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高齢父の辛抱強さ、からの、、ゆえの?いや私の甘えか

一人暮らし高齢父の「大丈夫」という言葉を信じ過ぎたというか、甘えていたというか。ちょっと反省した話です。私の父は戦前生まれ。辛抱強いにも程があるのかもという記事です。。と思って書いていたのですが、、全然違う記事になっちゃった気がします。
私の心のドタバタ感がよく出てる記事です😂🙏

この度は、あることがきっかけで、父の様子の変化に気づきました。

あれ、元気がない?

でもちょっと気づくのが遅くなりました。
私が私のことや一緒に暮らしている家族のことや遠くに住んでいる家族のことに気を取られていたんです。たぶん。
昨年は色々ありましたのです🤭😂

徐々には、体の衰えや変化を認識していたと思ってはいたのですが、コロナ禍、あまり接触し過ぎてもと、ここ2年くらい父の家の中にあまり入らなくなってきていて、久しぶりに入って掃除でもしてみたら、ちょっといつから掃除していなかったんだろうというくらいに汚れている。片付いていない部屋。
そして今も、毎日父のところへ通うようになって、、あれ?もしかして毎日お風呂に入ってない?
髪や髭は伸び放題だったのを、先日床屋へ行ってもらったのですが、またしばらくすると髭はそのまま。
目がすごく悪くなっている。眼科へはしばらく行っていなかった様子。眼科に連れていかないとだな。(近所に眼科はないんです。)
そういえばちょっと前だけど家の鍵をなくしてたし、、ものをどこにしまったか忘れる。(これは私も人のこと言えないですけど😂)
老眼もなくしたので、作らないとだな。
歯はいつの間にかあと数本🦷このままでいいのかな〜と思いつつも
ちょっと前に本人は、どうせ死ぬんだから入れ歯作るのは勿体無いと言ってたんですよね、確か。

その時々に、こうしようか?と言ってはいたけど、「大丈夫。」と。
父の言葉を信用はしていなかったけど、本人が気が向かないことをさせるのも難しいしと、ちょっと放置し過ぎていたなあと反省しています。

父の根底にあるのは、私の予想ですけど。
辛抱強さ(忍耐強さ?)
私になるべく迷惑をかけないように
どうせ死ぬし、老化は仕方がない
あまり物事に頓着しない

影響したと思われることは、
コロナ禍(人との接触が減った、外出の機会が減った、感染予防行動のストレス)
仲の良かった友人の死
友人達が先に亡くなり、自分が一番長生きしている感じ
歩くことが減ったのもあるし老化もあるし、足が弱ってきた
目や耳の機能低下
脳の老化

身体が老いてきて機能が低下していくので、身体に心が引きづられてしまうのは、致し方ない所はあるとは思います。
でもちょっと、放置し過ぎちゃったな。。

最近、浦崎さんの通訳してくださっているご法話に、カンポンさんのご法話がよく出てくるんです。

カンポンさんは、僧侶ではなかったのですが、いわゆる苦しみを超えられた方、だったんだろうな〜。ですから、法をしっかりと伝えることができる方だったんだなあ〜って、感じます。

身体は老いていくものです。病気になります。死にます。無常です。
そして心も無常です。変化します。
変わらないものはこの世にないんです。
この変化する、ということが苦なんです。

なぜ苦しんじゃうんでしょうか。

すべて変化するものだと本当に理解していれば、苦しまないんだと思うんです。きっと。
そして、すべてが思い通りにできると思っているこの自我意識。これが苦しみの元になっちゃうんだろうな、と。

真実は無我なんでしょうと思います。
(無我と言っちゃうと、字的に、自分がないみたいに誤解される方もいらっしゃるので、ちょっとだけ補足しますと、誰もこのようになれと命令する絶対的な主人のようなものは存在しえず、命令に従った結果のものではなく、すべてのものが縁起によって一時的に成立しているものである、とかそんな感じの意味と思います。ここの説明や理解は難しいです。興味のある方は三相の記事をご覧くださいませ)

無常であり苦であり無我である

これが仏教のものの捉え方です。
もう世俗の何を体験しても、仏法、仏教の視点からしか見れなくなっている、そこに話を落としていっちゃう仏教オタク。
とか言いつつ、三相も難しいんだな〜😂

まあみんな老いますし、病気になりますし、死ぬのですが、、
生き方は工夫できますし、身体も生きている間はケアしてあげることができます。
そして、どのように変化したとしても、

苦しむ必要はない

と、思います。
身体は痛くても、心は苦しまないということができる。ということだと思います。
いつでもどこでもどんな状況でも、心が苦しむ必要はないと思います。
でも、苦しんじゃう私(自我)なんです。

ただただ知ること

タイ語でルースースーって言うらしいです。
私は、特に困難な状況、大変な状況、苦しい状況になった時ほど、このルースースーを意識する自分を感じます。そして、ただ目の前にある自分のやるべきことをただやっていきます。そして、苦しんでしまう私自身を慈しみの心で見守ります。感覚です。イメージかな。

この度も、自分の父のことですから、なかなか心の近い距離の人と、心の距離を少しとって慈しみを実践していくことは、困難なことではあるんですけど、(子どももそうで)。
なるべく慈しみを持って、受け入れて、理解して、対処して、父と少しでも楽しい時間を過ごして、向き合って、、、、欲張りな私です🙏🤣

どんな状況も受け入れていこう。
そして、くじけずに死ぬまで共に生きていきましょう。
という試みです😊

法はいつでもどこでもそこにあるものなので、安心して、世俗で少しでも多くの人が幸せであるために、心が苦しまないようになるために、微々たる力を出せていけると、私が幸せだなあなんて思っちゃいましたね😂

本当に微力ですけど。。🤣

一人一人が、どんな状況であっても苦しまなくていい、ということを理解していくこと。

これを本当に理解している人が一人いると、その周囲の人々はきっとその影響を受けるんです。
ああ、苦しまなくていいんだって。明るい気持ちになっちゃうんじゃないかな〜。そこまでいかなくても助かったりすることがあったりすると思います。
そういう人が一人でも増えたらいいなと思います。
私自身も微々たるものですけど、そういう一面があったら、瞬間があったら、なるべく多くあったら(やっぱり欲張り🤣)、なるべくそのようにあれたらと思っています。

カンポンさんは、それを多くの人に伝えることができた、まれな方のお一人だったんじゃないかな〜と、よく知らないのに言ってます🤭

父が辛抱強い、という話はそんなに広がらなかったですね。。🤣
何はともあれ、、父は食欲がないと言いつつ用意したものは食べてますし、散歩にも出かけるようになりましたし(けっこう疲れるみたいですけど)、少しずつ心が元気になっていくといいなと思っています。
難しいことは、父の言葉を言葉通りには受け取れないことかな。大丈夫、ではなかったからですね。でも、本人はその言葉を言葉どおりにとって欲しいところもあるでしょうし。そうでないこともあるっぽいですしね。
まあ、その都度その都度、対処していくしかないですね。見守っていくしかない。子育ても介護も心の姿勢はあまり変わらないですね。
あれですよ、年老いて子ども産みますと子育てと介護の時期が重なっちゃうんですね。
身体は年取りますから、心を鍛えていかないと乗り切ることが困難になっちゃいますね。
生きることは簡単なことではないですね。
コンビニと家と服があれば生きていけるわけではないんです。
逆に、ただ目の前のことをやって生きているだけとも言えたりもしますから、コンビニも家も服がなくても生きていけたりするんですよね。いや家と服はあった方がいいですね😂
衣食住薬。ブッダが必要最低限の生きていくためのものと教えてくださっています。

心に元気がない時、そんな時は無理しないことが一番大事です。
私自身も心に元気がないと感じる時は、決して無理をしません。家族から冷たい目で見られようと無理をしません😂
家族って、当たり前のように毎日当たり前のことをしてくれると(私もですけど😆)思っちゃうものなんですよね〜。

私も一度離婚して仕事を辞めた時は、けっこう落ち込みましたし、けっこう心に元気がなくなったんです。たぶん鬱だったと思います。
そんな時には無理をしないことです。
心の回復を一番に優先させた方が良いと思います。

私の親しい生命が幸せでありますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

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