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怒りに気づく

私は長らく自分自身の怒りと闘ってきました。
怒りの感情に悩まされて、苦しんでいる方も多いのではと思います。

怒りとは何でしょうか?
怒りとは、自分の欲求が満たされない時に起きるもののようです。

怒りが生じた時、そこには私の欲求が隠れています。怒りの感情にはまり込まずに、まず自分の怒りに気づいてみます。
そして私の欲求が何か、確認してみるんです。
この作業を怒りが生じるたびに行ってみると、自分の心の仕組みをけっこう学べます。
これは、因果法則なのです。

例えば、子どもにイラッとした時は、その怒りにはまり込むのではなくて、あ!怒った!と気づくんです。(心の中の作業です)
そして、私の欲求は何?と問いかけます。
子どもがぐずっていて、支度を早くしてくれないことにイラッとしているなら、(うちのあるあるパターンです🤭)
あ、時間が迫っているので、早く支度をしてほしいんだな。ということです。まるで他人事のように自分の感情を客観視してみるんですね〜。

これって因果法則なんです。

欲求がなければ、怒りは生じません。
欲があるから怒りが生じるんですね〜。
早く支度をしてほしいと思ってなければ、イラッとしない、ということです。
それを、怒りから、毎回毎回学んでみるのですね。ちょっと忍耐ですけど、ゲームのようにやってみると面白いです。

そのゲームをするメリットは、自分の怒りの感情に振り回されなくなることです。怒りにはまり込まなくなるんですね。

ここでの注意点は、自分の感情と言いましたが、自分、とか私、ということを入れないのがポイントだったりします。それは、生じたもの、なのですね。私のものではないんです。

そしてもう一つ、ご自分を否定しないことです。欲求を、怒りを、否定しないでみるんです。ここで重要なことは、欲があるから、怒りが生じたのだな、と理解していくことです。学ぶことです。

私は最初これを、「怒りのもぐらたたきゲーム」のように理解していましたが、怒りが生じるたびに気づくようにするんですけど、果てしないような感じで怒りが生じるので、一回、ちょっと皆様も、1日に自分が何回怒っているか、数えてやってみると面白いと思います。
人によって、感度が違いますから、私は全く怒りは生じません、という人から、私は1日に何回怒っているかわかりません、という人がいると思います。
それが事実かどうかは置いておいて、とにかく自分の怒りに気づいていく、という作業なんですね。
そして、その怒りの原因となっている、欲を炙り出してみるのです。

もし怒りで失敗したくない、と思われるのでしたら、怒りの感情に振り回されたくない、と思われるのでしたら、ぜひやってみてほしいですし、けっこう面白いと思います。

そして、因果法則の続きですが、欲の原因は、無知です。ここまで観察できたらすごーいって私はつい思っちゃいます🤭が、ここまで観察できると、自分の邪見を正見に変えることが可能になってくる気がします。

子どもにイラッとしなくなるためには、正見が必要ということです🤣🙏

正見とは、正しく物事を見る、ということですね。

私たちはここから間違っていますから、いろんな出来事と出会った時に、怒りが生じるようなのです。

私たちには、正見がありません。だから、怒るんです。

↑ここを認めると、まず、怒りが生じてしまう自分に、怒る(落ち込む)ことがなくなります。なんのこっちゃですけど、重要なポイントでもあります。

私たちはだいたいの出来事を邪見で見ていますから、怒りは生じるものなのです。
ここを私たちは認めたくないんですね。自分の邪見を認めたくないのです。
いつも、私は正しい、という態度ですからね。

この事例でいくと、子どもはぐずる生き物です。が正見かな😂ここは、その場の状況によって変わるところではありますね。例えば、子どもの具合が悪いのかもしれないですしね。色々、想定できそうです。
時間に制限がかかると、焦るのも当然と言えば当然ですが、遅刻したからと言って、死にはしません。そこにも違う私の欲求が実は隠れていたりしますね。人からルーズと思われたくなかったり、何かを言われたくないとかですね、例えばです。
このように、私たちの欲には限りがない、と、そおいえばお釈迦様は仰っていたかなあ〜🤔

ここを理解すると、心は落ち着くんですね。怒りが生じても、あ、生じたな、と気づいていくだけになっていくのです。

人によっては簡単なことではないかもしれませんが、これは訓練です。
やるかやらないか。それだけです(byもつにこみさん)。🙇‍♀️

ただ、流れる川を眺めるように、生じる怒りに気づいていくんですね。

もう一個😆🙏

怒りには、慈悲で対応します。慈しみの感情と怒りの感情は同じ時を共有しません。いつも慈しみの心を心がけることで、怒りが生じることを予防する効果はあります。

ということは、慈悲の心は、正見の心でもあるということです。(たぶん)

いつでも自分と人に慈しみの気持ちを心がけること。これも訓練です。
私は生きることは訓練と思ってます。

何でこんなことを訓練してるんでしょうか?

それをすることで、自分が苦しみから解放されることを知っているから、でしょうかね〜。

皆様が安穏でありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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