身軽なでぶ
「身軽なでぶ」と呼ばれている人がいた。
正反対の意味をかけ合わせた言葉は、新鮮な響きと破壊力を持ち、学生でまだまだ世界が狭かった私に、大きな衝撃を与えた。
一見、ネガティブに捉えられがちな言葉も、枕詞を変えるだけで、こんなにもポジティブになる。
それまでの固定観念を変えてくれた。
そして、そこには確かな信頼関係があった。
相手をリスペクトする心、当人も身軽に動けるという自負の心。
はたから見るとコンプレックスと捉えられることを、コンプレックスではなく、強みに変えていた人だった。
あだ名禁止。
なんてつまらない。
大人の怠慢でしかない。
そして育むべき想像力を奪う。
どのような子供時代を送ってきた人間が指導者になっているのだろうか。
子供の柔軟な頭でしか思いつかない、奇抜でありながらも本質を突く、最高のあだ名が生まれることがある。
想像力のない、人と正面から向き合えない、保身ばかりの大人が指導者になっているのだろうか。
そんな現状が残念でならない。
そして、自由に発想することを奪われた子供が気の毒でならない。
今の子供は、早く大人になることを求められている。
躾がなっている事は、大前提。
人として生きるための基本的躾は家庭で、社会で生きるためのルールは学校で身に付ける。
大人の社交場である居酒屋にも、大人の都合で連れてこられる。
大人と子供の境界線が、なくなりつつある。
心が柔らかい時に大人の汚さを見せつけられ、果ては、想像することを禁止される。
そんな子供が大人になった世界に夢はあるんだろうか。
ピカソのように、大人になってから子供心を取り戻す人もいるんだろうか。
小学校の時、私のあだ名も相当なものだった。
名字からとったものと考えられるが、誰が考えたのか。
今でも天才だと思う。
一度だけ、あだ名についての時間があった。
みんなで自分のイヤなあだ名を言い、そのあだ名はやめましょうという。
私には、突如現れた可愛らしいあだ名もあったが、それが嫌いだった。
それを言った時のみんなの驚いた顔が忘れられない。
「あ、あっちだったか」
でも、あのあだ名を私は大層気に入っていた。
他の誰も決して呼ばれることのない、私だけの特別な呼び名。
誰もがもつ特別でありたい、という思いを叶えてくれていた。
これをきっかけに、市民権を得た私のあだ名。
私が許可を出したのだ。
もう、誰も余計な口出しは出来なくなった。
呼ぶのは男子だけだったが、男子と女子から違うあだ名で呼ばれ、私の中で住み分けが出来ていた。
大人の常識で、子供の世界観を奪う。
私は妄想は得意だが、空想が苦手だ。
そして、自分にないものを持っている人を無条件で尊敬してしまう。
どんな呼び方であろうと、そこに信頼関係があれば、周りがとやかく言うことではないと思う。
外見などを揶揄するような言葉は論外だが、当人同士が納得していれば、禁止されることではないだろう。
そこに固い絆があれば。
一番大事なことは、信頼関係。
相手を思い、認め、受け入れる。
あだ名は、一つの道具にしかすぎない。
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