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どのように生きるか?「三相」(無常・苦・無我)③

ポー・オー・パユットー氏の「仏法」を学ぶシリーズです。
今日は第三章の三相の3回目です。

前回は、「三相を学ぶことの倫理面から見た価値」より、無常性の原理について、長い引用をさせていただきました。
今日は、「三相を学ぶことの倫理面から見た価値」より、苦性の原理と、無我の原理のついて、引用します。
苦性の原理は長いので、一部引用にしようかと思ったのですが、、全部結局引用しちゃいました😂もしよろしければ、じっくりと読んで頂ければと思います。
また、私見やホームさんの講義での話も書こうと思います😊🙏

私は上記のホームさんの仏教講座で、学ばせていただいただいております。私の学びの共有として書いておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏

◇ 苦性の原理

(I)行にとって当然の苦は、覚知してわが苦として取り込まず、因縁を知る慧で扱うべき課題である

 一切のものは、さらに細かな様々な構成要素が集まって成り立ち、それらのすべてが永遠ではなく、無常性の法則に従って生じ変化し滅していくので、それらが集まったものも当然様々な変壊と軋轢があるものが集まり、分解し衰退、滅亡する本性がそれ自体に十分に潜んでいる。
 このようなときに、変化していく構成要素を望み通りの形に集めようとしたり、その変化を望む方向に変えようとすると、エネルギーと手続を用いて、さらに因縁を増やすような構成要素を集める必要がある。特に様々な細かな構成要素が多くて複雑であればあるほど、より多くのエネルギーを使い、より細かで緻密な手続きが必要となる。
 一切のものに対して、あのように、このようにしたいという行いは、そのものの因縁に対して働きかけ、その成果や失敗と、合わせて、それらの因縁を十分に揃えて、それに従ってその後の解決方法もはっきりと知っておかなければならない。これが一切に対して、東縛されずに自由に、苦を生じさせる因にならずに行う方法である。
 これと反対の方法は、それらのことに自分を東縛してそれらを圧迫し、渇愛や執着心に捉われた行為である。これでは自分に苦しみをもたらすだけではなく、いかなるよい結果も生まない。


(II) 四聖諦の原理が教えることは、苦は慧によって覚知して起こさず、楽は自らの生きることに変わるように目指せ、ということである

「四聖諦の義務」の原理によれば、苦に対して実践すべき義務は遍知( Parinna)である。すなわち、知悉する、理解することである。苦については、人はただ知悉するか、理解に関する義務があるだけだという意味である。
 この四聖諦でなすべきことの原理に従い、苦に対して正しく実践することは、非常に重要なことであるのに、見過ごされがちである。仏法は苦に対して、何が何であるか、苦とは何か、学んで知ることを実践するように教える。すなわち、苦を起こさないために、苦に対して正しく実践するために、自分の問題を知るように、そうすれば苦はなくなると教える。やさしく言えば、真の楽を得るために、自分自身の問題を知るべきだということである。
 換言すれば、四聖諦でなすべき原理は、何事であれ、自分にとっての問題、または問題になりそうなことは、その問題を的確に解決、防護するために、人はそれをはっきりと学んで知り、理解しなければならないと教える。問題を学ぶことは、自分に問題を引き起こすとか、抱え込むことは意味せず、問題をなくすための方法を知ることである。医師が患者の病を治療して看護するのに、生命、身体を知り、病気を正しく診察して、病気を起こさないように、予防方法までを知り、理解しなけれいならないのと同じである。
 苦は、覚知して正しく実践、対処すれば、それをなくし、それを起こさないようにすることができる。しかし、覚知せず、実践が正しくなければ、自分に抱え込んだ苦から逃げ出すだけか、または常に自分に苦を作って、一度も逃げ通せないことになる。
 逆に人が得ようと望む楽は、求めてばかりいなくても、四聖諦の原理に従って正しく実践すれば、楽を得ることができる。すなわち、「楽を求める人」ではなく、「楽のある人」になれるということである。というのは、楽がわれわれの生きることに、私たち自体の素質の一つに変わるからである。
 四聖諦の原理を知らない人は、苦に対して誤った、目標のない道から外れた実践をして、世を悪い面からだけ見て自分に苦を増やすことになるかもしれない。
 以上の大きな基準を知れば、苦性の原理の倫理面の様々な価値を以下のように定めることができる。

以下は五つに分かれています。要約しようと思ったけどやめました😂
もう全部引用しちゃいます😭😂

長いんですけど、この太文字のことが、筆者の言いたいことで、その理由が下記文章につらつら書かれてあることだと思います。このことをまさに理解するために書かれてあると思います。

「 (I)行にとって当然の苦は、覚知してわが苦として取り込まず、因縁を知る慧で扱うべき課題である
(II) 四聖諦の原理が教えることは、苦は慧によって覚知して起こさず、楽は自らの生きることに変わるように目指せ、ということである 」

苦は、慧で扱うべき課題である。のです。
いや〜そうは言っても、自分の問題として取り上げていることを、慧で扱いなさいって、正論ですけど、できるかって、難しいことだと思います😆想像ですけど、これが全てできれば、楽だと思います。
そして、苦は、理解するものである。ということだと思います。
これは、私が少し前に取り上げた記事にもありますけど、この世に恐ろしいものはない、あるのは理解されるものだけ、ということにも通じますね。

私的に言っちゃうと、慧で理解する。はしょりすぎか🤭😆

苦は、前回までの説明でも書いたのですが、その状態を保てないこと、そしてそこから葛藤が起こるということ、なんですね。なぜ葛藤が起こるかといえば、思い通りにコントロールすることができないから、なんですね。

私としては、生じてくる葛藤などの怒りや、思い通りにしたいという欲に気づき、思い通りにならないこの苦の状態を理解できない無明を、理解すれば(打ち破れば)、楽なんだろうと思いました。

(ⅰ) 一切のものは、その生起、繁栄、滅亡することによって圧迫され、圧力、軋轢を起こすこと。元の状態をいつまでも保つことができないこと。このような状態は、一切のものがそれ自体に欠陥があり、完全ではないことを示している。こ欠陥、不完全さは経過する時間と内部と外部に生じる変化に関係してますます増加する。このようなときに、それ自体の状態を維持しようとしたり、拡大して完全になろうとしたりする一切のものは、常に闘い苦しまなくてはならない。したがって、よき生き方を維持し、繁栄した、完全な生き方をしようとすれば、常に自己の改善、改良を必要とする。

(ⅱ) 軋轢、苦闘が内部、外部の因縁に関わらず、変化を生む因縁から生じるとき、愚鈍にもそれに逆らうことは、どのような場合においても、様々なもの、例えば、文化における人や組織などのように、よい結果よりは悪い結果を生む。したがって、自己改良と改善を知ることは重要である。この項は、覚知してあらゆることを因縁に合わせる倫理の基本的立場として、慧の重要性を繰り返している。

(ⅲ) 楽と、世の中で楽を生むと理解されているものは、この真実の基本事項が当てはまる。これらの楽はそれ自体が完全ではない。一つには楽の状態、あるいはその楽を求め得る状態から変壊しなければならないという面があり、したがって、それは完全には満足を与えないのかもしれないという一面もあるからである。
 これらのものに理性なく楽を望む者は、自分自身をそれらのものの不完全さと同一にする。あるいはそのものの変壊の流れに身を投じ、引きずられ、押し付けられ、圧迫され、自分自身を統制できないようになる。そして、これらのものがどのように変壊するか、またどれだけ楽を多く望むかによって振り回される。変壊が起こったり、失望が生じれば、それにつれて苦が激しくなり、奴隷として身を売るような、命の価値を欠けるような種類の楽を求めることになる。
 楽を求める賢明な人は、これらのものから楽を求め喜んでいるときも、そのものの変化が最少の害毒や影響しか与えないように、真実を覚知するような生き方をし、正念正知を持ちつつ楽を求めて感受しなければならない。言葉を換えれば、どういうことがあっても、とにかく心の自由を最善に保つことである。

(iv)楽は価値によって、二種類に分けられる。すなわち、五官の求めるものに応じ、様々な欲望を求める思考に応える楽が一つ。もう一つは、障害と妨害がなく、心配や懸念、狭量な感覚、心に纏わり付く様々な煩悩が少なく、すっきりと晴朗で、満ち溢れたさわやかさで楽しく、自由な心の状態の楽である。
 最初の楽は、探し求めなければならない楽で、外部の要因、すなわち、様々な欲求に応えるための物質と所縁に依存する形のものである。この種の楽に関する心の状態の特質は二つある。必死に求めて焦燥する状態が先に立つこと。それから、執着して狭量で嫉妬深く、個人を東縛する感情である。このような心の状態は倫理面で重要な問題になる。というのも、欲求に執着する状態、あるいは利己的な状態であり、きちんとコントロールしなければ、これから様々な問題が生まれるからである。
 このように他の所縁に依存し、外部の要因に依存しなければならないことは、この種の楽にとっては当然のことで、多かれ少なかれ、何らかの形で人を外部の要因の奴隷にする。そして、外部の要因の変化が当然のことながらその人に影響を与える。この種の楽を仏法では有染楽( Samisa- sukha)、物質的楽と言う。満たされない気持ちを補うために、物を求めて得る楽である。すなわち、財( Amisa)に依存しなければならない楽である。
 二番目の楽は、自然に生じる楽である。自分で自由に作ることができ、他のものに依存せず、頼ることはなく、外部のもの、あるいは所縁に依存して応えてもらうこともなく、自分自身のもので、妨げるもののない、悩ますもののないと言える心の内部の状態である。
 後者のような楽の心の状態の特徴は次のように説明できるだろう。様々な煩悩が入り込む感覚がないが故に「清浄」(サアート)である。慧によって成り立ち、一切のものをあるがままに、限りなく広く見て、理解心があり、一切のものをそのものの本質で認識、思慮しようとするが故に「明るい」(サワーン)。心配事もなく、いらいらせず、動揺せず、リラックスして自由で、独立であるが故に思考を妨げるものなく、妨害がなく、爽快で、執着せず狭量でなく、広く開いた慈心をもって人間、動物、すべてのものによかれと願う気持ちを持ち、悲心をもって他人の苦しみを知り、喜心をもって人々の幸福、成功、繁栄を喜ぶが故に「寂静」(サゴップ)である。不足、欠陥、寂しい気持ちがなく、健康ではちきれそうになるよう
な、明るい楽しさがあるが故に「完全」(ソンブーン)である。(訳注)
 このような心の状態では、その重要な構成要素である善徳は、すなわち、奴隷として束縛されない独立と、真実を知り理解する慧である。この二つの善徳は捨( Upekkha)と呼ばれる心の状態として現れる。すなわち、一切のものを本質に従い、純粋に論理によってあるべきように関係し処理する平静で偏りのない心の状態である。
 この種の楽は倫理面で最高の価値があり、無染楽( Niramisa- sukha)、非物質的楽と言う。すなわち、財に依存する必要のない、外部の要因に属する必要のない楽であり、懸念、倦怠、恐怖、強奪のような問題は起こさないで、問題のない、問題を駆逐できる、深遠で勝妙な心の状態である。さらに楽と呼ぶことを超えた段階まで発展するかもしれず、欠点と変壊を離れた際立った特徴を示すので、簡潔に苦からの解脱と呼ばれる。

(訳注)ここで述べられている楽の特徴の、「清浄」、「明るい』、「寂静」、「完全」のタイ語はいずれも、「よい」の意味の接頭語の「S」で始まる。

普通に第一の楽を求めることに関わる世の人たちの生き方では、人が常にすべての欲望に応えるものをその度に受け取り、希望を満たして過ごせるということはあり得ない。というのも、それは外部の要因に依存することであり、その要因というのは、自然界の法則に従い変壊するものだからである。そこで第二の楽と呼ばれるような心の状態を作る努力が必要となる。少なくとも、心の基本として、世の中で生きるのに、快適と言われるような、最も苦が少ないよい心の健康状態を持ち、自分と他人を苦しめる問題にしないために、自分は第一の楽に対してどう対処すべきかを知る。このような心の状態を作ることができるのは、自然の真実の原理を無我の段階まで覚知することで得られ、執着がないと言われる生き方をするために、一切をあるがままに見ることを知ることによってである。

長いのでちょっと休憩🤭

楽には二種類、五官の求めに応える楽と、自由な心の状態の楽。依存しないから楽。なんでしょうねえ。実相としては、この世に何かに依存しないものは存在しないんだけども、心は、そのようなものから束縛されないように、依存するということがない状態にできるのだと、いうことなんだと思います。

ではいろんなものに関わらずに生きれば楽ではないかと。あらゆるものとの関わりを捨て、世捨て人のように、山奥で一人で暮らすことで、楽に生きれるではないですかと。やってみても、それだけでは2番目の楽にならないと気づくんですね。
それは、そのような暮らしをしてみたところで本当には何かに依存しないということができないからだと思います。

どのようなところでどのような暮らしをしていたとしても、心が楽の状態は作ることができるのだと思います。それは、一切をあるがままに見ることを知ることによって、できる、ということなのでしょうと思います。

(v)外部の要素に依存する第一の種類の楽を求めるにあたっては、人と人、人と物のように、少なくとも二者と関係する、という事実を認めなければならない。双方が苦、軋轢、欠陥、不完全さを隠し持っており、軋轢(葛藤)があるもの同士が関係すれば、誤った実践の割合に応じて、量と激しさのレベルの面で、軋轢が一層増加することになる。
 便宜上、この楽を求める場合の簡単な例として、一方が楽を感受する人で、もう一方が楽を感受される人、この両者ともに自分たち自身に欠陥と軋轢がある場合を取り上げよう。例えば、感受する人が自分の欲求通りには常に楽を感受する状態でない場合、感受される人が常に感受されるような状態でなければ、このような状態では、失うことをまったく認めずに、一方が得るだけと言うことはありえない。どちらか、もしくは双方がこの事実に気が付かない、または認めないとき、自分の欲求を基準に執着し、両者の間に軋轢が起こり、仲違いなどが起こり始める。
 また、楽を感受する人が感受されるものを欲して執着する状態は、自分と自分の望みを守ってずっとそのような状態を保ちたいという思考まで含む。このような状態は、様々な因縁の流れに従う自然の過程に軋轢を生み、自ら介入して、自然の過程の中に調和、適合するのを妨げる。これらの真実を覚知しないで生きることは、欲求と執着だけを、すなわち、渇愛と取だけを基準にする。これは愚かにも自然の過程に逆らって生きることであり、軋轢や圧迫を起こす不調和な生活であり、その結果様々な形で多くの苦を生む結果と
なって戻ってくる。
 さらに自然の中の構成者である双方の関係者として、両者の関係は全体としてすべての自然の過程に関係するほかに、例えば、同じものを欲しがる人など、他の構成要素が第三者として特に介入して関係することがある。妨げられる執着は、競争、闘争、強奪など、苦の様々な行相である両者の間の軋轢を示す反作用を生む。問題を執着でもって解決しようとすれば、苦はそれだけ激しくなる。しかし、問題を慧でもって解決しようとすれば、問題はそれだけなくなる。
 この意味において、無明(Avijja)、あるいは痴(Moha)、すなわち、一切のものをあるがままに知らないことにより、人は貪欲( Lobha)によって利己的に欲するようになる。障害や妨害があり、覚知する慧がないと、瞋恚(Dosa)、不満、害意が生じる。この三種の根源的煩悩から、固執、吝嗇、嫉妬、疑心暗鬼、情緒不安定、懸念、恐怖、害心など、様々な形の煩悩が多く現れ、軋轢の要因を数多く自分の中に集中して作ることになる。そしてこれらの軋轢の象徴である煩悩が、妨害し制限するものに変わり、自身を自然の過
程と調和することから引き裂く。この自然との軋轢は悪い結果となって跳ね返り、その人自身に戻ってきて圧迫する。自然による罰であり、自然における苦、または行苦であり、人が感じる苦となって現れる。例えば、

※ 窮屈で、暗く、陰気で、不快、激情、焦燥、憂鬱などの感覚を生む。
※ 人格に悪影響を与える病気になるなど身体に症状が出る。
※ 病の苦痛のように、行の法性としての身体の通常の症状の苦が、渇愛、取で執着されて増幅するので、正常な状態を超えて激しさを増す。
※ 他人に苦、軋轢、不快、陰鬱を生じさせて、範囲を拡大する。
※ 社会の大部分の人々が、それぞれ一斉に煩悩を作って、利己心で自分を分け隔てるときは、様々な軋轢が生まれて増殖し、社会の人たちの業の果が合わさって、社会は衰退し困窮する。

これらが行苦( Sankkhara- dukkha)を苦受( Dukkha- vedana)、もしくは真の苦(苦苦= Dukkha- dukkha)に変える過程である。一切のものに無明で関係するが故に、自然の過程に愚純に逆らう(調和しない)生き方となり、そのものの流れの中に奴隷となって落ち込む。簡潔に言えば、執着するが故なりと言う。
 これとは逆の道程は、真実を覚知する生き方、すなわち、あるがままに知り、慧でもって関わることである。また、行の法性のままに、そのものの実相に従い進行する自然の苦は、元々存在する行苦に過ぎず、特別に害のある軋轢、危険は増やさない。さらにこれらの行苦は役立てることができる。それは、渇愛、取をもって介入し執着するが故に、これらのものが苦になるのだと知るとき、それに執着せず、愚鈍に逆らって生きず、自分を開じ込めて軋轢を作り、自分を圧迫する主役と変わる煩悩は作らないことによる。
 同時に、例えば、四梵住と言われる「慈悲喜捨」は、慈心(愛情と互いによかれと願う心)、悲心(助けようという考え)、喜心(他人が幸福になることを喜ぶ)、捨(偏らないで心を中立にする)によって心を広げて調和を生み、様々な美徳のある行為をもって自然に友人たちと調和して生きることを知り、因縁により如実に状況を判断し、平静で世の流れによって動揺しないようになる。団結、協力、相互援助、奉仕、自己犠牲、謙虚、忍耐、尊敬敬服、思慮分別をもって状況に流されないことなどは、憎悪、害心、嫉妬、陰鬱乱心、固執、奪い合い、利己心、衝動、強情、尊大、恐怖、疑心暗鬼、怠惰、鈍感、意気消沈、耽溺、忘却、迷信など、軋轢と東縛を作る煩悩とは逆の美徳である。
 これが自然と調和して生きる道程である。自然を役立てることが、あるいは自然の法則を用いることが、できるということである。自由を失わずに生きることは、いかなるものにも執着せず、従属せずに生きること、あるいは仏教の格言にあるように、「慧をもって生きることは、最勝の生き方」( Pannajivim jivitamahu settham)と言える。

ここまでが、苦の原理で、めっちゃ長い!😂

苦はドゥッカ、とパーリ語で言うのですが、このドゥッカと、日本語の苦、には、ちょっと感覚の差があります。
日本語の苦、は、苦しみ、という意味で捉えられるのですが、ドゥッカは、必ずしも苦しみ、という意味だけではなくて、同じ状態を保てないこと、と、ホームさんは説明されていました。何度も書いてますね🤭
無常であり無我なんですけど。日本語だとどうしても苦しみの方に偏ってしまうので、ここは、押さえておきたいところですね。
善とクサラ、という意味も少しニュアンスが違うように、日本語にしちゃうと、漢字そのものが意味を持ちますから、それに引きずられる?感じになっちゃうことが多い気はします。
理解するときに、ややこしいと言うか、フィルターがさらにできちゃう、みたいなことでしょうかね〜。

生きることは苦だと(語弊がありますが)、改めて感じます。
逆に、生きることはそんなもんだと、思ってしまえば、楽だと思うんです。
苦が嫌だ〜とか、お金がない〜とか(笑)、不幸だ〜、何で私がこんな目に??とか、
そんな感受の奴隷になってないで、外部に依存してないで、
現実を如実に見て、淡々と今自分ができることをやっていった方が、心が楽なんだろうなと、私は感じています😊
でも、そんな私ではないですよね😆
だから、学ぶのです。
だから、やってみるのです。実際にやってみると、ああ、なるほどって。経験することもあると思います。
心情としては難しいけれども、まあ淡々とちょっとやってみましょう、と、他人事のようにやってみると、意外にできちゃった、という経験をすることは大小はあると思いますが、誰にでもあるのではないでしょうか。
百聞は一見にしかず、百見はなんていうの??一経験にしかず?

百聞は一見に如かず
(ひゃくぶんはいっけんにしかず)
百見は一考に如かず
(ひゃっけんはいっこうにしかず)
百考は一行に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百行は一効に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百効は一幸に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)
百幸は一皇に如かず
(ひゃっこうはいっこうにしかず)

ここより引用しました。

これを読んで、妙に納得する私でした😆❣️脱線💦

さて、「簡潔に言えば、執着するが故なりと言う。」
執着に気をつけて!ということですね😊🙏
私の執着心に気づいていく、ということです。
これは、執着心を肯定することでも否定することでもありません。ただ気づく。確認していくのですね。
私たちがなぜ生きているのかと言えば、執着心があるからです。死にたくなるのも、執着心があるからです。
なぜ執着するのかといえば、それは無明だからです。そう仏教は教えてくださいます。


最後!!

◇ 無我性の原理

無我性を推測して知ることは、倫理面では重要な価値がある。すなわち、

(I)最初の段階では、渇愛の面で利己的な思考を滅らし、自分の利益だけに執着することを基準に様々なことを基準に様々なことを行うことなく、自我によって狭く制限されることのない広い利益を見る。
 一方、一切のものにそのものの自我がなく、構成部分から生じて、その因縁に従って進行するという状態は、一切のものがどのような形で出現するかは、当然因縁によってなされる和合次第であり、目的と能力の範囲に関係しながら進むことを教える。この意味において、人は一切のものに対し自由な態度で因縁そのものに対して実践すべきであるということを強調する。それが目的に従って成果を上げ、渇愛と取による苦を生じない最良の方法である。

(Ⅱ)中間段階では、見の面で心を広くして、自我、自己の欲求を出さず、自己の考えを執着で妨げずに、様々な問題や事柄に関係し、思慮し、処理する。しかも、法に従い因果に従い、あるがままに、あるいは真にあるべきように、思慮し、処理する。すなわち、捨を置き心を中立にして、如実に見て、自我主義(我増上= Attadhipateyya)を控え、法主義(法増上= Dhammadhipateyya)の原理によることで実践することができる。

(Ⅲ)高い段階では、無我性の原理を知ること。一切のものを真にそのあるがままに知ることである。すなわち、自然の真実の原理を最高の段階まで知る。この段階に至るまでの完全な知識によって、執着を捨て、解脱して仏法の目標である、完全な自由を達成することができる。しかし、無我性の原理は、縁起の方向に沿っての理解と、道の方向に沿っての実践によってのみ証悟できる。このことは後に述べる。

(Ⅳ)一般的に言うと無我性の原理は、無常性の原理と苦性の原理とともに、他の法の原理、特に業の原理と解脱のための実践の原理の、真の正しさを主張するものである。例えば、一切のものは、自我がない故に、互いに依存する関係にある因縁の流れの形で経過することがあり得て、業も生じる。一切のものは自我がない故に、解脱もある、などである。しかし、このことの説明は、以下に述べる縁起の方向に沿って考察しなければならない。

終わり。

無我、は、説明することがけっこう難しいんです。
無我、というのは、誰も誰かのものと言えない、主はいない、誰もこのようになれと命じることはできない、というようなこと、と、こんな感じでホームさんは言われていたと思います。
ただそこには、自然の法則で生じ変化し滅している流れのようなものがあるだけだということだと思います。

自然の法則とは、何かに依るもの、つまりは縁起の法則なんですけど、これは次の回に回すとして。。

私たちは、世間で生きておりますと、自分が何でもできると思っていて、自由に生きられると思っているのではないかと思うのです。わりと私たちは自分の力で生きていると思っている、これが無明なのではと思うのです。
そうして生きていると壁にぶち当たり、軋轢を生み出し、様々な怒りや不満が出てきて、最後には落ち込みます。こんなはずではなかったと。

実はそうではなくて、仏法に出会うと、私は自分一人の力で生きているのではなく、色んな縁起に依って、一時的に成立しているだけの存在なのだと気づかされます。
それは様々な因縁によってそうなっている、自然の法則にいつも則っているものであると知らされることなのでしょう。

じゃあ、私にできることはないのかといえば、そうではなくて、そのことを如実に知って、よりよい生き方に変えていくことができるのだということです。
それは、自然の法則を知り、それをよき方向へ生かしていく、役立たせていくように因を作ることでしょうし、今、自分にできることを慧を持ってやっていくことでしょうし、いろんなものや人を理解していくこと、なのだと私は思います。

私が仏教に出会ったとき、思ったことの中の一つなのですが、私が生きていく上で、非常に役に立つ教えだと思ったんです。
私が、この現実の世をストレスなく、楽に、心が自由に生きていく、ここに役に立つ教えだと、率直にそう思いました。
なぜなら、今までの私の物事の見方を変えると言いますか、真実を見る見方、を教えてもらっていると思ったからなのです。正しい物事の捉え方、というかですね。

物事の捉え方、見方が歪んでいるから、苦が(ストレスが)生じるという感じです。

なので、ストレスを感じた時は、それは、まずは無明(無知)があって、だからその物事に執着して、そして苦が生じているのだと、見ること、理解することができるんです。

そのように実践していくと、心がだんだんと軽くなっていくんですね。
徐々にです。徐々にですけど、確実にです。忍耐です😆🙏

さて、三相、終わりました🤭

これから、次は縁起に入っていきますけど、縁起は膨大なページ数です😂❣️
仏教のメイン的な感じですね😂
どうなるかわかりませんけど、学んでみたいと思います😊🙏
よろしければ一緒に学んでみてくださいね〜🙇‍♀️🙏

長すぎ!など😂なんでも、コメントをお気軽に頂ければ喜びます😆🙏🙇‍♀️

生きとし生けるものが幸せでありますように

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