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法の実践を始める推進力

このパユットー師の「仏法の思考と実践」という本を読んでいくにあたって、ちょこちょこnoteに書いていこうと思いました。ご興味のある方は読んでいただけると嬉しいです。またコメントなどもお待ちしています🙏😊

 1.  法の実践を始める推進力

 まず最初に、実践の資金と使う資具について話をさせてください。私たちは旅に出発します。よく準備するなら、食料、あるいは資金と旅の助けとなる資具を持つべきでしょう。磁石、ステッキ、懐中電灯、水筒などなどです。私たちは実践という生きる旅に出るのですから、同じょうに資金、食料、資具などが必要です。
 一つは当初の資金です。私たちは旅に出ます。最初はまだこの目標が、そして人が本当に到達できる道を把握できるのかどうか分かりません。しかし、私たちは教科書を、師を信じます。もう旅をしてきたと言う人を信じます。私たちは、確信しています。少なくとも彼らの言うこの道を彼らは知り、本当に目的地に達し、私たちも行くことができるということを信じて資金とします。そうでなければ、私たちは旅に出発しません。
 生きる道を旅する、すなわち実践する人も同様です。基本的な信仰を持たねばなりません。この信仰は(Saddhā)と呼ばれるものです。
 ここでの信は、特別な意味での信です。菩提という言葉を前に付け加えると菩提の信(Bodhi-saddhā)となります。もうちょっと長くして全部付け加えると、如来菩薩の信(Tathāgata-bodhisaddhā)ですが、短く菩提の信と呼んでも構いません。
 この如来菩薩の信は、ブッダの大悟された慧を信じることだと解釈されています。どういう意味かというと、ブッダも最初は普通の人間でしたが、その後大悟されて真法を見出されてブッダになられた。自分をブッダにされる慧を持たれた。これは人間が自分自身の慧を開発して、ブッダになることができるという意味です。だから、ブッダの大悟の慧を信じるのです。すなわち人間をブッダに変える慧を信じるのです。
 人間はこの慧というものを持っています。人間はこの慧を生じさせるように開発することができます。新しい時代の言葉で、開発できる人間の潜在能力ということと同じです。このように信じることがなければ、やり切ること、あるいは前進はできません。
 だから法の実践を始める者はこのことを信じます。如来菩薩の信があります。如来の大悟の慧を信じます。人間をブッダに変えた慧を信じるのです。この人間が最高の慧を持つところまで自分を開発してブッダとして大悟できることを信じるのです。開発できる有情としての人間の潜在能力を信じるのです。
 このことについては、多くの仏語の格言があります。例えば、ブッダは、「修習した人は最勝の人である」(Danto settho manussesu)と言われました。修習とは開発のこと、あるいは学習を受けるということです。
 ここで Dama とは訓練のことBhāvanā は修習あるいは開発、Sikkhāは学習ですが、これらはそれぞれ代わりに用いることができ、しばしば代わりに用いられます。訓練するは学習した、あるいは「開発した」を意味します。「多くの人間の中で訓練した、あるいは学習した、あるいは開発した人間は最勝の人である」という意味です。
 もう一つの仏語は、人間に自分自身に信じることに大胆であれと教えられた言葉です。
友よ、あなたも善をなすことができる、どうして自分自身を蔑視されるか」(Kalyāņaṁ vata bho sakkhi attānaṁ atimaññasi)
 社会の中で多くの人は自分自身を、自分は能力がないと思って軽蔑し、意気阻喪して、善なることをすることができない。ブッダはこの仏語で注意されたのです。これは私たちを刺激する言葉の一つです。人間に大胆になって自分自身を確信するようにとの言葉です。常に刺激することについての、この種の仏語は数多くの場所にあります。これは、何となく確信するのではなく、今後自分自身を開発することができることを確信せよということです。だから最初は菩提の信を持つことです。人間をブッダに変える大悟の慧を信じることです。
 この菩提の信は全体系に繋げると、三宝への信となります。
 さて、今や道に入りました。信仰があれば道を歩み始めることができます。今度はこの道は何と呼ぶのでしょうか? 先ほどは、中央の道を意味する中道(Majjhimā-paṭipadā)のように、この道は Paṭipadāという言葉を使いました。しかし、一般的な言葉としては Maggā、あるいはMagga を使います。これは道を意味します。仏教では、一切の実践項目である法の原理は道です。
 ここではっきりと一致することになりました。法の実践は、道を歩むことです。生きることを進めることです。一切の実践部門の法の原理はすべてが道に集まっています。
ポー・オー・パユットー 仏法の思考と実践 
第2章実践の開始と前進

仏道は旅に出ることで、信が資金なのだと、この例え。
資金がないのに旅に出たら、どこぞでまた資金を調達せねば。
如来の大悟の慧を信じる。
最初はこれが必要なのですね。
これがなければ、旅に出られないということです。仏道へ進めないということか。

この信(Saddhā)についてなんですけど、、
これはけっこう難しい。。😂
信は仏道修行の慧を開発する過程の一段階に過ぎず、最初の段階だと言える。とパユットー師は「仏法」では書かれてあります。
というのも、慧が開発されてくると、信は必要なくなると言いますか、
「仏法」では、
信 →   正見 →   正智  →   正解脱
このように書かれてあり、これは慧の増進を簡単に書いた図とされています。
正智になると、信は全く残らない、慧によって完全に置き換わるからであると書かれてありました。

えっと、難しいんですけど、八正道の最初に正見、があるのは、やはり私たちは自分の見というのは、物事を見たいように見ているので、最初は信から始めるのだということなんだと思います。
正しい見方ができない私たちは、正しい見方というものを、先生に教えてもらう。こんな感じでしょうか。

これは私の考えかな。

私たちは、世の中というもの、事象という事象、自分の中に浮かんでくる思考や感情も、見たいように見るんです。👀
言ってみればそれがview。私が見ている景色です。何か景色を見た時、それがそのまま正しくて、事実のようにそこにあるように見える。
まあ、あるんですけど😂
そこを乗り越えないといけないというのはやっぱり、仏道の大変なところだなあと思うわけです。

慧がそこにあれば、そこには正見があるんだと思います。そうすると、そこからは煩悩は生じない。のでしょうと思います。これは私自身の実践の中で確認していることでもあります。

友よ、あなたも善をなすことができる、どうして自分自身を蔑視されるか」(Kalyāņaṁ vata bho sakkhi attānaṁ atimaññasi)

仏陀は私たちを、応援してくださる先生なんですね〜。
開発していきなさいと。
人間は唯一、自分自身を開発していける存在なのですよ〜って、たぶん仰られてるんです。

パーリ語🙌
仏道の、道。これはたぶんパーリ語では、
magga (マッガ)
もう一つ道を表すパーリ語があって、
paṭipadā (パティパダー)
この二つとも、道という意味があるんですけど、違いは何かな?と気になって調べてみました。
パーリ語には男性名詞とか女性名詞とかのように単語によって男性女性の性別の区別があったりするんです。面白いですよね。
maggaは男性名詞で、paṭipadāは女性名詞です。
maggaは、探求するとか追求していく 正道
paṭipadāは、行、実践そのもの 行道
このような違いがあるみたいです。

パーリ語を勉強していると、単語の意味がすごく気になって、ずっと調べちゃうのでなかなか次へ進めないという。。😂
でも面白くてちょっとだけハマってます。ちょっとだけですよ🤏

次回は、資具。仏道に必要な道具🪚?ノコギリはいらないと思いますけど、資具について書いていこうと思います。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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