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戒律って何だろう

教育ファシリテーション研究所の主催の、戒律講座を視聴させて戴きました。9月の話🤭😆もう暮れですよ〜ワハハ😂
1回目と3回目は視聴できたのですが、2回目は見逃し配信も見逃すという失態をやっちゃいまして(≧∀≦)
とりあえず、この2回分と、家にある本をひっくり返したり、日本テーラワーダ協会のスマナサーラ長老の動画やパユットー師の本などから学んだりして、戒律ってどんなものだろうかと、学んでみた所感を書きました。
わたし個人の学びとしてご覧いただけたらと思います。

私の所感ですから、私のフィルターがあります。
どうぞその点はお気をつけてご覧いただければと思います。

さて、戒律ってなんでしょうか。

仏教徒の方で、戒律を守る、ということをしっかり意識して生活しておられる方も多いのではないかと思います。

まずは私のことをお話ししますと、
私は戒律を守ろうと思って守る、ということを毎日意識して生活していません。たぶん概ね五戒は、普通に守れていると思います。おおむねです。

五戒
 生きものを殺さない
 人のものを盗まない
 嘘をつかない
 不倫しない
 お酒や麻薬を使用しない
これは在家修行者が守ってみた方がいい五戒ですね〜。

その都度、たぶん気づいて守っている感覚ですし、普段の生活では慈しみを意識していますので、慈しみのない心(怒りや欲や無知)に気づいていったり、慈しみをまた意識したりしていると、だいたい守れちゃうんですね。

でも完璧ではありません。稀にですけど生きている食材をいただいたりして調理したりしますし🥲🙏

戒律って、皆様はやはり守るべきもの、と思われている方が多いと思うのですが、私もそのようなもののイメージがあったのですが、ここ最近、戒律を学んでくると、そこがちょっと違う理解になってきました。

八戒、になると在家生活では難しくなってくるのです。

殺さない(不殺生戒)
盗みをしない(不偸盗戒)
性交を行わない(不淫戒)
嘘をつかない(不妄語戒)
酒を飲まない(不飲酒戒)
正午以降は食事をしない(不得過日中食戒)
歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない(不得歌舞作楽塗身香油戒)
地面に敷いた臥具だけを用い、贅沢な寝具や座具でくつろがない(不得坐高広大床戒)

五戒の不倫しないが、性交しないに変わっています。
私は家族と過ごしていますから、夜ご飯を全く食べない行為は、家族が心配してしまいますし、子どももいますから、ちょっと難しいんです。
化粧や装飾品はほとんどしませんし、音楽や映画などのエンタメを自分から進んで見たり聞いたりすることはないですけど、家族が見たり聞いたりしていると一緒に見ちゃいますしね🤭😆
これは、家族がいない時は、やっています。

八戒は、在家修行者は時々でよいと言われています。

特に在家で仕事や家族を持ちながら、頑張って修行されている方々は、無理は禁物です。
できることをできるだけ。それでいいと思います。そのうちに守ることが普通になっていくと思いますし、、この、普通になっていく。
これ、びっくりしたんですけど、

戒 シーラ 
の意味は、普通であること、だそうです。
ホームさんが仰られていました。

時々でも五戒や八戒を守ってみる。
その守っている心の状態を観察してみる。
けっこうすぐにわかると思うのですが、守っていない時の心の状態ったら、という感じです。
スマナサーラ長老のQ &Aで言われていました。
戒律を破ったら、心にダメージを受けるんだ、と。
そういうことなのだと思います。

たぶん、世間の一般の人からしたら、出家している人や、修行をしている人って、一体なんでそんなことをやっているの?とか、思われちゃうところもあったり、何が楽しくて生きているの?とか、思われたりするのかなと思ったり😆

そこには目的がはっきりとあるんですね。

もし、目標のない戒を実践すれば、戒禁取に変わるか、自虐的実践(Atta-kilamathannyoga)を奨励することになるかもしれない。義を考えずに定を実践すれば、神通力に籠るか、ある種の邪見を奨励するか、またはある種の畜生道の学問を奨励することになるかもしれない。解脱にならない慧を増大すれば、中道の外へ外れて、仏教の目標へ行かずに、途中の道の脇で迷ったり、ある種の邪見に留まったりするかもしれない。

この意味において、如理作意を欠く法の実践者はすべての段階で失敗し間違って実践するかもしれない。例えば、最初の段階、戒のレベルでは、条項どおり純粋に厳格に戒律を守ることが実践者の重要な徳性であるという一般的な原則がある。実践者は戒を非常に重要だとしなければならない。しかし、戒に厳密で、この戒を重要視する実践者であっても、法の義の関係の自覚を欠けば戒の意味と目的、すなわち価値の範囲とその他の法との結び付く位置を示すことを忘れると、たちまちにして実践においてしくじってしまう。

実践者は、戒を単独で存在し、他の法の実践過程の一部ではない、それ自体で完全に満たされた状態であると見るかもしれない。さもなければ、戒の意味と目的をあまり考えず、自己修習のための実践項目の立場として見ることなく、形式にこだわり、理由も考慮せず、何のために行うのかも知らず、実践だけを続ける行為となる。

厳密・厳格であることが、それ自体で完全な善を成就することであるかのように、無意識のうちに夢中になってのめり込む人たちもいる。それだけで成就することができたら、それだけで善く、それだけで成就する、または戒の務めに厳密・厳格に実践するだけで成就して、戒の務めは終わってしまう。目的のために戒があるのではないし、ただ戒があるだけで目的を成就したかのように思っている。

さらに厳密、厳格であればあるほどいいと夢中になる。この段階までくれば、完全に戒の目的を自覚していない。実践者は実践項目、すなわち厳密・厳格な務めをさらに高めて行おうと努力をする。この面で如理作意なしに実践を見る者も同様である。そのような厳密・厳格で常軌を逸した困難なことを眼にすると、それだけに一層の信心を傾けてしまう。

このような状態は、常軌を逸すような厳格な行為で自らを縛り付けることに導く。ブッダは、食事として漬物だけを食べたり、モロコシだけを食べたり、もみ米だけを食べたり、草だけを食べたり、落ちた果物だけを食べたり、糞掃衣だけを着けたり、草で織った布だけ着けたり、髪や髭を抜いたり、棘の上で寝たりといった、さらに、これ以上常軌を逸した実践項目を、戒禁取と自虐的実践のもっとも偏った実践項目である残忍な裸形行者の行道であると言われた。

目的を理解して戒を持する者は、同様に最初にきちんとした厳格さを示すが、それが何のためか、法の実践において他の部分とどう関係しているかと聞くと、これが戒(中心の決まり)、これが勤行、または務め(増やした実践項目)といったように分けることを知っている。「この方はこのような理由で厳密・厳格な勤行を持すべきである/この方々は、このような理由で勤行の項目を持すべきではない/このような理由や果があるので、このような実践項目は常に強制すべきである/人によってこのように理由や果に差異があるので、このような実践項目は自主的に選択すべきである/この人は厳密・厳格な実践をしてよい果を成就した、この方は厳密・厳格に実践したが、よい果を成就しなかった、それはなぜか/これらの人はそれほど厳密ではなかったが、どうして厳密・厳格に行った人よりは実践において進歩したか」などである。

実践において、善友が近くにいて面倒を見る場合は、この第五の思考方法は多少重要度が落ちるように思える。というのも信で実践を進め、その善友の慧を信頼して、ゆっくり行い、ゆっくり知ることを希望して、善友もきっと間違わないで指導すると思えるからである。善友の義務の一つは相手に法と義を説明すること、または相手に義と法を理解させる道を示すことであり、(この点について)元の三蔵には例外は見つからない。

 (仏法の思考と実践 ポー・オー・パユットー)

これは、戒を守ることだけに言えることではなくて、世間の色んな場面でも通じるとは思います。
最初は目標や目的を定めて、必要なことを目的のためにそのことを行なっていくのですが、だんだんと、その行い自体に重要性が移行していって、その行為自体を行うことが目的になったり重要なことになってしまう。みたいなことないですか?

例えば、皆様は何のために仕事をしていますか?

お金を稼ぐため、でしょうか?
生きるため、でしょうか?
自分の満足のためでしょうか?

何のために行っているのか、これは如理作意ですし、慧が伴う必要があると思います。

引用した文章は、「義と法(Attha-dhamma)の関係を見る」というところからです。

法という言葉は原理、または真実の原理・善の原理・実践の原理・実践に用いる原理の意味で、正しく実践し行わせる教えの原理を含む。
義という言葉の意味は、求める目的・目標・利益・求める内容である。

私は自分自身が幸せに生きるために、仕事をしています。もちろん、人の幸せのためでもあります。
でも忘れますよね、幸せに生きるための仕事ですということをつい忘れるんです。
もし仕事が、自分の幸せに寄与しないものであるならば、別なものを選択するという方法もあると思います。

八正道の中の、正語、正業、正命、これらは、戒定慧の戒、の分野です。

正語は、
正しい言葉を使うことですが、例えば愛語を使うことや、嘘をつかないとか、悪口を言わないとか、噂話をしないとか、無駄話をしないとか、そういうものですね。

正業は、
まさに五戒のことでしょうね。

正命は、
正しい生計(仕事)です。
ここは、グナラタナ長老の「8マインドフル・ステップス」よりお言葉をお借りします。
「仕事が本質的に他者や自分を害していないか」
「仕事が五戒のいずれかを破っていないか」
「仕事で心を落ち着かせないようにしている要素はないか」
などです。

戒律と言っても、スマナサーラ長老もおっしゃっている通り、慈悲喜捨の実践をすると自然と戒律を守っていることになるんですね。
私が、この世は慈しみで生きるしかないと思ってしまうのも、この辺もあるのかなと思います。

そして、「戒律・道徳とは形式の問題ではなく「心」の問題なのです。ゆえに智慧の開発のために欠かせない条件とされているのです。」

スマナサーラ長老も、そしてパユットー師も仰られているように、守ればいい、というものではないんですね。
たぶんこれって、法律とか、規則とかにも言えると思うんですけど、何のためにそれがあるのか?ということを置き去りにして、ただ闇雲に守ればいいんでしょ、と言うのでは、無知と言いますか、愚かな感じがしちゃうんですね。

たぶんそれは、私たちがお互いに幸せに生きるためのものであって、それは慈しみであって、生命の尊厳や権利を守ることであって、、それがあっての、定や慧、なのだと思うのです。

戒律に縛られてしまうことは、かえって修行ではなくなってしまうと思うんですね。
戒律を守ることが目的ではないからです。
心を鍛えていくことが、目的ですね。
守るべきではなく、守ってみてください、そして自分で確かめてみてくださいね、って感じで。確かめるって、何を?
戒律を守っている心を観察してみる、ということでしょうか。戒から、定、慧、と進むんでしょうね〜。

あくまでも、在家修行者に関する戒律という視点からでした。

結論

戒律を守らなければと意識するのではなく、慈悲喜捨、慈しみの実践をしていきましょう。
ワハハ😂
私の結論ほぼほぼここになっちゃうな。

ということで、皆様も戒律というものの目的を少し考えたり実践したりしてみてください、面白いと思います。


終わり🐶

生きとし生けるものが幸せでありますように

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