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生きること(生命)とは何か?「五蘊」

ポー・オー・パユットー師の「仏法」を学ぶシリーズです😊🙏

仏法シリーズ、やっと第一章の内容に入ります。第一章は「五蘊」です。第一章「五蘊」と第二章「六処」は、生きること(生命)とは何か?と、サブタイトルがついています。
仏法シリーズは、順番に書いていこうと思い立つ前に、書いたものもありますが、今は私の復習のためにも順番に書いていこうとしています。
私の学びの共有として書いていこうと思っておりますので、私のフィルターがあります。そこはご了承の上、ご覧いただければと思います😊🙏
パーリ語の表記が、上記線や、点が表記できないので(私の技術的未熟なところです)、正確なパーリ語になっていないところも、ご了承いただければと思います🙇‍♀️🙏

私は今、こちらで学ばせていただいています。

なかなかオンタイムに参加することはできないのですが、後で自分の自由な時間にも見ることができる【当日参加できない方は、いつでも視聴できる(制限期間なしの)見逃し配信用YouTube URLを講座終了後記載します。】ので、とても有難いのです😊🙇‍♀️🙏仏法の本を持っていなくても、特に大丈夫な内容だと私は思いますので、仏法にご興味がある方は、有料ですが見てみられてはと思います。だいたい月2回のペースですから、なんとかついていけて、、、いると思います😆🙇‍♀️

さて、内容に入りたいと思います。

生命の実相(自性)としての五蘊

仏法は一切のものを様々な構成要素が集まった形で見る。一切のものの真の実体はない。構成されている部分をすべて分けていくと、そのものの実体は残らない。しばしば、用いられる簡単な例としては、「車」がある。決まった設計図に従って、様々な部品(構成物)を組み立てれば、「車」と定義して呼ぶことになる。しかし、すべての構成物を分けてしまえば、車の実体を求めることはできない。様々な名前で呼ばれる特定の多くの部品があるだけである。すなわち、それらの部品とは別の、車の実体はない。ただ、それらの部品が集まった状態として、「車」と定義する言葉があるだけである。
 そして、各種の部品自体もさらに次々と小さな部品が集まって現れている。同じように真の実体を求めることはできない。一切のものがあるというときは、様々な構成要素が集まった状態にあるという意味で理解しなければならない。
 このように一切のものを構成要素の集まった形の状態で見るとき、仏法はこれらの様々な構成要素には何があり、どのような状態であるかをさらに説明しなくてはならない。少なくとも例示がいる。仏法は「人間の生命(生きること)」、特に精神(心)の面で関わるものであるから、様々な構成要素は、物質(物)と精神(心)の両方、色法(Rupa- dhamma)と名法(Nama- dhamma)の両方を含み、なおかつ、特に心の面を分析しなければならない。
 様々な構成要素についての説明は、多くの形式を用いることができる。どのような目的でその形式を説明するかによる。ここでは経蔵でよく使われる五蘊という形で示そう。


ホームさんはこの講義の1番最初に、私たちにこう問いかけられました。
「私はいますか?ありますか?」
「何があなたですか?」
おそらく、これが仏法の全てと言っても、、過言かな、いやでもそうかな、わかりません🤣🙏

その答えを、自分自身で自分自身を観察していくことで、仏法を学んでいくことで出していくことが可能ですよ、と教えられるものが仏教なのだと思います。

世間のものの見方と、仏法のものの見方は違うんですね。
ここは押さえておきたいポイントです。
時々、仏法や仏教を勉強し過ぎたり?瞑想に酔いしれたり?してしまうと、世間での生き方を間違ってしまう場合もあります。それは、世間のものの見方を仏法に持ち込んだ場合と、仏法のものの見方そのものを世間に持ち込んだ場合と、あると思うのですが、、
そうならないためにも、私としては押さえておきたいんです。

伝わらないかもしれませんが。。

世間は、概念と比較の世界であり、何かに依る世界です。
仏法は、自然のありのままであり、何かに偏らない真理の世界です。
私の理解です。

仏法を学んだ時、瞑想で、自分は何か変化した、そう思った時、何者かになった、感じがすることがあってもそれは、何者でもない。ということです。以前よりもずっと生きやすくなった、そう実感することもあると思うのですが、その心地よさにもまた執着しない方がいいのだと思います。

執着しない、というのは難しいことですが、執着している自分にその都度気づいていく、ということだと私は思います。パイサーン師やスティサート師がいつも仰られている、気づきを間に合わせる、です。

特に、在家で仏教を学ばれている方は、本当に苦労されることが多いと思うのです。世間は貪瞋痴の煩悩でできているからです。
でも、地に足をつけて、自分の日常の生活を大切に生きていくことは、クサラ(善)だと私は思います。大切に生きていくのですが、そこに執着しないことが、大切なんです。でも、執着しちゃうのが私なんです😆だから、その都度その執着に気づくことが大切なのです。

そして、やはり世間は慈悲で生きた方がいいと私は思うのです。
自分を含めた生命に慈しみの気持ちを持って生きるようにすること、これをいつでも忘れないように携帯しておくことは、本当に大切なことだと、私は思っています。ついつい忘れがちなんですけどね😂忘れていても、気づいた時にそんな私を慈しみで包むのです😊🙏

五蘊に戻りますと😆
ここにいる(ある)のは、五蘊だけです。。。

五蘊( Panca- khandha= The Five Aggregates)
五蘊に分ける方法。仏法は「有情」とか「人」と定義して呼ぶ生命とすべての器官を五種類の構成要素に分ける。仏法ではこれを五蘊と呼ぶ。すなわち次のようになる。

○色 (Rupa = Corporeality)
色法すべての構成要素。身体と身体のすべての行為。あるいは物質とそのエネルギーとその特性、および物質、エネルギーの様々な動き。

○受 (Vedana = Feeling or Sensation)
五官と心の触から生じる楽、苦、不苦不楽を感受すること。

○想 ( Sanna = Perception)
概念、あるいは想念。すなわち、所縁(Object)を記憶させる様々な相を遍知すること。

○行 (Sankhara = Mental Formations or Volitional Activities)
意思が働いて心を善、悪、中立にする様々な構成要素、もしくは特性。やさしく言えば、信、念、慙、愧、慈、悲、喜、捨、慧、貧、瞋、痴、慢、見、嫉、慳など様々な善悪を思念すること。

○識 (Vinnana = Consciousness)
五官と心を通じて、所縁を了知すること。すなわち、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、身で触して知り、心で触して所縁を知ること。


仏教では、生命とは五蘊の働いているもの、と説明されているのだと思います。
そして、この五蘊に執着すること、「五取蘊は苦なり」と言っているのですね。

私が、この五蘊を理解する時に使ったイメージは、
色は、物質のエネルギーです。
例えば身体、も物質のエネルギーですね。
物質は地(つかめるもの)、水(液体)、火(体温)、風(息)でできている、このようにホームさんは説明されていたと思います。
私のイメージは、地は硬いイメージ、水は水分(そのままやな)、火は熱、風は空気とかです。

受、想、行、識、は、心の働き、心のエネルギーですね。
受は、幸せとか快適さ、苦しいとか不快さ、快でも不快でもない。この3つの感受のことです。
想は、記憶などから、これはこういうものであると名づけてわかること、概念として認識する働き、みたいなことでしょうと思います。現象を飾り立てていくもの、ともホームさんは仰っておられましたね。
行は、意思、ですね。意思は業とも言われますね。ここが大切なところでしょうね。
識は、情報を受けとる、知ること、でしょうと思います。

※ 五蘊を学ぶことの倫理面から見た価値

通常、人間は自分の真の自我は、何らかの形があると常に偏向して思い込んでいる。また、心は自我であると思い込んだり、さらにもう一段階、心の中に何か別の自我が隠れていて、それが体と心を所有し、命令する主役だと思い込んでいたりする。
 この五蘊について説明するのは、「有情」とか「人」とか「自我」とか呼んでいるものは、分けてしまえば、これらの五つの要素だけであって、別の自我は何も残らない。そして、これらの各五蘊にしてもそれぞれが互いに依存し合う形で存在して、自由な存在ではなく、そのもの自体では存在しないから、五蘊のそれぞれも同様に自我がないということを見せるためである。
 要するに、五蘊の原理は無我( Anatta)であることを示す。「人間の生命」は様々な構成要素の集まりであり、そしてこれらの構成要素の集まったものも自我ではない。それぞれの構成要素も自我ではない。また、これらの構成要素とは別に自我であるものもありえないことを示す。このように見ると、自我に固執することを止めることができる。後で説明する十二縁起の循環における五蘊の過程を理解すると、この無我たることの意味をはっきりと見ることができる。
 一方、五蘊が関係し合いお互いに依存して存在することを知れば、断見( Uccheda- ditthi)と言われる自我と世間が消滅するという誤った意見(訳注)、常見( Sassata- ditthi)と言われる自我と世間が常住するという誤った意見は生じない。それに一切のものは自我がなく、このように相互依存の関係としてしか存在しないことを知れば、業( Kamma)の原理がどういうものか正しく理解できる。一切のものの相互依存関係の過程は、同様に十二縁起でも説明する。
 もう一つ、蘊のように一切のものを構成要素に分ける方法で見ることは、思考の訓練となる。あるいは真実を分析する思考を用いる性格を作る。すなわち、様々なことを経験したり、または関係したりしたとき、思考が行き詰まらず、外部の形状だけに固執せず、真実を調べたいという性格を作る。最も重要なことは、一切のものをそのもの全体の状態として見ること、もしくは客観的に見ることができる。すなわち、一切のものを、「あるがままに」見て、主観的と言われるような、物事をそうしたいとか、そうしたくないとかいう見方にする「渇愛と執着」を交えるようなことにはならない。
 このような後者の価値は、仏法やこの五蘊の原理の求める目標に到達するものと見なされる。つまり、一切のものに渇愛や執着を用いて固執せず、関わらず、智慧を持って関わり、処理するということである。
 しかしながら、仏法の説示では、通常、ブッダは五蘊だけを説かれることはない。というのは、五蘊は吟味するために取り上げられる状態のものだからだ。その吟味は「五蘊はどうか、どのようになっているか」など把握するための種類の法であるところの、他の法の原理の方向に従って行われる。すなわち、五蘊は、諸法無我など他の自然界の法則の原理と関連して説かれるもので、価値は実践面で完全に現れる。そこで、以下の法の原理を吟味するために取り上げるべきものとして、五蘊についての説明はこれだけで終わらせていただく。


(訳注)原文では、断見で何が失われるか書かれていない。パユットー師の編集された「仏教辞典」(仏法篇)では、「自我と世間」が失われると明記されているので、ここでその言葉を付け加えた。


この、「仏法」の、いいところと言いますか、この「〜を学ぶことの倫理面から見た価値」。私としては、ここが本当に勉強になるところなんです😳🙇‍♀️🙏

私とは、有情とは、人とは、自我とは何でしょうかね?😂

「つまり、一切のものに渇愛や執着を用いて固執せず、関わらず、智慧を持って関わり、処理するということである。」

この部分。世間的価値観でみると、大変つまらないもののように見えるかもしれないなあ、なんて思ったり。でも、このように物事を進めた時にしか、問題は解決されなかったり、成功しなかったりしませんか?
本当に手放した時に手に入れることができるような、得たと思った瞬間にもうそれはすでにない、みたいな。

私は、仏教を学べば学ぶほどに、自分を観察すれば観察するほどに、私とは執着するに値しないものであると学べば学ぶほどに、心が軽くなる感じがしています😊🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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