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「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」

はじめに

どうも、「好きな先輩ランキング」堂々の第6位の玉野です。たくやが1位なのは考えられないです。あいつは票を買ってる。それしか考えられない。玉野に入れた5人はひっそりと教えてください。ご飯に連れて行きます。
まずみんなに何を伝えようか。4年になってから卒部ブログで何を伝えようか、いかにかっこいいことを言うか、常に考えていた。結局最後までとりとめもなかったので、とりとめのないことを、とりとめもなくつぶやいていこうと思います。
追記、文量が3000字を超えてしまったけど、読んで欲しいな。

第1章 小学校

サッカーを始めたのは小学校から、周りの仲良い友達がみんなサッカーをやるから。チームは誰もが知るファイヤージャガーズに加入した。地域ではそれなりに強かったが自分は下手くそな部類だった。うまい隼人にボールを集めるのが仕事だった。隼人に渡せばドリブルをして点を取ってきてくれた。サッカーを本当に楽しんでいたかと問われると、楽しくなかったかもしれない。でも試合で負ければ泣くし、負けそうな試合中にも泣いていた。当時はそんな熱い男だった。

第2章 中学校

中学に入ると、うまい奴らがみんなクラブチームにいった。そこで俺は王様になれると考えていた。実際に前線でボールを要求して守備はしないようなプレーをしていた。練習には遅れていった。かっこいいと思っていたし、ゲーム前のアップとか必要ないとも思って、試合だけ出ていたかった。本当にあの頃のみんなには迷惑かけたな、いま中学のサッカー部で集まろうって声かけても、全然集まらないのはそういうことだろう。でも楽しかった。そりゃそうだ、好きなことをやって、嫌なことはやらなかった。どうやって攻めるか、常に考えて、頭の中は崩しのことでいっぱいだった。潤、ちゃんとやらずにごめんね、綾部、コブダイとか言っていじってごめんね。

第3章 高校

高校に入学しても、もちろんサッカー部に加入した。もうサッカーから離れられない体になっていた。でも高校では中学のたるみのつけが回ってきた。みんなうまくて、俺より下手なのは笠間ぐらいだった。それでも性根が腐ってしまっている俺は、凌太とか駿樹とかと練習をいかにサボるかばっかり考えていた。中学よりは真面目にやった。3年になってからはレギュラーにもなれた。30年ぶり?くらいのインターハイ、選手権の2次予選の出場にも貢献した。3年生全員で選手権のために夏休みを献上して、9月までサッカーを続けた。
選手権が始まる最後の週の朝練で寝坊した。極めつきに遅れていって、先生がグラウンドに現れるのを見ると、とっさに逃げた。これがばれたら試合に出られなくなってしまう。俺は部室に隠れて、朝練は無事に終わった。その日の午後練を始めると、「あれ、先生に怒られない。これはばれてないぞ」と安心していた、最後の整列時、先生に呼ばれた。終わった。最後の試合はベンチに入れてもらって、最後にちょっとだけ出してもらった。常に一生懸命やって、遅刻もしなかった、選手権まで残るかどうか最後まで悩んでいたもりとは、最後までベンチに座っていた。ごめんもりと。本当にごめん。

第4章 大学
第1節 終わってる人間

大学は国立を目指した。いろいろあって静岡大学に入学した。国立だしサッカー部は弱いだろ、と考えていた。説明会に行ったら部費10000円だと聞かされた。おかしい。そんなの払ってられない。フランサにいった、陽キャ集団過ぎた。マイイレにいった、もっと本気でサッカーがしたかった。部活に悩みながら、教職の授業前にウイイレをしていたとき、一人の男が現れた。「サッカー好きなの?」宮﨑滉太郞だった。びびった、ウイイレをしていただけだぞ。話していくと熱くていいやつだった。入部をきめた。滉太郞がいなかったらサッカー部に入ってなかったかもしれない。だからといってありがとうとは言わない。俺がサッカー部にいて良かったと思うやつは滉太郞に感謝してね。
サッカー部に入ったらうまいやつばっかだった。試合なんかでれるわけでもなく、優吾さんには「終わってる」と言われた。自主練をしていたら、「それ意味あんの?」といわれた。そこから自主練を行わなくなった。ここで反骨精神がうまれるのが理想であったのだと思うが、やめてしまった俺は甘えていたのだと思う。「終わっている」人間だ。

第2節 寝坊の多発

4年間で何回寝坊したのだろう。数え切れないと思う。
忘れられない寝坊は、1年の忘年会、県内リーグの決勝戦のあと、寝てたら、寝坊した。辻さんに電話して、「来た方が良い」と言われたけど、「先輩に飲まされるだろうな」と思って、欠席した。
その後、中島で練習するとき、集中講の関係で、Aチームの練習に参加する予定だったけど、寝坊した。終わったと思ったが、更に遅れてきた副キャプテン、コタさんに、溝さんの怒りの矛先が向き、最悪の事態は避けた。こたさんは2週間くらい走ってた。
3年時、3回寝坊した。2回目の寝坊で坊主にした。次の罰は何にしようか、みんな走りとかフィジカル系の罰だったけど、きついのは嫌だから部活を止めることにした。そして3回目、自分で言ったからには止めなくてはいけない。あれこれ考えて、やっぱりやめたくなかった。ノブさんに頼んで、2週間反省期間を設けてもらった。掃除をしたり、準備片付けを行ってなんとか許してもらった。このときの遅刻仲間、上田のキョウヘイさん、ライセさん、最後にやらかしたコウキさんとは団結できたし、救われた。らぶ。
このように遅刻を繰り返し、同級生のみんなには本当にたくさんの迷惑をかけた。特に朝練仲間の滉太郞、侑、康平、大煕との個人ラインには着信履歴しかない。本当にありがとう。

第3節 大学4年

大学4年次東海リーグにベンチであったが帯同することがあった。哲也が死に物狂いで走っていて、外から見ていてもテツは疲れていた。それでも代わるの俺ではなかったし、選手を代えない事も多かった。テツへの信頼が厚い上に、自分への信頼は全くなく、人数あわせで東海リーグに行っているのだと考えるようになってしまった。そこで、信頼を勝ち取れるように努力しようと考えることができれば、もっと変わった1年になっていたのかもしれない。しかしそうもいかなかった。毎週の東海リーグを経て、団結力を増し、どんどんうまくなっていく好循環を見ながら、これじゃ一生追いつけないと考えていた。試合に出る事って大事、少しでも出ることでみんなの好循環に関わって、自分もうまくなる。レオなんてまさにそれだった。ちょっとだけ、いや実はかなり羨ましかった。「一緒に試合出ましょう」って言ってくれた時、ちょっとだけ、いや実はかなり嬉しかったし、泣きそうだった。ありがとう。
怪我も重なり、思うようにプレーできず、Bチームに居心地の良さを感じてしまった。怪我を言い訳にしている自分が恥ずかしかった。Aチームのやつらはボロボロになりながらプレーしているのに、怪我を理由にすることなんてとんでもないことだ。侑が「東海リーグで素直に喜べなかった」と言っていたが、俺もそうで、自分の惨めさ、不甲斐なさを常に感じていた。それなのに向上心のない自分が、全くサッカー選手として最低で、「終わってる」人間だと自覚していた。

おわりに

とりとめもなく俺のサッカー人生をつぶやいてきた。振り返ればサッカーに対して真摯に取り組んでるとは言えなかったな。でも俺はサッカーが誰よりも好きだから、サッカーは一生続けると思う。
ずっと俺に欠けているのは向上心だったと思う。俺は常に自問し続けた。なぜサッカーを続けるのか。週6で、まともに休みもない。なんで部費10000円を払ってまでサッカー部に所属し続けるのか。それはひとえにサッカーがこの上なく大好きだからである。大好きで、サッカーをやっているときが一番楽しいからである。つまるところ何が言いたいのかはサッカーを楽しんでほしいということ。それと少しの向上心。大学でサッカーをやるやつでサッカー嫌いなやつは琢也くらいだろう。みんなサッカーが好きなんだから、好きなサッカーを楽しんでやってほしい。俺が大好きなサッカーを嫌いにならないでほしい。

「知之者不如好之者、好之者不如楽之者」 孔子『論語』より