年九月、「故郷で死にたい」と十二人の中国残留婦人が、身元引受人の同意などの条件が整わないまま、日本への永住と政府の援助を求めて「強行帰国」した。「直訴」と書いた旗を持った七十歳前後の女性たちの姿はテレビニュースで放送され、強烈な印象を残した。
中国残留婦人は戦前や戦中、当時の国策により開拓団の一員として旧満州(現・中国東北部)に渡ったり、嫁(とつ)いだりしたものの、終戦前後の混乱で現地に取り残された日本人女性のことだ。ほとんどの人は戦争末期に夫を兵隊にとられ、ソ連の参戦以降は混乱の中で敗戦を迎え、逃避行を余儀なくされた。飢餓や伝染病などで死亡する人が続出する中、生活の手段を失い、中国人の妻になるなどして中国に留まるうち、帰国のチャンスを逸した。
一方、両親や兄弟姉妹と生き別れたり、死別したりして孤児となり、自分の身元が分からないまま中国人に引き取られ、育った人は「中国残留日本人孤児」と呼ばれる。その線引きを、国は敗戦時の年齢に定めた。敗戦時に十三歳未満だった身元不明の子どもは残留孤児で、十三歳以上の女性だと残留婦人というわけだ。一九七二年の日中国交正常化を機に、国は孤児については調査を行うようになったが、残留婦人に関しては対象外とした。「自分の意思で中国に残った」という見解だった。孤児と違って、残留婦人の場合は帰国するために親族の同意が必要とされたから、実際のところ、親族が帰国に同意してくれない限り、残留婦人は日本に帰るのが難しかった。
「強行帰国」を果たした女性たちは、埼玉県所沢市にある中国帰国孤児定着促進センターに二カ月間滞在した後、県内外に散り、新生活をスタートさせた。それから二年がたって、十二人がどんな暮らしをしているのか知りたいと思い、私は生活状況や要望などの質問を記した手紙を女性たちに送った。
はじめに届いた返事は「(私たちを)まだ忘れていないようですね。帰国し、今、日本国の対策を知り、私たちは何なのでしょうか。五十年の中国の生活、だれが知って下さいますでしょうか」というものだった。
その後も次々と返事が戻ってきて、回答率は一週間もせずに一〇〇パーセントとなった。女性たちは回答用紙の余白に、小さな文字で切々と思いをつづっていた。
「私、静かに考えますと、日本国民は私たち残留婦人の存在を理解してくれない残念な点もありますね。私たち帰国者に対しての待遇も大きな差がありますね」
「主人が生きていたときはあきらめていた日本への帰国が、主人が亡くなってから、外国に住む日本人だけが理解できる懐郷の思いをどうすることもできず、子どもたちに同意を求めて帰って来ました」
「中国にいたとき、病気がだんだんと悪くなっていく自分をみて、早く帰らなくては日本に帰れなくなってしまうと思い、身元引受人のないまま強行帰国をしました。永住を許され、冬でも樹の緑と色々な花の咲く美しい日本で、暖かい心の人たちにふれあいながら余生を送ることができてうれしい」
アンケートの結果は新聞の全国版に載ったが、連載は埼玉地域面での掲載だったので、取材は埼玉県内に住む残留婦人を中心に行うことになった。
行方不明騒動
その中で私が出会ったのが中里さんだった。強行帰国を契機に旧厚生省は一九九三年の暮れ、残留邦人の永住希望者全員を一九九六年を目途に国費で帰国させる方針を発表した。このニュースは、親族から身元引受人になることを断られ、帰国できずにいた残留婦人たちを力づけた。一九九四年十二月に帰国した、当時七十二歳の中里さんもその一人だった。
中里さんは中国帰国孤児定着促進センターでの研修を経て、一九九五年二月、ボランティアの身元引受人が所有する東松山市内のアパートに移り住んだ。が、五月の連休明け、「行方不明」騒ぎを起こした。私が県の担当者を通じて取材を申し込んだときは、その行方不明騒ぎの真っ最中だった。身元引受人と一緒に入った中里さんのアパートの部屋の中は、ちゃぶ台に湯のみが置かれ、窓のカーテンレールには洗濯物が干されたままだった。まるで部屋の主がさっきまでそこにいたような、不思議な感覚がしたのを覚えている。
就業の希望を持っていた中里さんは、帰国当初から県や市の担当者に「働きたい」と相談していた。北京に残してきた病気の夫と息子家族の住む家に、建て替え話が進んでいて、送金したいというのが理由だった。身元引受人の女性は、初めて会った中里さんに「働き口を見つけてほしい」と言われて困惑したと私に話した。生活保護を受けているのだから働く必要はないこと、収入があれば生活保護はもらえないことを説明し、就業に強く反対した。
納得しないまま、中里さんはアパートから姿を消した。帰ってきたのは一カ月後だった。近くの病院で付添婦として住み込みで働いていたのだという。仕事が見つかったので、急いで出かけたという話だった。
身元引受人にとっては、旧厚生省への登録以来、初仕事で、「仲良くやれる」と期待していただけに、中里さんへの不信感が募った。
「彼女はいつもふた言目には『悪いのはニッポンだ』と言うし、仕事が見つからないのもニッポンのせいにした。悔しくて、『中国で暮らすとみんなこうなっちゃうのか』と言ってやった」
身元引受人はそう、胸の内を語った。
中里さんの就労を知った市の担当者は、稼いだ約二十九万円のうち、交通費など必要経費を除いた約二十五万円を役所に納付させた。生活保護法に基づく措置だが、中里さんにとっては予想外の出来事だった。二階建てのアパートの一室で、「働かなければよかった……」と中里さんは私の前で涙を見せた。
残りの四万円は全額、中国へ送金した。大半のお金を役所に納めさせられたことは、息子に知らせなかったという。
「私、あんまり運が良くないの」
中里さんはつぶやいた。
一九二二年、埼玉県生まれ。私に会うや否や、古ぼけた戸籍の紙きれを見せ、「これを見てください。私が中里家の一員であることが分かるでしょう?」と言った。私は何が書いてあるのか、よく分からなかったけれど、誰も身元引受人になってくれなかったのだなということは分かった。
子どもの頃から京城(現・ソウル)で子守をして働き、二十歳のとき、旧満州へ渡ったという。新京(現・長春)で喫茶店を任され、切り盛りしていた。結婚を約束した男性もいたが、召集され、戦地で死亡したと後に聞いた。敗戦後の逃避行を経て、二十七歳で中国人男性と結婚。一九七九年に一時帰国したが、親族からは歓迎されなかった。一九九三年暮れ、旧厚生省の通知を受け、「これが体の動くうちに帰れる最後の機会」と帰国を決意した。
髪を後ろでお団子にした、細面の中里さんは「喫茶店をやっていたから私、紅茶をいれるの上手なのよ」と言って、リプトンのティーバッグで紅茶をいれてくれ、孫ほどの年齢の私に「お友達になってくださいね」と微笑みかけた。
精神病院
騒動が終わってから二週間後、身元引受人から「アパートを出て行ってほしい」と告げられ、中里さんは引っ越した。その後、私は時々、川越市にある引っ越し先のアパートを訪ねては茶のみ話をした。間もなく中国人の夫が北京で亡くなったが、中里さんは葬式にも参列できなかったという。夫の看病をしなかったことを、中里さんは悔やんでいた。
一九九八年に私が東京に転勤してからは、たまに電話をする程度になった。「友達ができない。日本人は冷たい」。中里さんはいつも繰り返していた。「町内会の集まりに行ってみたりするけど、やっぱり友達ができない」。一度、保証人になってほしいと言われたことがあったが、私は断った。孫娘を日本に呼ぶためだったが、私には荷が重かった。仕事、恋愛、結婚。その頃の私は、何より自分のことで頭がいっぱいだった。
それでも電話だけは時折していたが、何度か電話をしても不在なことが続いた。数カ月ぶりに電話が繋がったある日、中里さんは言った。「中国に帰ることにした。私、こないだまで川越の精神病院に入れられていたんですよ。また入れられるといやだから」
「どうして精神病院?」と私は思ったが、「もう八十歳だし、息子一家と一緒に暮らした方が安心だしね」との彼女の言葉に、確かにその方が安心だ、良かったと思った。そのとき、電話をしている私のそばには、生まれたばかりの娘がいた。受話器を通して赤ん坊の声が聞こえると、中里さんは「女の人は結婚して子どもを育てるのが一番」と、とても喜んでくれた。「かわいい声ねえ!」
中国に帰ってから、中里さんは手紙をくれた。孫娘の代筆で、英語で「北京に遊びに来てください」と書いてあった。公園のベンチに座っている、穏やかな表情の中里さんの写真が入っていた。
悔恨
私はそれから中里さんと連絡を取らなくなった。もう息子一家と一緒に暮らしているから安心だと思ったことや、手紙を書いたり、国際電話をかけたりするのが面倒で後回しにしていたことや、自分が育児休業から職場復帰をして苦労していたことや、夫の転勤、両親の病気……と理由はいくつも挙げられるが、正直に言えば忘れていたのだ。彼女は日本を恨み、良くない自分の運を呪い、その心は何年たっても満たされることはない。どうにもならないことについて、私には考える余裕がなかった。いや、考えたくなかったから、考えるのをやめたのだ。そして頭の隅に押しやって、ふたをした。
「中里さんは元気でいるのかな」とふと心配になり、手紙を出したのは、写真入りの手紙を受け取ってから四年が過ぎた頃だった。すぐに、孫娘から返事が来た。「おばあさんはまた日本に戻り、翌年、日本で亡くなりました」
孫娘は書いていた。
「遺骨は飛行機で郵送できず、家族も来日できなかったので、無縁墓に葬られたと聞きました。今、遺骨はどうなっているのか、調べてもらえませんか」
市役所に問い合わせると、中里さんは私に手紙を送った数カ月後、川越に戻っていたことが分かった。市の生活福祉課に現れ、「帰ってきたのでアパートの鍵をください」と担当者に言ったが、アパートはもう引き払われていたし、「健康面、精神面ともに良好ではなかった」ため、そのまま精神病院に送られ、一年後に亡くなったのだという。
私は中里さんの言動がおかしいと感じたことは一度もなかったのだが、四十八歳のとき、統合失調症を発症していたことも分かった。日中国交正常化の二年前、一九七〇年のことだった。幻覚妄想の症状で中国の精神病院に三カ月入院したという。私と最後に電話をした数カ月前は、川越の病院に入院していたのだった。北京の息子一家の元にいるときも幻覚妄想が出て、中里さんは「日本の病院の方が優れている」と言ったので険悪になったらしい。
最後に入った病院では、「中国から私についてきた男が、太鼓を鳴らしながら針を使ってチクチク刺す」「私がお金を貯めたので、恨まれている」「中国人が日本に多いから、私は憎まれている」と話していたという。次第に静かになり、歩行中に転倒したのがきっかけで、二〇〇四年八月十日、亡くなったと聞いた。もうじき八十二歳だった。
遺骨が納められたお寺を訪ねると、遺骨は一カ月前、一足違いで無縁墓に合祀されていた。「遺骨を北京に持って行きたかったんです」と落胆した私に、僧侶は「このお寺では毎朝、無縁墓にお経をあげています。お堂は泥棒が入らないように夜は鍵をかけています。だから、どうぞご安心くださいと中国のご家族に伝えてください」と話した。
私は二〇〇八年の北京オリンピックを前に沸く北京に行き、中里さんの息子と孫娘に会った。孫娘は二十代前半で、快活な女性だった。ホテルのロビーで私が「遺骨を持って来られなくてすみません」と謝ると、二人は「仕方ありません。私たちのために調べてくださって、感謝します」と返してくれた。
二人は一冊のアルバムを持ってきていて、私に開くよう促した。ショートカットにパーマをかけた四十歳ぐらいの中里さんや、おもちゃ工場で表彰されたときの誇らしげな中里さんと優しそうな夫の笑顔があった。赤ちゃん時代の孫娘を抱っこする中里さんの姿もあった。孫娘が生まれたときは、すでに中里さんは発症していたわけだが、幸福な日々があったことが見て取れた。
「お友達になってくださいねと言われたのに……」。私がそう言うと、孫娘は私の手に自分の手を重ねた。
「おばあさんはあなたのことを私たちに話していました。お友達だって言っていました。ありがとう」
あれから十年以上が経ったが、今でも後悔の念がつきまとっている。いくら自分の生活が第一だったとはいえ、私が気を付けていれば、精神病院で中里さんを一人で死なせなくてよかったかもしれない。
「私、あんまり運が良くないの」とつぶやいた中里さん、私に子どもが生まれたことを喜んでくれた中里さん、戦争に翻弄され、日中の狭間で言い尽くせないほどの苦労をしながらも必死に生きた中里さん。私は中里さんが好きだった。「お友達になってくださいね」と言われたのに、十分に応えられなかった悔いを、私はずっと抱き続けていくしかないと思っている。
「世界」2021・8(岩波書店)