見出し画像

生きているとどうなるか?「縁起」①

ポー・オー・パユットー氏の「仏法」を学んでおります。
今日から「縁起」です。
難しいところですけど、今の私なりに学んでいければと思います😊🙏🙇‍♀️

私は上記のホームさんの仏教講座で、学ばせていただいただいております。私の学びの共有として書いておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏

さて、縁起、仏教を学ばれている方は、十二縁起、をご存知でしょうし、縁起といえば、十二縁起、を思い浮かべる方が多いと思います。

私は、縁起と十二縁起は、そこまで結びついていないといいますか、(え?!)、十二縁起の理解がそこまでできていないので、十二縁起はとりあえず、私としてはまだしっかり理解できていない範囲のものとなっているんですね。ですから、気をつけてくださいね😆🙏❣️

私は、無明→渇愛(欲)→瞋(怒り)のような因果法則をざっくりと理解している感じなんです。

何かに執着していると苦しみが生じる、そのようなことを観察しているくらいです。

縁起の道理

一般的な縁起の道理

1.これあるときに、これあり
      (Imasmim sati idam hoti)
   これ生じるが故に、これ生ず
      (iImassuppada idam uppajjati)
2.これなきときに、これなし
      (imasmim asati idam na hoti)
   これ滅するが故に、これ滅す
      (imassa nirodha idam nirujjhati)

文章を見て思慮すると、この原理は此縁性(Idappaccayata)と呼ばれるるものに合致する。

ページ数が多く、全ては引用することが難しいので、私チョイスで、恐縮です🙇‍♀️🙏

縁起の道理の、有名な語句だと思います。
ホームさんの講義で、まず言われたことは、
ここは2つのパートに分かれて説明します。
・ 縁起そのものの内容
・ 十二縁起の教えが他のところとどういう風にどんなものと繋がっているのか
この2つです。
この度は前項を中心にと思います。

十二縁起は、他の仏教の大切な教えとつながっている(三相など、流れはあるが実体はない、何かは必ず何かに依存している)、ということでした。

苦がどうして生じるのか、どうしたら消えるのか

仏教の真髄、ですね。。三相のところでもそう書いた気がするけど😂
脱線しちゃいますけど、
私は、私自身に生じている苦を観察してみると、
子どもの時ですけど、友達といると何か馴染めない感じ、友達が楽しめていることを楽しめない、とか、友達が嫌だと思うことを嫌と思わないとか、そのようなことに、孤独感を感じていた気がします。
でもそれは、友達と離れるとなくなります。私一人の世界だと、孤独感がなくなる、というような、ざっくりですけど🤭そんな感覚がありました。
比べるということで、人と違うというところで、苦が生じているのかな、と。

比べなければ、苦は生じない。

これも一つの真理というか、事実でしょうと思いますね。

戻りますと、、

苦しみも何かに依存している。
苦しみの原因を理解することが大事。
私達が自立性(自律性?)を持って役割を果たせる
幸せも苦しみも自分自身によるのだ、とホームさんは言われていました。

仏教は、苦しみが生じる原因があるよ、と教えてくれるんですね。
縁起という言葉の意味ですが、カタカナは、耳でそう聞こえた感じです🤭
縁 パティチャ 何かに依存する
起 サムパダ 同時に生じる 他のものに頼って生じる 
パユットー氏の仏教辞典を開いてみると、
十二縁起(Paticcasamuppada 12 : the Dependent Origination; conditioned arising) : 一切の法は相互に依存しているので同時に生じること。相互に依存する法が同時に生じること。一切のものは相互に依存するので生じる。
とありました。

同時性

この、同時性。十二縁起というと、無明から始まるあの円を思い浮かべますが、、

画像1

これですね。
これを見ちゃうと、順番に生じているような印象をどうしてもしちゃうんですけど、やはり同時性、なんですね。
これは、スマナサーラ長老の実践心理学の縁起のところにも書かれてあったので、抜粋しますと、

時間的「順番」より同時的「かかわり」
瞑想実践をして悟りに達することは、具体的な現実的な仕事なのです。そのためには、具体的に今現在にある現象を観察しなくてはいけません。それが、因果法則によって成り立っている現象なのです。実践する人にとっては、連続性の因縁関係より同時性の因縁関係の方が大事なのです。過去でどうなったのか、過去の原因は何だったのかと、今さら調べて分っても、どうすることもできません。「今はどうなっているのか」と因縁関係を知ることで、解決策が見つかるのです。過去の原因が今の結果を出しているのですが、過去の原因がすでにないので、どうすることもできません。しかし、今の結果も現在の関係によって成り立っているから、その原因が見つかると、なんとかすることができるのです。例えば、「小学校のとき、先生が厳しかった。勉強は面白くなかった」と大学生が悩んでいたとすると、何の意味も解決策もない無駄な悩みなのです。今の先生たちはどうなっているのか、今の勉強に興味はあるのかという現実だけを見ればよいのです。しかし、人間はいつだって過去に足を引っ張られて人生を台無しにするものです。
 ですから、お釈迦様が因果法則にpaticca- samuppadaと名付けるとき、連続性ではなく、同時性を強調なさったのです。連続性は簡単です。種があったから芽が出た、地震が起きたから家が壊れた、などの話です。しかし、壊れた家の持ち主は、終わった地震について悩んでも恨んでも研究しても何の意味もありません。現在を見ると家が壊れている。建て直さなくてはいけない。それを考えれば賢いのです。
 連続性を強調したくなったならば、お釈迦様が paticica- samuppadaを説く場合は、「生まれる」という単語を使うはずでした。パーリ語で言えば、 uppaijati, hotiなのです。方程式では使っていますが、実際みんなに説法するときは、関係を示す paccayaを使っているのです。アビダンマ論では、どちらかというと連続性に偏っているのです。当然、同時性の説明もあるのです。

時計の因果法則
私がここで何が言いたいのかというと、「無明から行が生じるのだけど、行があるときにも無明があります」ということなのです。「行から識が生まれるのだけど、識があるときには行もあって無明もあります」、そして「ということは、最後の生、老死があるときも、他の項目も全部あるのだ」ということなのです。

(「ブッダの実践心理学 第六巻縁起の分析」アルボムッレ・スマナサーラ 藤本晃)

このずっと後ですけど、長老は、縁起がわかりにくいのは、無明だから。「一切は苦である」とわからないのだから、行「なんとなく何かしよう」というエネルギーが出てしまう。行は意志の意味だと、書かれてありました。ちょっとした働きで見ることですと。どうしてもそこに、連続的なさだめ論、運命論に陥りやすい方法でしか理解できないから困ったものだと書かれてありましたね😂さだめ論や運命論は、役に立たないと。
仏教の世界で一番難しい教えは、因果法則なのです。と。

仏法以外のところから引用しちゃった🤭😆これもありかな。学びの醍醐味😂🙏

ここまで、学んでくると、今まで私が思っていたというか、理解していたと思っていたことも、ちょっと違うのかなあと思えてきました。
この同時性なんだなって。思考で理解しようとすると、行き詰まり感がありますね。

私自身のことで考えてみると🤭
昔から、何をやっても満足することはない、お金をたくさん稼いで手元にあったとしても安心はそこにないし、豪邸に住んで毎日美味しいものを食べたからといって、それがなんだろうか、漠然としたそんな気持ちがあったのですが、これがいわゆる、苦、不満足、とかそういうものだな、と思うんですね。
それでも、生きないといけないから、どうせなら?😆人の役に立つことをした方がいいでしょうと、たぶんそこに喜びを見出せていたからだと思いますが、人のお世話をするような職業について仕事をしていましたが、それをしたところでも報われないと不満が出てくる自分がいて、ここも苦かと。
何をしても満足しないのですね。どこまでいっても不満なんです。それって、何だろうなと。ここを探究していって、仏教に出会って、ああ、これだと、思いました。

この私のエピソードいるかどうかわからないんですけど😂

生きることって、何でしょうか?

この縁起の副題は、「生きているとどうなるか」。
こうやって、私たちは感受の奴隷となって、ただ感受を喜ばせる(?)ためだけに生きているんだと知らされる、六処のところからそう学びました。

また戻ります。

十二縁起のそれぞれの意味

(I)簡単な意味

①無明( Ignorance, lack of knowledge)
 あるがままに知り見ること(如実知見)がない。実相を覚知しない。世俗の教示に惑う。あるがままに世と生命を理解しない。様々な信仰に潜むものを知らない。因縁を洞察しない。そのときに慧を用いないか、慧が働かない。

②行( Volitional activities)
 思考、意図。熟慮し、目指し、決意する。意思を行為として示すこと。偏向、慣れ、蓄積された心の様々な特性に従って進行する思考の過程。

③識( Consciousness)
 『様々な所縁を認識すること。すなわち、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、身体に感じ心の中にある所縁を知ることから、そのときの心の根底の状態に至るまで知ること。

④名色( Animated organism)
 人の認識の中の精神的なものと物質的なもの。一致した状態にあって、生じた識の方向に対応するために、働く心身のすべての部分の状態。心の状態に応じて増進するか、変化する心身の様々な部分。

⑤六処( The six sense- bases)
 その様々な状況に一致して働くことに関係する処の状態。

⑥触( Contact)
外の世間と知識の接合。様々な所縁、あるいは経験の認識。

⑦受( Feeling)
 快適な、気に入る、または苦、不快、または感じない、不苦不楽などの感覚。

⑧渇愛( Craving)
 楽受をもたらすものを欲求すること。苦受を起こすものを避けること。状態で分けると、欲しい、要る、生きたい、そのような状態にずっと留まりたい。避けたい、消したい、破壊したいなどの欲求。

⑨取( Attachment ,Clinging)
好き嫌いといった受に固執し、その受を自分に結び付けるのに役立つ様々なものと生きる状態を手放さないこと。好き、あるいは嫌いの受を生じさせるものに執着して、自分の渇愛を増やすか、応える方向の様々なものを評価すること。

⑩有( Process of becoming))
渇愛と取に応えるために表すすべての行為の過程(業有=Theactive process)と、自我、あるいはその行為の過程と、取に一致して何らかの形をとる自我(生有= The Passive process)のための生命の状態。

⑪生(Birth)
 その生きる状態の中にいるのかいないのか、あるかないか、そのようかそうでないか、という自我に自覚が生じること。

⑫老死( Decay and death)
 その生き方から自我が切断、逸脱、あるいは離脱するという思い。自我がその生命の状態、またはそのように得たもの、なったことから、消失、破滅、または離脱で脅される感覚。そこで、愁、悲、苦、憂、悩が繋がって生じる。すなわち、困苦、支障、憂鬱、悲、憔悴、恐怖、懸念、失望、焦燥などの様々な苦受の感覚である。

この説明だけで、面白いなあって思っちゃうところは、だから、結局、感覚なんだって。みたいな🤭😆
その感覚を私のものとするところに苦がある。
のだと思います。

それから、ここから長い引用を入れようと思います。
ちょっと覚悟して読んでみてくださいね🤭😆
日本語版の仏法の本を持っている方は、133ページから144ページまでを読んで頂ければと思います。


(II)簡単な関係の例示

①無明→行
如実に知らず、了知しないがために、様々に思考し想像して像を描く。
 幽霊を信じているため、暗闇の中の人間が動物の眼光を見て、幽霊の顔形を本当に見た、様々な行相を見たと思い、恐怖に駆られて逃げ出すなど、何らかのことをしようと考えるのと同じである。または手の中に握られたものを見ないで言い当てる人と同じで、理由を探し出して判じ想像し、様々な口論をする人と同じである。
 また、微笑みかけても相手は微笑まない。見損なったか、近視眼で見えなかったか、ぼうっとしていたか、など調べもせず考えもせず、怒って不満に思い様々に思い巡らす。
 あるいは相手が微笑むのを見て、何を微笑んだのか分からず、心に劣等感を持っていて、あざけったのかと想像して恨みを抱く。
 天神は喜べば何かを創造してくれると信じる人間は、様々な願掛けの言葉、様々な祭祀の儀式を考えて、それを行うなどである。

②行→識
意思があるとき、すなわち、決意する、故意にする、目指す、心が選ぶ、心が受け入れるとき、見る、聞く……ないし関係しようとしたとき、見たり、聞いたりする識が生じる。しかし、意図しな
かったり、関心がなければ、認識できる範囲にいても識は生じない。(見えない、聞こえないなど)何か別のことをしようとして熱心に考えたり、働いたりする人間と同じである。例えば、夢中になって読書をしている人は、心は読んでいる内容だけを認識して、聞こえるような音も耳に入らず、蚊が刺しても感じないなどである。何か一つのことを探していると、当然見えるはずのところを通る人や物が目に入らない。
 同じものを別の意思を持ってその意思の角度から何回も見る。例えば、遊ぶ子供の考えで、空き地を見て、ある種の認識と意味を得る。もう一度農民の考えで見て、ある種の認識と意味を得る。実業家の考えで見て、また別の認識と意味を得る。同じものを別々の考えで何回も見て、別の角度、別の面での認識を得る。
 善のことを念頭に置くときには、心は善の所縁を認識して、その所縁の善なる面の意味を認識する。悪を念頭に置くときは、心は悪の部分の所縁を認識して、一致してその所縁の悪なる面の意味を認識する。また、一例をあげてみよう。
 近くに置かれ、一度に見られる範囲にある多くのものの中に、ナイフと花があるとする。花を愛す人はそれを見て、心は恐らく花だけを見て認識する。認識は花だけに何度も繰り返して起こり、近くに置かれている他のものは目に入らずに気が付かない。その花が気に入って好きになればなるほど、花の認識はますます密になり、他のものの認識はそれだけ少なくなる。武器を使っている人が見る場合は、心は同様にナイフを認識する。二人が、ナイフを所縁として見る場合でも、一人は他人を殺害する武器としてナイフを認識する。
どのように認識するかは、もう一人は一つの鉄の塊として認識し、その人が強盗か、料理人か、古鉄商人か、どのような意思、思惑の状態に置かれているかによる。

③識→名色
 識と名色は互いに依存している。サーリプッタ比丘は次のように言っている。
「二東の葦は互いに寄りかかって立つことができるように、名色に縁りて識があり、識によりて名色がある。二東の葦は、一東を除けば、もう一つの東は倒れる。一東を抜けば、もう一つの東は倒れるように、名色が消滅すれば識も消滅し、識が消滅すれば名色も消滅する」
 この意味において、識が生じれば、名色も生じるし、生じなければならない。行に縁りて識が生じる場合、名色も同時に生じさせる。しかし、名色が生じるのは、それが識の特性であり、共に識を構成するものという立場で、識に依存しなければならないから、行に縁りて識が生じる、識に縁りて名色は生じると言うことができる。ここでは、識に縁りて名色が生じる状態を以下のように分けることができよう。
(i)心が何らかの所縁を認識するということは、例えば、何か一つのものを見るとか、一種の声を聞くとかのように、実は様々な名色(ここでは、色蘊、受蘊、想蘊、行蘊を意味する)を認識することに他ならない。すなわち、人にとって物が存在するということは、そのときその人の認識の中に物がある、あるいはそのときの識によって名色が認識されたに過ぎない。例えば、そこにあるバラの花は、そのときの眼の神経、あるいは意門を通じて認識されているバラの花に過ぎない。それ以外に、そこにあるそのようなバラの花は、意門における概念とは別にはないし、そのときあるその人の受、想、行と異なるものではない。この意味において識があるときには、名色は同時にあるし、互いに支え合ってある。
(ⅱ)識に繋がる名色は、識にー致する性質を持つ。特に一切の「名」は、心の素質に他ならない。善なる考えがあれば(行)、それに縁りで、そのとき善なる、善の面の所縁を認識する識が生じ
る。心もそれに従い、すっきりと透明な状態になる。身体の様な動作態度、行為もそれに一致した善なる特徴の形を表す。悪の方で考えると、悪の面での所縁の認識が生じ、心も濁って憂鬱となる。身体の様々な動作態度、行為にも、それに従って憂鬱で緊張した硬さが表れる。このような状態で、心身両面の様な構成要素は、生じた行と識に一致していつでも仕事をしようとする、あるいは仕事をする状態である。
 愛情、友情を感じれば(行)、善なる所縁を認識する(識)。心も晴れ晴れとして楽しく(名)、顔色も晴れやかな明るい笑顔で様々な動作もよく(色)、引き続き善なる方向へ表れようとする状態である。
 立腹すると、劣る部分の所縁の認識が生じ、心は濁ってうまく働かない。顔つきは仏頂面、動作はぎこちなく、引き続きその方向で様々な態度や行動を表そうとする状態となる。
 競技場にいる運動選手は、競技が始まると、様々な思いや意思は競争している運動に注がれる。その競技に注がれる意思、関心の力に応じた頻度で、そのことへの様々な認識が生滅する。関係する心身のあらゆる部分が一致してその行為を表す仕事を果たそうとする状態になる。
 この間の状況は、業と業の果を生む過程にとって重要な段階の一部である。輪廻の循環が小さく回転して(無明=煩悩→行=業→識+名色=異熟)、さらに続けて回転を始める。性格、習慣、知識、熟練、人格を形成する重要な段階の一部である。

④名色→六処
 名色が続けて働くためには、外部の世界の知識に頼るか、あるいは今後どのような行為をどの方向でなすべきかを決心、選択する道具として、以前から蓄積していた知識を引き出さなければならない。
 したがって、様々な所縁の認識と接触する方法、または伝達する役割を果たす部分の名色、すなわち、その場合に関係する処は目覚めた状態になり、それまでの縁と一致する関係の働きをする。例えぱ、競技場の選手の場合は、例えば眼の神経、耳の神経などそのスポーツに関係する所縁を認識する処が、競技に関係する所縁を特別の速さで認識する目覚めた状態にある。同時に、目的とする所縁の認識に関係しない処は、所縁の認識を起こすような目覚めた状態にはない。やさしく言えば、それだけ働きが鈍る。例えば、競技に集中しているときには臭覚や味覚は起こらない。

⑤六処→触
 処が働くときは、三種の構成要素(支)が合わさって認識が生じる。すなわち、内処(眼、耳、鼻、舌、身、意のいずれか)と外処(色、声、香、味、触、法所縁のいずれか)と識(眼、耳、鼻、舌、身、意のいずれかを通じて)である。認識はそれらの処と一致して生じる。

⑥触→受
 触が生じれば、苦楽に関する三種の感覚のいずれかが生じる。快適で楽しく幸せ(楽受)か、さもなければ、圧迫された不快な苦痛のある苦(苦受)か、さもなければ、別に何も感じない、幸せでも苦でもない(捨、不苦不楽受)である。
 縁起の第三支から第七支まで、すなわち、この識から受に至るまでは異熟の過程、そのうち特に第五、第六、第七支は、すなわち、業の果である。それ自体は、善業でもなく、悪業でもなく、善でもなく、悪でもないが、それ以後は善悪の因となる。

⑦受→渇愛
 楽受を受ければ、満足で嬉しく、執着して欲しくなり、ますます欲しくなる。苦受を受ければ、不満でそれをなくして壊したくなる。その苦受から逃れたくなる。そして、次に楽受を与えてくれるその他のものが欲しくなり、探し求めて必死に頑張る。不苦不楽を受ければ、すなわち、何も感じなければ、呆けたように、ぼうっと沈み込むような気分に誘われる。心に残すことのできる弱い楽受であり、また、増殖し続けてさらに楽受が欲しくなる菌である。
 渇愛は状態により三種に分けられる。
(i)欲愛( Carving for sense-pleasure)
 五官の欲求に応えるものを欲すること。
(ⅱ)有愛( Carving for self-existence)
 何らかの生命の状態(生きること)と関係して、様々なものを欲すること。あるいは生きる状態において望むものに役立つものを欲すこと。深い意味では自我があり、永続する中で何らかのも
のを得たり、なったりする欲求。
(ⅲ)無有愛( Carving for non-existence or self- annihilation)
 望まないもの、あるいは生きる状態から逃れ、自我を断ち切り、離脱、消滅すること。この種の渇愛は、倦怠感、寂寥感、自己嫌悪感、自己憐憫感のような、暗い形で表れる。
 したがって、渇愛は、金持ち、名誉のある人、天神のような生き方をしたいなど、五欲( Kamaguna)であったり、生きることへの欲求であったり、様々な形で表れる。それは望むものを得るのに役立つものであったり、望まなかったり、飽きたり、絶望して死にたいと思ったりするような状態から逃れるために、役立つものである。外部に出る場合に、邪魔されたり、望みが叶わなければ、渇愛は、他人や物などに対して、怒り、不満、害意を抱く原因となる。

⑧渇愛→取
 何かを求めるときは、強く執着して、自分をそのものに縛り付ける。求めれば求めるほど、ますます激しく執着する。苦受を経験した場合、そのものから脱したくて、そのものを激しく憎悪するという形で固執する。同時にそれと同じ割合で自分が必死に求める他のものに執着する。自分の様々な要求に応えるものに執着したり、望みを叶えてくれるような生き方に執着したり、このように、あのように生きたいという自我に執着したり、自己の渇愛に応える何らかの見解、理解、原理、原則に執着したり、自己の求めるものに応える様々な伝統形式や方法に執着したりする。

⑨取→有
 執着は当然何らかの生き方と関係する。執着は二つのことの間の関係を表す。すなわち、自我を何らかの生き方と結び付けること、同一にすることである。望むものに役立つ生き方かもしれないし、望まないものから脱することを助けてくれる生き方かもしれない。求める生き方があるときは、同時に求めない生き方がある。このように執着される生き方を生有、または起有( Uppatti- bhava)と言う。
 その生き方に執着するとき、そのように生きるため、またはそのように生きるのを避けるために目指す思考、意図がある。それから様々な行為に着手する。創造的にあれこれ考えることから始めて、様々な方法を考えて、目標を定めたところに向かって進む。しかし、すべての思考や行為は取が定める方向と形で推し進められる。すなわち、自分が執着する何らかの信仰、思想、理解、原理、方法、満足、喜びの力に従い、その取に一致して様々な行為、行動が現れる。
 大雑把な例をあげると、例えば、天神に生まれたいと執着すると、そのように生まれると信じられている何らかの教義、風習、儀式、伝統に執着し、その信仰に従って考え、目標を定め、様々なことを行う。もしもその執着が激しければ、そのためだけといっていいような何らかの行動体系を起こすところまでいく。
 より卑近な例をあげると、名誉ある人になりたいと執着すると、何らかの価値を名誉あるものとして執着し、その価値と一致する行為の伝統形式に執着し、そのような名誉を持つ自我に執着し、意図、行動も、執着するその方向と形式を目指し、現れる様々な行為もそれと一致する特徴を持つ。
 他人の価値ある物を得たくて、自分がそのものの所有者になる状態に執着し、そのものを得ようとする習慣と方法に執着する。その間違った方法の過失と欠陥を知らずに、執着する習慣と方法に従って考え、目標を定め行動して、窃盗、不正行為を働くことに変わる。
 最初の、執着した物の所有者になることが、泥棒に成り果てることに変わる。
 この意味において、人間は、望むところの結果のために、間違った、もしくは正しい信仰を持ち、執着の力に従い、悪、罪、不善、善業、徳、善を行うと言える。
 取の力が推し進める方向へ進行する行為の過程と、その取と一致する特徴を持つ形の出現が業有( Kamma- bhava)である。
 その行為の過程から生じる生き方、例えば、天神であること、名誉ある人であること、盗賊であることなどが生有で、求めるものに一致する有(生き方)、あるいは求めない有がある。
 この間の縁起は、業を行い業の果を受けることであり、性格の形成、人格の形成において重要な段階である。

⑩有→生
 それから、欲求と一致する、あるいは欲求と一致しない、「われ」はあれになりたいとか、これになりたいとか、あのように生きたいとか、このように生きたいとかと願う「我」を意識する自我が生じる。法の言葉で言えば、その界(有)に自我が生じる。所有者であるわれ、泥棒であるわれ、名誉のない人間のわれ、勝利者であるわれ、敗北者であるわれ…などである。
 凡夫の日常生活の中では、自我が生じるのは、論争などの、抗争のある場合にはっきりと見られる。論理を求める論争でも、もし、慧でなく、煩悩を用いれば、われは主人であるとか、われは名誉ある人間であるとか(同時に彼は雇われ人、彼は低い身分)、これである、あれであるなどといった自我がはっきり生じる。しかし、自我の意見が反対され、あれである、これであるは劣化され、縮小され、ないし消滅される。
老死となれば、生がはっきりと現れる。しかし、生があるからこそ、老死がある。

⑪生→老死
 あのように、このように生きるという自我があるときは、当然あのように、このように生きない自我もある。また、あのように、このように生きることから切断、逸脱、離脱させられる自我、あのように、このように生きることから切断、逸脱、離脱させられると脅される自我、影響を受け、邪魔され、反対されて、あのようになりたいという流れが止められ、動揺し、衝撃を受け、劣化、縮小、衰退し、望むように、執着するように完全無欠にならない自我がある。
 自我が生じてしまえば、それをずっと維持したい。あのように、このように、欲するように生きたくなるし、そのような生きる状態をずっと自我のものにしたくなる。しかし、自我が生じて大きくなれば、自我は当然衰退、消滅する。まだ消滅しないときも、やがて来る縮小、劣化、消滅に脅され、動揺、衝撃を受けることと消滅への恐怖が生じ、その生きる状態に自我を結び付けたいという執着がますます強固になる。
 この自我の消滅への恐怖は、その生命の死に対する脅迫感と恐怖感からきている。それは絶えず心の奥深く繊細に潜んでいて、人間の一般の行為を圧迫し、離脱と消滅への恐怖を懐かせ、求める生きる状態を掴もうと必死に努力させる。そして、苦受を受けるときは、恐れさせ、失望させて、離別への恐怖と共に、不安焦燥のうちに楽受を享受させる。これらは、生命とは、すなわち、五蘊のすべてが常に生蔵するという真実を自覚しないことによる。
 この意味において、自我が求めない生きる状態で生じて、求める生命の状態で生じないときや、自我が求める生きる状態で生じたが、消失して離別しなければならないとき、また、求める生きる状態から切断、逸脱、離脱させられると脅迫されるときには、様々な形の苦が生じるということである。すなわち、愁、悲、苦、憂、悩が生じる。そして、このような苦の状態の中で、心は濁り悲しく憂蓄で様々なものをあるがままに知らず、理解せず、見ない。無明の特徴である不満、妄念、暗黒がある。そこで、無明の方法で解決策を求
めて必死に頑張り、次の循環に向かう。
 日常生活の簡単な例をあげよう。競争があり勝利が生まれるとき、凡夫にとっては(世俗で)合意して定められた意味と目的を持つ社会の出来事としての勝利だけではなく、取(有)によって、特に個人的にある種の特別な意味に執着する勝利者というものがある。ある場合に、特に高慢な人の場合、または心に衝撃が生じた場合に、われは勝利者だという気持ち=われは勝利者として生まれた(生)という感情が表に出てくる。しかし完全な意味での勝利者というものは、名誉、称賛、報酬の獲得、他人の容認、評価などを伴わなければならない。そこで勝利における自我の発生、我の勝利は、容認し称賛する人がいること、誰かを敗北させること、何か一種の、もしくは多くの種類の欲求を満たしきるまで、何かを行うか、表すことが同時に生じる。
 それから、勝利者としての自我と同時に、それに伴う様々な意味が生じる。望みが叶うことも叶わないことも生じる。望みが叶えば、自分を勝利者としてしっかり東縛しなければならない感覚が伴ってくる。というのは、自分から勝利者であることが消失することを恐れるか、その立場で得た容認、称賛が最初のように安定せず、滅少して衰退するか、消滅することを恐れるからである。期待通りに、あるいは期待したほど称賛、名誉を与える様子を表さない人に出会うと、またはそれまで受けた称賛、名誉が滅少すると、心が濁って憂鬱になり、悩みが生じる。というのは、勝利者としての自我が影響を受けて、もしくは圧迫されて、勝利者の状態から追い出されるからである。すなわち、保持する様々な付属価値も含めて、勝利者であること(有)を、衰退(老)と、消滅(死)によって脅迫されているからである。
 このように状況が進むと、ドロドロと濁った憂鬱な懸念や失望など、生じた様々な感覚のすべては、正念正知(慧)によって掘り起こされ捨てられることなく、性根の中に入り、積み重なって蓄積され、人格や精神状態に影響を与える。この人の行為は、その後の縁起の循環に従い、没頭とか、のめり込みと言われるように受を感受することになる。
 容易に理解できることだが、自我が(意識の中に)生まれるときは、当然場所を占める。場所を占めても範囲、限りがある。限りがあれば、自我を別に分ける。自我を別に分ければ、自我と自我でないものに分ける。わが自我が生じると、拡大して膨らむ。同時に欲しい、目立ちたい、他の自我に見せたいという欲求が噴出する。しかし、自我とそのような欲求は際限なく自由に拡大することはできない。その人自身によって抑え付けられるからだ。彼が自分は善い人間であると他人に見せたいと意識する場合、または自分でその欲求を抑え付けられず、完全に表に出すままにするなら、外部で衝突、軋轢が起こる。そして、完全に表に出して、自分自身のエネルギーを低下させても、欲求する力はますます激しくなる。そして、さらにその後の欲求不満を増して、軋轢と衝突の機会を一層増やすことになり、その度ごとに自分自身を失う。欲求を完全に満足させることはなく、影響、圧迫、軋轢のプレッシャーはあらゆる場合に増大する。
 しかしながら、ここにあげた例は、主として簡単に理解していただけることを目的にしている。したがって、特に、無明に縁りて行がある、愁、悲が新たな循環を始めさせる、などのような難解な項目については、表面的な説明しかない部分もあり、十分明快で深い理解をさせていない。無明の項目での説明の例は、生きている刻一刻の間に、普通には起こらないことである。そのため、「凡夫が日常生活において無明を起こさずに過ごすことができる「縁起が真に生きることの真実を示す法の原理ではない」などと思わせてしまうので、いくつかの難解な項目については、さらに深い意味をより詳細明快に説明する必要があると思う。

長い〜😂

10ページ引用ってやりすぎ?!
いいこと書いてはる〜と思って、部分引用できず😂私の力不足かも👍

ホームさんは、修行は、体をメインにはしているが、この十二縁起を観ているのだと仰られていました。

わかんないですけど、このどこかで、気づけば、そこから流れが変わるのだと思います。
私はけっこうどの瞬間もこれをぐるぐるして生きている感覚がありますね。

特に、受、ここからが分かれ目ですね。その感覚を好んだり嫌ったりするとき、気づきが間に合うことが大切なんだと思います。

そして、執着。渇愛からの取ですね。ここから苦しみが生じている気がしますね〜。

だから、どこでもいいからそれを断ち切ってくれるのが、気づき、なんでしょうね〜と思いました。
そして、如理作意。感情を横に置いておいて、真実は何かと観ていく、どうなっているのかと探究していくことが大切なんだと感じました。

何が私たちを苦しませるのか?

ここまで読んでみて、苦はどうしたら生じてどうしたら滅するのか?なんとなくこうかな〜ってありますでしょうか?

ホームさんは、この講義の最初らへんに、こう質問されました。
「何が私たちを苦しませるのでしょうか?」
私は、執着することかな?とか、思ったんですけど、もっと根本的な答えでしたね。

無明だから

ですよね〜って感じでした😂🙏

十二縁起は無明から説明があってますからですね。そうなんですよ。
私は無明なんですね。
真実を知っていれば、苦しみはない。
ということですね。
最初の
これあるときに、かれあり、に通じますけど、

無明があるとき苦しみがあり
無明がないとき苦しみがない

のですね。
ですからもし、私が苦しんでいるとすれば、そこには無明があり、そして同時性ですから、渇愛があり執着がある、というようなことかもしれません。

この苦しみ、難しいのですが、自覚していればいいですけど、私自身もそうですけど、家族を身近で見ていても、苦しんでいることに気づかないこともありますね。気づきたくない、逃げたい、という感じもありますし、感覚、受の奴隷になっていることに気がつかない。それはいずれ苦しみとなっていくし、自覚のない苦しみの中なのかもしれませんね。
なーんて思っちゃいましたね😂
慈しんで生きていきたいものです😊🙏

次回、もう一回、縁起について学んでみたいと思います。質問で出たところも、学びがたくさんありましたので、ご紹介できればと思います😊🙏🙇‍♀️

生きとし生けるものが幸せでありますように

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?