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(6)不放逸具足(Appamāda-sampadā)

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」を読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に必要な7つの資具のうち、6つ目の「不放逸具足」です。

このシリーズもそうですけど、、いつも思う。
シリーズ終盤になってくると、しんど〜い😂🙏
精進精進

さて内容です。

不放逸は、時と変化を心に思うことです

(6) 不放逸具足 (Appamāda-sampadā)

 不放逸を完全に創造するということです。不放逸は、時と変化を心に思うことです。
 不放逸の人は、時間のことを、時間はたえず過ぎていくと意識しています。すぐ日が過ぎ、夜がやってきて、すぐ一月が経ち、一年が過ぎる。
時と水とは待ってくれない、何かするなら急いでしなければならない。だから、色々なことを熱心に努めて行わなければならない、と。これが時間を意識することです。
 そこで時間を意識するのはどうしてでしょうか? 変化を見るからです。時間はどうして生じますか? 時間は変化で定まります。昼があり夜があるのは太陽の周りを地球が回るからです。地球も一回自転すると、一日で、太陽の周りを完全に一回転すると一年です。
 時間が過ぎます。同時に一切のものの移動、変化があります。絶えずじっとしていないで住んでいる私たちの生命の変化もあります。名法も色法も含めて、私たちの生命のすべての部分は絶えず生滅を繰り返しています。私たちの命も、間違いなく消滅します。今後どのようになるか確実ではありません。内部と外部の因縁次第です。だから不放逸に努力して学び、私たちができる因縁を最善に行わなければなりません。
 仏教は、変化のことを繰り返し教えます。無常の原理を、生滅のことを教えます。私たちを不放逸にさせたいからです。ブッダは般涅槃される前の最後の言葉(Pacchima-vācā)で、命令するかのように言われました。
「諸行は生滅の法なり、みなのもの不放逸にて精進せよ」
(Vaya-dhammā sankhārā appamādena sampādetha)
 これは「不放逸にて完全に仕事をせよ」という意味です。あるいは好んで訳されているように全部の意味を言えば、「自分と他人のために不放逸にてなせ」です。
 この仏語は、ブッダが無常の原理を不放逸の原理と関係づけたことを示すものです。つまり、放逸にならないように注意を促すために、変化、不確定について言われたのです。しかし、私たちはこのブッダ最後の言葉を見過ごしてきました。
 ブッダが何かを命じられれば、ブッダはそのことを大事なこととみなされていたのに、仏教徒はあまり世尊の命じられたことに関心を持ちませんでした。
 ブッダは不放逸を教えられました。それは一切のものが不確定だから、私たちは時間と変化を意識しなければならないということです。そしてその変化を意識することで、放逸にならないように注意を促されたのです。
 だから学習、あるいは道の歩み、あるいは法の実践に入る前兆の一つは、熱心に不放逸に努めることです。
 仏教の原理は、だらだらした人間にならないように、じっと何もしない人間にならないように繰り返し注意します。念を持ち、常に目覚めて、時間を無駄に過ごさないように注意を怠らない、何か起これば衰退の因であり、急ぎ避けて改め、防ぐ。そして何か繁栄の因があれば、急いで実践し行うように教えます。
 この不放逸の原理は、何度繰り返し言われているか分かりません。学習の前兆として、最後の言葉として、象の足のように一切の実践を包含する法として繰り返されています。
 多くの方々が、ブッダが「一切の生き物の足が象の足跡に入るように、一切の法は不放逸の中に入る」と言われたことをお聞きになったことが
あるでしょう。もし、不放逸であれば、すべての法を実践できます。しかし、もし、一つでも放逸であれば、それだけで学んだ一切の法は役に
立ちません。実践せず、用いないからです。ですから、不放逸でなければなりません。
 不放逸具足、熱心に急いで努めること、あるいはこの熱心に努めさせるために時間と変化を意識することが、学習の第六の前兆と呼ばれるものです。
ポー・オー・パユットー 「仏法の思考と実践」

中学生だった時くらいかな〜

少年老い易く学成り難し一寸の光陰軽んずべからず

という言葉と出会いました。妙に印象的で。

不放逸、これっぽい?・・・

不放逸という言葉に、あ、これだ!と思ったのは、スマナサーラ長老のYoutube。

動画差し替えました。これでした😅🙇‍♀️💦
長い動画なので、見れない方もいるかもですけど、スマナサーラ長老の経典解説はお勧めです。私は好きです😊🙏

ああそうか、一日中ずっと気づいてたらいいんだ!
とか思いましたね、たぶん。めっちゃ単純に。
実際やってみるとそんな簡単なことではなかったですけど、話を聞いた時はスッと入ってきました。

実際にこの動画を見た次の日に私がやってみたことは、怠けない。ということです。
とりあえず1日、怠けない、でいようと心がけてみたら、めっちゃ疲れました😂
普段どんだけ怠けているかがわかります🤫
そして次の日からは、怠けない、ではなくて、気づく、とか気づき、を意識する。に変更。
毎日朝起きてから夜眠るまでなるべく気づきを意識するようにしてみました。
2020年の6月14日の動画ですから、コロナ禍が始まって間もない頃で、仕事が暇になっていたので、ご法話動画を観まくっていた頃です。
仕事が暇だと考えることが減りますから、修行にはもってこいでした。

まず最初の1時間、半日くらいでしょうか?
自身が今までどれだけ放逸に生きていたのか、ということがわかりました。
たぶん初日の、怠けないようにした日も、まあまあ放逸だっただろうと思います。
あまりにも放逸過ぎて、笑えました😂
笑うしかなかったです🙏

その日以来、気づきと共に生きてるっぽいですよ。まあ放逸な時だってたくさんありますけどね。以前よりはマシと思います。

個人的にはこの質疑応答の動画が好きです。

やっぱり忍耐堪忍。

🙏

不放逸ですから、いつでもどこでもどんな時でも修行中なんですね。忍耐堪忍、精進なんです。

嫌になりますよね🤭😆

だから忍耐堪忍なんですね〜

ちなみに「仏法」からの引用です。
やはり正念のところに、不放逸法が書かれてありました。

不放逸法の立場の念

「念」は、簡単な意味としては、「憶える」と解釈できる。このように解釈すると、記憶という面の意味を考えてしまう。それは一面で正しい。
しかし、重要な点で完全には基本的な意味には沿っていないかもしれない。というのは、もし、否定形で言うと、念は憶えるという上述の意味に一致する「忘れない」以外に、ぼんやりしない、うっかりしない、ぼけっとしない、の意味がある。
 これらの否定形での意味は、注意すること、義務に目覚めること、関係する様々なものを常に認識する用意があり、それに対してどのように対処すべきか自覚している状態を強調している。
 特に倫理の面では、「念」の役目は、人の出入りを常に警戒し、管理し、出入りすべき人は自由に出入りさせ、させてはならない人はさせない門番と同じだと比較される。
 だから、念は倫理の面できわめて重要な法である。というのは、悪に溺れず、心に悪が入り込まないように、義務の実行を監督、喚起、警告するものであり、自分を守り、抑制するものである。やさしく言えば、善を行い悪に機会を与えないように自分に警告する。」
仏法は念を非常に重要視する。すべての段階の倫理の実践において、常に念が導いて、生きていくこと、あるいは行為することを、特に「不放逸」(Appamāda)、つまり、放逸でないこととしている。
この不放逸は重要な法の原理である。倫理の体系で前進することについて、念を欠いて生活しないという意味に使われるが、これは常に注意する、廃頽にのめり込まない、前進する機会を逸さない、するべきこと、してはならないことを自覚する、常に義務を心に思いないがしろにせず、真剣に行う、常に前進しようと努力するなど、意味が拡大される。すなわち、この不放逸という法は責任を思う原理である。
 重要性では、不放逸は如理作意と同様に内部の構成要素とされ、外部の構成要素である善友と対をなす。仏語はこの不放逸の重要性を説いている。ときには如理作意と重複する。その理由はこの二種の法は同等に重要だが、その面が違っているからである。
 如理作意は「慧」の面の構成要素で、(慧を作るために)行うための補助道具だが、不放逸は「定」の面の構成要素であって、その補助道具をコントロールして、使うように急き立て、止まるところなく前進させるものである。
ポー・オー・パユットー「仏法」
念は社会を維持するのを助け、自分の身も維持する

次のセーダカ経(Sedaka sutta)において念の価値を示す仏語は、不放逸と念が接した実践の意味と価値を繋いで見せる一つのよい例で、二つの法の項目の意味をよりはっきりと理解することを助けてくれる。
同時にこの仏語は、仏法では個人の内の面の生命が外の面、社会面の価値と関係し、この二面の価値が繋がっていて分けられず、一致するものであると見ていることを示す。

「比丘たちよ。過去世において起こった話である。曲芸師が竹竿を立て弟子を呼んで言った。『ここへ来てこの竿に登って、頭上の竿に立ってくれ』弟子は応えて竿に登って、師匠の頭上に立った。
そのとき、曲芸師は弟子に言った。お前は私を支えてくれ、私はお前を支えて守る。二人が支え合って守り曲芸を見せれば、金も得られて、竿からも無事に降りて来られる。
師匠がこのように言うと、弟子が師匠に言った。『お師匠さん。そのようにはできません。師匠は自分を支えて守ってください。私は自分を支えて守ります。二人がそれぞれ自分を支えて守り、曲芸を見せれば、金も得られて、竿から無事に降りて来られます。
世尊は言われた。それはそのことでは正しい実践である。「われは自分を支えて守ろう」と考えたとき、念処を用いなければならない。
「われは他人を支え守ろう』と考えたときも、同様に念処を用いなければならない。
比丘たちよ。自分を守れば、他人を守ることと言う。他人を守れば、自分を守ることと言う。
自分を守ることがどうして他人を守ることであるか? 熱心に実践し、修習をし、多修すれば、自分を守ることは、他人を守ることである。
他人を守ることが、どうして自分を守ることになる? 忍辱、無害、慈心、悲心をもってすれば、他人を守るとき、自分を守ることになる。
比丘たちよ。『自分を守ろう』と考えたとき、念処を用いなければならない。「他人を守ろう」と考えたとき、念処を用いなければならない。自分を守ることは他人を守ることであり、他人を守ることは自分を守ることである」
ポー・オー・パユットー「仏法」

「仏法」連続引用🙏😂

ホームさんの仏教講座でも、やはり正念のところで不放逸が出てきました。

うっかりしないこと、念は門番の役目だと仏法にも書かれてありましたし、ホームさんもそのように言われていました。

不放逸でいようとするとき、何をするかと言いますと、気づき、Sati、その時の身体や心を知っていく、ことをします。

「この不放逸は重要な法の原理である。倫理の体系で前進することについて、念を欠いて生活しないという意味に使われるが、これは常に注意する、廃頽にのめり込まない、前進する機会を逸さない、するべきこと、してはならないことを自覚する、常に義務を心に思いないがしろにせず、真剣に行う、常に前進しようと努力するなど、意味が拡大される。」

うっかりって、今何をすべきか理解していない感じかなあ。
なんとなくですけど、うっかりしない、不放逸は、唯一、無明に抗う感じがします。基本、無明な私たち。お弟子様方に、お釈迦様が最後にこの言葉を仰った意味が重たく感じられると言いますか。そう感じてしまいます。
今なにをすべきかと理解している、してはいけないことを自覚する。常に義務を心に思いないがしろにせず、真剣に行う、常に前進しようと努力する。
でもこれって、結果な気もしますよね。そのようになっていくには念を鍛えていかないといけませんし、常に学ばないといけませんね。

「念は社会を維持するのを助け、自分の身も維持する」

相互に。自分だけじゃない、他人だけじゃない。社会を維持していくことは、自分を維持していくこと。自分を維持していくことは、社会を維持していくこと。ですね。

「すなわち、この不放逸という法は責任を思う原理である。」

いつでも今やるべきことをやった方がいいんですね。やるべきことは何かとしっかり気づくためには、時と変化をいつも意識して、精進し続けた方がいいと思います。

どうして不放逸でいた方がいいのでしょう?

カンポンさんが教えてくれてました🙏😊

「ありとあらゆる方向からやってくる
苦しみの流れに打ち勝つことができるのです。」

ありとあらゆる方向からやってくる苦しみの流れ
これって素晴らしい表現だなあと思います。
人生ってそのように感じられませんか?
私はそのように感じています。
苦しみの流れがありとあらゆる方向からやってきます。
そんな苦しみの流れに打ち勝っていくためです。
気づきを高め、なるべく不放逸でいることで、苦しまない方向へと舵をきっていくんじゃないかなあ。。
まあ、仏道の最終目的は解脱とか涅槃とか言われますけど。。

私の今の理解ですと、
今ここの等身大の自分にとっての幸せのためかな。これは感情的に幸せな気分でいることの幸せ感ではなく、、幸せでいたいからということでもないんですけど、、
無常で苦で無我な今ここで常に心の幸せを感じることができるように生きているための、死ぬまで幸せで生き続けているための、最善の方法と言いますか。
死ぬまでとか言っちゃうと、誤解を生んだり大それたことのように聞こえますけど、それって、今ここのことです。
明日ともしれず今日ともしれずです。
まだ死なないと思って生きていますけど、人は死にます。病気になります。老います。
病気になっても老いていきつつも、それを受け入れられて心の幸せを感じていられる。
心が苦しまない。苦しんでいない。それが本当の幸せかなと思います。
それって、それ以上のものが他に見当たらない感じなんですよね。
ここは私の言葉と理解の限界です😂

放逸では、苦しみの流れに流されちゃうんでしょうね。困りますね。
でも放逸な瞬間はいくらでも発見しちゃいますね。あ!放逸でした🤦‍♀️みたいな。
でも挫けませんよ〜
へこたれないんです。
そんなの当然あるものです。
だから修行してるわけで。

最初の本文に戻ります。

「不放逸具足、熱心に急いで努めること、あるいはこの熱心に努めさせるために時間と変化を意識することが、学習の第六の前兆と呼ばれるものです。」

熱心に
時間と変化を意識すること

不放逸は、パーリ語で、Appamāda

仏陀が涅槃に入られる前の最後の言葉。
最初の引用文章にもありましたが。。

感謝🙏😊
色んな人が色んな言葉で訳されていて面白いんですよね〜

ああ、パーリ語勉強しよう🙏🙏🙏

資具足って、学習の前兆、なんですよね。
善友性から戒具足、志欲具足、我具足、見具足、不放逸具足ときて、次は如理作為具足で最後ですね。
次は如理作為具足、、頑張ってみますか😂🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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