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無我とは何か

教育ファシリテーション研究所の講座、「無我とは何か?」の第一回目、第二回目、第三回目を視聴しました。
この度もぎりぎり視聴できました〜😅
もう、今は、冬。なのに写真はコスモス〜♪10月から書き始めたので〜
内容、所感等、書いていきたいと思います。
私のフィルターがありますので、読む際には充分にお気をつけください。
あくまでも私の捉え方を通してのものです。
そして基本は私自身がこう学んだ、というものです。

第一回 瞑想修行に活かす無我 スティサート師

無我

この言葉を聞いて、皆様が連想することは何でしょうか?

まず他の宗教や心理学では言われないこと、ということです。
無我なんて聞いちゃうと、私がない?と、字からも連想してしまうのではないでしょうか。
日本語のよく誤解されやすいところですね。

非常に深くて難しいと思われるテーマだと思います。
そのようにスティサート師は仰れていました。

無我はパーリ語のアナッター。我は、アッター、ですから、やはり我ではない、という否定の言葉になっています。
私のパーリ語の師匠(勝手にそう思っている🙇‍♀️😂)に聞いてみました!

ここでちょっと面白かったのは、
忘れてたんですけど笑、無常も常の否定なんですよね。
お釈迦様(仏陀)って、〜ではない。という表現をよくするんです。
この言葉の表現の仕方って、すごいんですよね。
わりと完璧な表現なんです〜😂
〜であるって言っちゃうと、「〜」というもの、「〜」ここの部分の言葉を完璧に表現することってほぼできないんですけど、「〜ではない」と表現すると、完璧に表現できる、このすごさ、伝わりますでしょうか。
(ちょっとミルクボーイを連想しちゃうのは私だけでしょうか笑)

無常 常ならず、って成らず、成立しないということですね。
これを無我に当てはめてみると、
無我 我ならず 我は成立しない
なんですけど、、
無常は、日本人だとけっこう無常観、わかりやすい気がするんですけど、無我ってあえてあんまり聞かないというか言わないですよね。
日本語の特徴に、主語がないことが多いんですけど、いちいち私は、あなたは、とかって言わない表現。
これはまさに仏教的だなって感じるのは私だけでしょうか。
〜と思う。思考ですが、私の思考ではなく、ただの思考なんです。
んん〜素敵。
そして脱線し過ぎ。

我ではないですから、非我、とも見たり聞いたりすることもあるのですが、これだと我がどこかにあることを肯定している表現になってしまうので、やはり違うっぽいんですよね〜
まあ、言葉、ですから、日本語の訳として、「無我」という言葉を使っている。このように理解していただき、原始仏典の基本言語として使われているパーリ語のアナッター(アッターではない)、これを説明しているのだと、ご理解いただくといいと思います。

心理学などでもそうですが、何らかの実体があるものとして、話が進んでいく、ということがあると思います。
苦しい私が、幸せな私となっていく。小さな我から、大きな我にしていくように語られる、とお聞きしました。
日常生活でも、〇〇さん、という固有名詞で呼ばれ、その〇〇さんの仕事をして、〇〇さんの役割を果たしていくんですね。〇〇さん、という実体のあるものとして生活していると思います。
そこに私、という実体があると生きています。

仏教の見方

無我は、この実体のあるもの、と見ている見方が変わること。とも言えると思います。

世俗の何か、実体のあるものとして扱われているものを、「仮のもの」と見ていく見方。借り、かな?この体があるうちに、この体も、借りているものとして扱っていくのだ、と。
それは、執着しないこと、にも通じると思います。
苦しみは、執着する心から生じている、と、よく言われますが、まさに、この体も、自分が所有している土地や財産なども、すべて借り物であると見ていく見方、これが大事で、そのような見方ができていくと、心は自由になるのだ、とお聞きしました。

これらは実感として、そのように経験されている方からすると、そうだな、と思えることだと思います。

まだ、このような実感がない方も、当然いらっしゃると思います。そのような方も、普段の世俗の世界で見ている私たちの普通の見方が、転ぜられる、なんて言われたりもしますが、見方が変わっていく、違う見方がある、と、このように理解していただければいいかなあと思います。偏見、が、正見、となる。そのような感じかなあとも私は思います。

私の本当の姿

なんて、考えたことはありますか?

今の私は、私自身の思い通りの姿、でしょうか?

仏教は因果法則を説きます。
なかなかこの因果法則はわかりにくいのですが、簡単な理解ですと、何かが生じる原因があり、条件があり、その結果があり、私がいきなりポツッと現れているわけではない、という感じでしょうか。ものごとの依存性を表している、縁起、の法則です。

普段私たちは、身体を使っていろんな活動をしていますが、それは自分自身が命令してその命令通りに従って、そして自分の思い通りにしている、そのような感覚で生きてはいないでしょうか?
思い通りにこうなりたい、と思ったら、その思い通りの姿になりますか?

身体は自分の思い通りに動いてくれているでしょうか?
実際には、ほんの数%動かしているだけで、身体は身体で、勝手に、自ずと働いているのだ。とお聞かせいただきました。

そうですね、心臓の鼓動や呼吸や一個一個の細胞の動きでさえ、私が命令をして動いているわけではない、ですね。
はい、今酸素を取り込んで〜なんていちいち命令していられません。はい、心臓止めて!とか、無理ですよね。
このことを本当に知るだけでも、(あたりまえ、、と思うことに驚くのが仏教)とても役に立つなあと思います。

私、としがみつきやすいもの、身体ともう一つ、それは心

身体についても、私の身体、としがみつきやすいですが、心、というものも私だとしがみつきやすいものですね。
小さい頃の私、過去の私、は、その心のことを指していることが多いでしょうか。
心が変わっていく。心が成長してきた今の私だと思いやすい、しがみつきやすい、とお聞きしました。

二つの誤解

・この私たちの人生は死んだら終わりなのだ
・この私たちの人生は死んだら何かに生まれ変わるのだ

この二つは、どちらも間違いである、そうお聞きしました。

あれ?仏教って、輪廻転生って言ってなかったっけ?と、不思議に思われる方もいらっしゃると思いますが。
仏教は、本来は、どちらも間違った見方ですよ、と教えているのです。
正しい見方は、

生まれ変わるにふさわしい原因があれば生まれ変わり、なければ生まれ変わらない

無明、これがあれば生まれ変わり、明、これがあれば生まれ変わらないのだ、と。

ほとんどの生命が無明、ですから生まれ変わる確率が断トツで高いんですね。
仏教は縁起、因果法則、これが真実であるとしている、、と思います。

思考についていかない練習

ティエン師は、
「思考が起こってきた時は抑え込まないようにしてください。
 でも、思考についていかないこと。怒り、欲、それにくっついてはまりこんでいかないこと。」
と仰られていたそうです。

思考は起こってもいいけど、それについていかない練習をしてください。
これ、少し前のパイサーン師のご法話にも出てきたのですが、
「思考の言いなりになってしまうことの酷さ」です。

有料記事なのですが、お勧めです。一部引用しますと

カムキエン師は

「思考が生じるたびに
 思考のいいなりになって動いている。

 それはどんなに
 酷いことだとは思わないかい?」

と、出家してから何度も還俗したいと言ってくる若い僧に言われた言葉です。
(ここにはその僧のいろんな事情があります)

思考は因果法則に従って、自ずと生じてきます。生じてほしくないと思っても、自ずと生じてしまうんですね。その、思考についていかない訓練、これが大事だということです。

普段私たちは日常生活でも、いろんな思考の上に生活していたりしますよね。旅行の計画をしたり、仕事ではやらなければいけないことを考えつつ、行っていると思います。ですから、この思考、というものを信じやすい、と言いますか、、信用してしまいやすいんだろうな、と思うのです。
たぶん、有用な思考もあれば、そうでない思考もある。
そして、私たちの貪瞋痴での思考は、そうでないものが多いのだと思います。
思考は思考です。その思考通りに動いてしまうことの酷さ、を仰られています。

思考は一つの症状である

思考は一つの症状だと見ていくと、生滅が見えてくる。何度も何度もその生滅を繰り返しみることが大切で、そうしていると、思考が出てこなくなり、出てきてもすぐに滅していくんですよ、と。

思考をただただ気づいて知る作業をしていくと、そこには症状と気づきがある、と見分けられるようになっていけるそうです。

無我である、と見ていく見方をしていくと、そこにはでは何があるかと言えば、五蘊がある、と、そのように説明できると言われます。
仏陀でも阿羅漢(完全に悟った人)でも、そこには五蘊はあるが、その五蘊を私だと思わないのだということです。
五蘊に執着することを、五取蘊、と言います。ここはスティサート師は説明されませんでしたが、私の勉強のために説明しますと、
色受想行識、この五蘊にくっついていることですね。

五蘊

五蘊 (Pañica-khandha = The Five Aggregates) 
五蘊に分ける方法。仏法は「有情」とか「人」と定義して呼ぶ生命と
すべての器官を五種類の構成要素に分ける。仏法ではこれを五蘊と呼ぶ。
すなわち次のようになる。
○色 (Rūpa = Corporeality)
色法すべての構成要素。 身体と身体のすべての行為。あるいは物質とそのエネルギーとその特性、および物質、 エネルギーの様々な動き。
◯受 (Vedana = Feeling or Sensation) 
五官と心の触から生じる楽、苦、不苦不楽を感受すること。
○想 (Saññā = Perception)
概念、あるいは想念。 すなわち、 所縁(Object)を記憶させる様々な相を遍知すること。
○行 (Sankhāra
Mental Formations or Volitional Activities)
意思が働いて心を善、悪、中立にする様々な構成要素、もしくは特性。やさしく言えば、信、念、慙、愧、慈悲、喜、捨、慧、貧、瞋、痴、慢、見、嫉、樫など様々な善悪を思念すること。 
○識 (Viññāna = Consciousness)
五官と心を通じて、 所縁を了知すること。 すなわち、見ること、聞くこと、嗅ぐこと、味わうこと、身で触して知り、心で触して所縁を知ること。
仏教辞典「仏法篇」 ポー・オー・パユットー

気づきを鍛えていくとそれらを私だ、私のものだ、と、しがみつくことがなくなるのだ、と。

何もない、無、だと言っているわけではない

無我は、無であること、と誤解されることがよくあると思います。
私がないんでしょう?!とかって。

我がない、ではなくて、我ではない。
が正しいと思います。

うーむ。
言葉は難しいものです。またここか笑
一つ一つ、本当に丁寧に説明する必要があると思いますし、説明をし尽くしたと思っても、必ずしも語る人の理解が、聞く人の理解と一致するとは限らない。
一人一人理解する能力も違いますしね。
その聞く人の知っている言葉で語らなければ伝わりませんけど、それだけで語ると完全に正しく伝わるとは言えません。これ、子育てをしていて実感するところです。

この言葉を説明したり伝える、ということ、ここでの主役はいつでも説明をする方、言葉を語る側の人ではなくて、それを聞く側の人、なんだと思います。
その聞く側の人が、どう聞いていくか、何を聞きたいのか、という部分でしか言葉は活躍できないんだな〜。なんて。

ちょっとずれちゃいましたが、たぶんですけど、無我ってどういうことなのか?と、知りたいと思う人だけが知ることができるんだと思います。
逆から言えば、私、我って何なのか?と探究していく人だけが無我を発見することができるんじゃないかな〜なんて。思っちゃいますね。

私は20代の後半にようやく自分自身と向き合う勇気が出てきて、苦しんで苦しんで仏教に出会いました。
ま、私、のことは置いといて。。

第二回 健康づくりに活かす無我 サンティポン師

第二回目は、サンティポン師の「健康づくりに生かす無我」でした。

ちょうど今秋、なんと私は4回風邪をひきました。もともと虚弱体質なのと、仕事が忙しくなったのと合わさって。しかも3回目の風邪を引いている時に罹ったコロナ感染症。
これには参りました😂💦
風邪ってダブルでひいたりするんだね!するんだよ〜
でももう回復しています😊🙏

病気の時は心がいつも自分の身体に戻される感覚があります。痛かったり辛かったりするので、身体の言うことを聞くしかありません。
そうして心が身体の痛みや辛さを引き受けてあげると、身体はゆるっとできますね。ようやく養生できる感じです。
こんな病気の時でさえ、心は身体のことを放っていろんなところへ行っちゃおうとしています笑なんのこっちゃ。

病は学べます

生老病死、四苦とは本当にその通りです。

病気の時に身体にも付き合いますが、心もよく観察できます。
早く治りたい(急ぐ心)
死にたくない(多い心、とサンティポン師は言われていたかな?)
欲、でもあり、怒りにもなりやすいですよね。
これが、苦の連鎖と言いますか、二重苦、三重苦、となりやすだろうなあと思います。

身体が痛いと感じる(受)→早くよくなりたい(欲)→治らないのは嫌だ(怒り)→イライラしている自分や計画通りに仕事ができないことを嫌悪、悲観とかですね。。

そのように生じる心の症状にも、どこまででも気づきを合わせていくんですね〜。
身体はしんどいんですけど、そのように身体と心を観察していくと、心と身体の緊張は解け、今の状態を受け入れるしかない心持ちになっていきました。
せっかく仕事しないんでいいんだから、病中瞑想してしまおう。とか🤭
せっかく子どもと一緒にいるんだから(子どもも感染するものの普通に元気)子どもとじっくり付き合ったり、観察してみよう。とか。
言いつつ〜、けっこう大変な日々でしたが💦😂
過ぎ去りましたね〜

さてさて、でも本当、時々病気になったり死を観察しないと、健康が続くと思い上がってしまうものだなあと、改めて感じました。
思い通りにならない家族と暮らすことは、修行ですが、真実を見る機会をいつも与えられている、そのようにも感じます。

第三回 子育てに活かす無我 ホーム先生

だんだんと、しりつぼみになっていくいつもの感じですが😂🙏
いやあ前半けっこう書きすぎましたね。

子どもをどう見ていくのか?
ここでもやはり見方、が重要なんですね。

親は子どもの主ではない。
子どもは親のものではない。

ということです。

これは、親の責任を放棄していることでもなんでもなく、真反対です。

私はホーム先生の言葉を聞いて、こう自分自身に問いました。

子どもがどのような状態であろうと、引き受けていく、受け入れていく覚悟はあるのかい?😆

けっこうね、仏教って覚悟、勇気、度胸みたいなのって大事ですよね🙏😊
これはあくまでも自分自身の修行、ということの話です。

ここでもやはり、子どもをよく観察することの大切さを言われていました。
そうそう、子育てにこれさえあればいい、みたいな必殺技のようなものではないです。と言われていたのが印象的でした。
その通りだなあって。子育てに限らず私たちってどうしてもこうしとけばいい、みたいなものを欲しがりますよね笑
そう書かれている本をよく好んだり読んだりしますしね。

終わりです笑

この度も、めっちゃ学べた気がしてます。
感謝します。
仏法僧に礼拝いたします🙏

生きとし生けるものが幸せでありますように

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