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生きること(生命)とは何か?「六処」

「仏法」より今日は「六処」です😊🙏🙇‍♀️

私の学びの共有として書いておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏

第二章 六処(ろくしょ)
世間を認識し感受する(知覚と感覚の)領域
生きること(生命)とは何か?
と、タイトルがついています。第一章の「五蘊」と同じサブタイトルです。

六処とは「生命」が世間と接触する道である

「生命」が、さらに多くの様々に細分化される五蘊からできていても、実際には、すなわち、一般に生きていく上では、人間はこれらの構成要素と直接には少しも関わっていない。
 多くの構成要素が存在して働いているが、人間は気が付かない。たとえ気が付いていても、ほとんど考えることはない。例えば、色法の中で、体の中の多くの器官は、所有者たる人間が知らないうちに、知ろうともしないのに自分の仕事をしている。異常事態が生じ、働きが不完全になったとき、人間はやっと関心を向けることになる。心の動きの中の構成要素でさえ同様である。
 体の様々な構成要素とその働きの研究については、医学や生物学の専門家にまかせ、心の構成要素とその働きの研究については、論蔵研究者と心理学者にまかせよう。
 しかし、一般の人にとっての「生命」の意味は、働いている生命、日々生きている生命である。それは世(世間)と接触、関係する。「生命」に意味を与えるものは、すなわち、世間との接触、関係である。また換言すれば、人間にとって「生命」の意味とは、世間と関係する「生命」を意味する。
 この働いている生命、世間と関係する「生命」は、二つの部分に分けられる。その二つの部分はそれぞれ働く組織を持ち、「生命」が世間と接触、関係する道に依存し、それは、以下のように「門」( Dvara)(扉、道)と呼ばれている。

自我とは、人とは、有情とは、五蘊であると言っても、生きている私達にはあんまり関係ないと言いますか、まあそのことを意識して生きているわけではない、ということですね。
そうですね。。だから、無我、なんてことを聞いたところで、はあ、で終わっちゃうかもしれませんね😆

実は第一章の「五蘊」は、たった5ページほどです。前回、引用したところだけ、ということになります。でも、一番最初に、説明されているところなんです。
そして、第二章のこの「六処」も、30ページほど。全てを引用することはできないですけど、できるだけ重要だと私が思うところは引用できたらと思います。

※ 世を認識し感受する部分(六門)

様々な特徴と状態で人間に現れるものを色境、声境、香境、味境、触境、法境の六所縁と言う。これを認識し感受するためには、眼(げん)、耳(じ)、鼻(び)、舌(ぜつ)、身(しん)、意(い)の六門( Sense-door)がある。

※ 世間に表すか、あるいは世間に対して働きかける部分(三門)

世間に働きかけるのは、身、口、意(身門、ロ門、意門)の三門( Channels of action)であり、行為と言葉と思考(身業、口業、意業)として表す。

ん?六門?六処じゃなくて?
ブッダは「門」を「処」(Ayatana)という言葉に代えて使われることが多かったそうです。難しいことは、私はわかりません🤭🙇‍♀️

この六処、
私たちは、六処でインプットして、身口意でアウトプットをしている。このように説明できるそうです。
生きることとは、何かを認識して(知って)、何かを感じて、何かをすること。だから、この六処で認識、感じた(インプットした)ことを、身口意で行為する(アウトプット)すること。これが生きることなんだということらしいのです。

ホームさんは、この講義の最初に確か、このように聞かれました。
「みなさんは、音楽を聞きますか?好きな歌は何ですか?何度も聴いているということはありませんか?」
「ではなぜ、好きな歌を何度も聴くのでしょうか?」
「逆に嫌いな歌はありますか?」
「好きでも嫌いでもない歌はありますか?」

たぶん、私たちは音楽だけではなくて、色んな現象や刺激を受けた時に、必ず、
好き(快)
嫌い(不快)
好きでも嫌いでもない(快でも不快でもない)
この3つの反応が、あると思うのです。
これを仏教では、ヴェーダナー(感受)と言います。

この六処の講義の際に、ホームさんが言われていたのは、
私たちは、いつでも「感受」の奴隷になっている、言いなりになっているのだ、と。
知識を得たり、学ぶことも、感受を満足させるために生きているのだと。
それが凡夫であると。
この六処で学ぶことは、「どうしたら、感受の奴隷にならずに生きれるのか」というところだそうです。

どのように感受が起きるかというと、

これまで述べた認識の過程を簡潔にまとめると次のようになる。
「処」  +      「所縁」  +      「識」  =        触  →       受
(認識の道)   +   (知られるもの)   +   (知識)     = (認識)    →    (所縁に対する感覚)
「眼と色によって、眼識が生じ、三者和合の触がある。触の縁によって受が生じる。人は所縁を感受してその所縁を想念(想)し、想念した所縁を尋思し(尋)、尋思した所縁を拡大し(妄想)、所縁の拡大が縁となって、様々な妄想(多様な錯綜した想= Papanica- sanna)が、過去、現在、未来の眼をもって知るべき様々な色の中に、もくもくと積み上がる」(この後、それぞれの処について同じ記述が続く)

この法の過程は、次のように図示できる。
純粋な認識の過程     感受の形の法の過程
〔自然の流れ〕   〔感受する人一感受される物、考える人一考えられるものの発生〕
   処
   +
   所縁   =       触 →   受 →   想 →   尋 →   妄想 →   様々な妄想念
   +                                                                        (行)
   識

そして、感受からの上記の過程。
簡単に書くと、何かを見た時(目に入った時)、それは自然の流れではある。が、それから先、感受を生じた後、感受の奴隷となるか、ならないかに別れるんですね。
感受のところで、好き、嫌い、好きでも嫌いでもない、を感じた時に、その感受に執着するかどうか、で、次の想が生じるかどうかが、決まるようなのです。

そのようなものだ、と認識しただけで終われば、執着がなければ、何かを思い浮かべることもなく、思うこともなく、そのことが次の意志や行動へつながることはない。
のでしょうと思います。
これが、輪廻の過程となるか、涅槃の過程となるか、と分けることができるかもしれないと書かれていました。

 この法の過程は二つの部分に分けられ、後の部分は輪廻、もしくは涅槃(還滅)の流れとして分けることができるかもしれない。全体像をより広く見るために、次のように書くこともできよう。
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇
                        輪廻の過程
                      ↗︎    
処 +    所縁 +    識 =    触 →   受 →
                      ↘︎    
                        涅槃(還滅)の過程
◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇◇ ◇

ここ、この日本語訳の本ではなくて、英語訳の本の図がわかりやすいらしいのですが、ここは、興味ある方は、六処の講義の部分を有料ですが見ていただくと、すごくわかりやすい図を示してくださってます〜。受からが分かれ目です。

ここまでどうでしょうか?

生きること、生命とは何か?
の答えはきっと、これなのではと思うのです。

生きるとは、認識して感じて行動すること。

私的に言うと、です。簡単にし過ぎかもですけど🤭😆

この短い文章が生きることです。って言われると、どうでしょうか?
その繰り返しをただやっているだけ、なんですね。。
私は単純なんで、あ、それだけのことなんだな。と気が楽になる面もありますし、一体何やってるんだろう?と、、でも、それだけのことを軽視してると、酷い目に遭います😂

だから、大事なんです。
私たちは幸せなりたいですよね、幸せに生きたいですよね、だからどうやったら幸せに生きれるのかと、言えば、ここなんですね。

何を認識し(知って)、何を感じて、どう行動するのか。

これが間違うと、幸せにならない。
そう思います😊🙏

でも、まあこの幸せが曲者なんですけど。。

なにをもって幸せだと思いますか?
楽しいこと?快楽?
でもそれに溺れていると、酷い目に遭いますよね🤭
だから、それらは本当の幸せではないんです。
長生きすること?家族がいること?いい友達がいること?お金があること?孤独じゃないこと?健康であること?仕事があること?美味しいものを食べること?
でもそれらは全て、いつかはなくなりますよね。それも結構簡単に、崩れたりしますね。不確かなものばかりです。
苦しみがないこと?悩み事がないこと?でしょうか。
案外、悩み事がないと退屈にならないでしょうか?これでいいのかと不安になったりすることもあるかもしれません。

世間でいう幸せとは不確かなものばかりです。

私としては、この部分をよく観察しながら生きることだろうと思っています。
私は、何をインプットして、どう感じて、何をアウトプットしているのか。この部分です。それは、世間で生きている私たちにとっては、日常生活そのものです。

五蘊や、六処を学ぶことで、生きるとは何か、が見えてくるのだろうと思います。

それは、私たちの毎日の営みを、因果法則として観る練習であったり、私を客観的に観る練習だったり、法を観る練習なんだ、とホームさんは言われていたと思います。
そうだな、と思いました。

例えば日常生活において、私たちはどうしても現在起こっている事象に囚われてしまっているのです。囚われる、とは、まさにその事象から感受する、快・不快・快でも不快でもない、に、囚われているのですね。
子どもが悪いことをした。→不快。→囚われる。→怒る。 これですね😆
子どもが悪いことをした。→不快。→観察する。→なぜ、そのようなことをしたのだろうか、きっと理由があるはずです、と。
必ず、悪いことをした理由はあるんですね。
悪いことだという認識がない。結構あります。
悪いことだと知っているけど、わざと親の気を引くためにやっている。これも結構あります。
感情的にそうしてしまった、こともあるでしょうし、体調が悪い、機嫌が悪い、ストレスが溜まっている、この辺は、親が子どもをしっかり観察していないとわからないかもしれませんね。
もちろん、実際にはわからないですから、意思疎通ができる子どもであれば、聞いてみることもいいと思います。

どうでしょうか?
さて、最後に、少し長いですが、とても役に立つことを書かれてありますから、ぜひ読んでみてください🙇‍♀️🙏↓

※六処を学ぶことの倫理面から見た価値

※善一不善、善一悪の面

 処は善か不善かの始まりであり、分かれ道である。一方は放逸や悪に溺れ、世間に耽溺する方向へ人を導く。もう一方は覚知、善業、自由な解脱へと導く。このことの重要性は、もし、処について、正しく理解するよう修習し実践しなければ、一般に人間すべては、世間を感受することを目的とした生き方に引き込まれ、気に入った色、声、香、味、触を求めるためだけに様々なことを行い、自己の目、耳、鼻、舌、身、心に奉仕する様々な娯楽が、貪、瞋、痴を増やして、自分にも他人にも混乱と苦痛を生むことになる、ということにある。
 苦しめ合い、争って取り合い、虐げ搾取し、相手の弱みに付け込むことから、増加して解決することも難しい様々な社会的な問題まで、大部分は常に「処」に奉仕するように誘惑され動かされて、それに慣れっこになり、それがますます激しくなるような生き方から生じていることは、火を見るよりも明らかである。
 多くの人は、自己の行為と自分が奉仕する「処」の意味について思慮するように促されたことも、立ち止まって考えたこともないし、自己の「処」、「根」に関して修習、摂譲の実践をしたこともないだろう。だから、ますます快楽を求める生活に溺れるばかりである。この点について、偏理面の解決は、次のことがあげられる。
 一つは、処とそれに関わることについて、それが自己の生活にどのような役割と重要性を持つか、その意味をはっきりと覚知することである。
 もう一つは、自己の生活と社会に対して真に役に立つ方向で、これらの処をコントロールすることと、これらの処に奉仕し、処に使われることの摂譲に関して、実践して修行をすることである。

※楽一苦の面

 処は、生活一般の目的である楽、苦の出所である。そして、凡夫のなす特定の仕事のほとんどすべては、楽を求め、苦を避けようとする努力である。
 楽、苦は前項の善、不善の行為の問題に関わっているだけではない。楽、苦そのものも、真に身体、人生を捧げるだけの価値、実体、意味があるのか、というそのもの自体に問題がある。
 少なからずの人間が、人生において、労力と時間をつぎ込み、世間を感受し楽を追い求めて疲れ果て、希望が叶わずに失望する。
 甘美な味を求めて苦い味に会い、ときには幸せが増せば増すほど、逆に苦しみ辛さが増えてくる。楽を掴んだ代償が、得られるものより高くて割に合わなかったりする。
 希望が叶っても期待したほど嬉しくないか、目標の点まで到達しても楽はさらに遠くへ逃げて行き、追いつけずに嘆き悲しんだりする。
 はあはあと喘ぎながら走り、真の楽に追いつけないか、満足しないまま生命が絶える者たちもいる。失望し絶望して成り行きまかせに人生を過ごし、過去のことを思い出したり、自分を責めるように人生から逃避して、もう一方へ最も偏った人生を送る者もいる。
 この「処」を学ぶことの意義は、真実の状態を覚知し、正しい態度で行動、実践するためであり、自分と他人に多くの危険をもたらさず、少なくとも自分を改める方法を知る原則を持つためである。
 これらの楽の求め方によく注意するほかに、楽の様々な範囲と段階を理解し、さらに一層細やかな水準の楽を求めることを知るべきである。
 楽、苦に関して正しく行動、実践し、さらに微細な楽に進むことは、自分の倫理を開発することである。

※慧を深める面

 慧を認識し求める過程の面の「処」は、出発点から倫理に関するものである。というのは、最初の実践が正しくなければ、認識は不純で、世間を感受する過程に使われる認識過程となるか、輪廻のような法の過程の一部となって、偏った曖昧な知識を得て、真実とは異なる、あるいはあるがままの状態とは違う偏見を持つことになるからである。
 このことについて助けになる倫理面の実践は、心を捨( Upekkha)に保つ方法である。すなわち、偏らない中立の、平らで真っ直ぐな心を持ち、煩悩の力によって好き嫌いに支配されることがないような状態を保つことである。

※一般的な実践方法

「処」に関する倫理面での実践は、直接のもの、間接のものと、多くの種類がある。様々な段階で使うためにあるものもある。これらは、問題がたいていどの点で起こるのか、苦や罪業や不善がたいていどの段階で入るのかによる。
 ブッダは最初の段階から警戒の、あるいは防護の方法を強調して教えられている。すなわち、それは「処」がまさに「所線」を受ける段階である。それがまったく問題を起こさず、最も安全だからである。
 これとは反対に、問題が生じて、すなわち、不善、罪業が入る機会得てしまえば、解決することは難しい。例えば、あれこれと唆すままの所縁に心を任せて、貪欲、瞋恚、愚痴が生じてしまえば、善悪、道理が分かっていても、誘惑に耐えることができずに、煩悩の力に負け、罪業、不善を行ってしまう。
 このために最初から防護する方法を強調されるのである。
 処が所縁を受ける最初の段階から、注意して防護するための重要な法は、念(Sai)である。これは心をしっかりと制御する、言葉を変えれば、心を引き留めるローブのようなものである。
 この「念」は、根律儀( (Indriya- samvara)と呼ばれる原理で用いられる(根律儀とは根に細心の注意を払う=念を入れて根を用い、罪を犯さないということである)。別に、門を防護するという言い方もある。常に念を備えておくという意味である。眼で見、耳で聞くなど、根で所縁を認識したとき、様々な想念に対して心をなすがままに呆然となって、欲しいとか腹が立つとか、好きだとか嫌いだとか感じ、愚痴や他の不善で心を覆わないようにする(慧と利益のみ起こすということである)。
 この原則に従って実践すれば、以下のことのすべてを助けることになる。

①悪と損失を防ぐ。
②苦を防ぐ。
③偏った知識や思考を防ぐ。

しかし、これを実践して成果を得るためには、いつでも意のままに原理を用いることができるわけでない。というのは、念は常にしっかりと準備しておき、訓練、修習の必要がある。よって、根律儀は訓練するか、常に用いる必要がある。
 根の訓練は根修習( Indriya- bhavana)と呼ばれ(伝統的に訳せば、根を盛んにする、発展させる)、根を訓練、または発展させた者は、罪業、不善、苦、すべての偏り歪曲した知識から免れて安全である。なぜなら、これらが生じる前に、防護することができるからである。根や認識したものに騙されない、支配されないほかに、根の主人として認識した感覚を、価値あるよい方向に制御もできるからである。
 この根律儀は、戒律の段階における法の原理といえる。しかし、軸となる重要な法の要素である念は、定の仲間であり、常に心の力を用い心をコントロールするので、それ自体が定の訓練、修習でもある。
 慧の方法である如理作意( Yonisomanasikara)はもう一つの法であり、ブッダはこれを念と一緒に使わせられる。すなわち認識する所縁に対して実践する際には、知識を得、真実を見る、もしくは役立てるような角度から見る、または思慮するのである。例えば、所縁の功罪、長所、短所を思慮して、覚知する。それと同時に、所縁が人生の楽、苦、運命を定めるものであるというような、その所縁の功罪に依存するようなことなく、自由を持ち、幸せな善き生き方ができることである。
 これらの実践項目は、前述の仏語の中にも現れている。さらにいくつかの原理については、後に説明するので、ここではこれだけに留めておく。

この「仏法」という本の、この部分が私は好きですね。
役に立つ、ところが好きなんでしょうと思います。

出家生活では、まさに、ここの六処を防護しているんですね。世間での生活では、六処を防護することが結構大変ですね。
大変ですけど、ある程度、やろうと思えばできるとは思います。
時間を決めてインターネットやテレビからの情報を遮断する、ことも有効と思います。見なければ、そのことから感受することがないからですね😊これも自分を防護することだと思います。

何をインプットして、どう感じて、何をアウトプットしているのか、日常生活はこの繰り返しですから、自分から少し離れた感覚で(捨かな)観察してみる。
肩に力が入っている自分に気づけば、抜けばいいし、何かに囚われていたら、そのことに気づけばいいと思います。
いつでも今この瞬間に、私がやること、できることは、そんなに難しいことではないんでしょうと思います。

いやあ、長かったな。。。
コメントなど、気軽にどうぞ。。。疲れが。。。🤭🤣

生きとし生けるものが幸せでありますように

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