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法の実践を助ける資具

ポー・オー・パユットー師の「仏法の思考と実践」について、読みつつ、noteに書いています。
今日は仏道という旅に出かける時に必要な7つの資具について。
善友性
戒具足
志欲具足
我具足
見具足
不放逸具足
如理作為具足

2. 法の実践を助ける資具

さて、今や道に入ろうとしています。しかし、ブッダは道が生まれる前、あるいは道に入る前に前兆(Pubba-nimitta)があると言われます。
この前兆とは、吉兆という言葉に似ています。しかし、吉兆は相応しくありません。幸運を信じることだから、あまりよくありません。暗示する、あるいは前もって示すもの、何らかの事が起こる前に前もって示すものです。すなわち何事か起こるときには前兆、あるいは事前に示するものがあります。
 ブッダは太陽が昇る前に前兆として曙光があるように、道に入る前に道の前兆が起こると比喩されました。
 ブッダの言われた前兆は七項目あります。それらは、すべて学習すべきものです。すでにお話ししたように、実践とは学習です。教法と実践
を合わせて学習(学)です。この私たちの道は何を合わせたものでしょうか。道は正見から正定まで八支があります。合わせて整理すると、戒、定、慧の三つになり、三学(Ti-sikkha)と呼ばれます。
道と学とは合致します。道は部分に分けてからもう一度要約すると学になるということです。
 学は道に沿って歩かせるものです。道(Magga)は歩く道で、じっとしていますが、学が入ってくると、つまり私たちが道に沿って歩き始めると、その歩く道が道(Magga)なのです。だから(Magga)は学で、学は道(Magga)です。しかし、一つではなく正しく分けねばなりません。
 学は私たちが道に沿って歩むことです。(Magga)の方は、私たちが学と共に歩む道です。
 つまりは、道(Magga)、すなわちこの生きていくことは、すべて学習だということです。だから、道の前兆(Pubba-nimitta)とは、学習の前部分(Pubba-bhaga)のことです。
 学習の分野では、仏教の原理に従えば、このところを重要視します。仏教はどういう原理を説くでしょうか? 第一は如来菩薩の信がなければなりません。人間が自己開発してブッダになれるという、人間の大悟の慧を信じることです。まず、人間の潜在力を信じることです。学習においても同様です。この信仰が必要です。それから同様に、七つの前兆が必要です。少なくとも、仏教が道と学習とを導くのに何を提供するか、この七つの前兆で見なければなりません。
 前兆は、私たちが道に入ることを暗示することで、あるいは吉兆であるというだけではなく、ブッダの言われるまだ生じない道を生じさせ、生じた道を完全に増大させる重要な要素です。旅の道中を助ける資具でもあるのです。すなわち当初は道に導くもので、その後は道中のものです。私たちが道を歩んで目的を成就するまで、善い果を上げることを助けてくれる資具です。ですから、導き助けてくれるものです。
 道の前兆、あるいは学習の前部分と呼ばれる七項目の導くもの、あるいは助けるものとは何でしょうか?*

※南伝大蔵経第16巻上相応部第篇 189-207ページ参照
ポー・オー・パユットー 仏法の思考と実践 
第一部 第二章実践の開始と前進

前兆は、私たちが道に入ることを暗示することで、あるいは吉兆であるというだけではなく、ブッダの言われるまだ生じない道を生じさせ、生じた道を完全に増大させる重要な要素です。旅の道中を助ける資具でもあるのです。すなわち当初は道に導くもので、その後は道中のものです。私たちが道を歩んで目的を成就するまで、善い果を上げることを助けてくれる資具です。ですから、導き助けてくれるものです。

何かの予兆だとか、前兆だとか、なんとなくですけど、ワクワクドキドキしちゃったりしますよね。
私としては、パユットー師の書かれてあるように、これから紹介していく資具は、前兆としてというよりは、仏道という旅に必要な資具である、ということでいいと思います😊

導き、助けてくれるもの

パユットー師の「仏法」を読んだり、辞書を使わせていただいているのですが、パユットー師が強調されているところは、
善友性
如理作為
この2つなのですが、
辞書の中で一法として1番目が善友性、2番目が如理作為、次の3番目が不放逸。
この不放逸も、資具に含まれています。

私は、一昨年の夏前ごろでしょうか、日本テーラワーダ仏教協会のスマナサーラ長老の不放逸のご法話を聞いて、一念発起したところがあるんです。仏教と出会ったのは随分と前になりますが、よし、仏道修行に邁進しようと本当に本気になったのは、まだここ1、2年なんですね。
いつも偉そうに何やら言っておりますが、こんなもんです😊

まさにこの資具を頂いたのだと思います。
そして、昨年の春ごろにパユットー師の「仏法」に出会い(本棚に10数年眠っておりました🙇‍♀️)、そこで如理作為を知ります。これは不放逸に次ぐ衝撃でした。
よくよく振り返りますと、仏教というものに出会って、仏教書を読んだり、ご法話を聞き出したのが10数年前からで、それは善友性、これは他からの声、とも言われるものだと思います。
そして、一昨年の夏頃より不放逸を意識し出して、昨年の春頃より如理作為について知ることができて、これからご紹介する7つの資具の中にこれら3つも含まれていますが、これらの資具は、八正道と同じく、ほかの資具も高めあうという作用があるんですね。それは実感しているところです。

話逸れちゃいますけど、仏教とか仏法って面白くて、一個のことを説明してるんだけど、それは他のことも全て含まれているみたいな?
一つのことを説明するのに色んな角度から説明しているみたいな、そんな特徴があると感じています。
先ほども八正道のことを言いましたが、八正道も一つの正語、ということを実践しようとした時には、他のすべての要素が必要になってくると言いますか?正見がないとその言葉をどこでどのように発したらいいことなのかわかりませんし、正思惟がないと、正語そのものを考えることができませんし、なんか、けっこうそんな感じなんです。

仏道って、心を鍛えていくんですね。
パユットー師は、自分を開発していく、と、developという単語を使われていることがありますが、そんな感じのことなんです。

世の中の問題や出来事に対して、私たちは色々と行わなければいけないのですが、その時に、正見がないとたぶんいつもの習慣的に行なっていることが優先されますし、付け焼き刃的なことしかできずに、さらに問題を悪化させてしまったり、後々にその問題の後始末が大変になったりするのかもしれません。
たぶん、自分を含めた世の中の人々がやっていることはほとんどそのようなものなのかもしれません。
だって、正見ではないからですね。智慧、で行うことではないからだと思います。まあ、仕方がないことだと思います。時々、は、慧でやってることもあるかなぁ?🤭

例えばですけど、歩く能力のない赤ちゃんに、あなたしっかり歩きなさいよ、と言っているようなものなのだと思います。できないんだと思います。

でも、一人一人は違いますね。私ができることは私自身を開発していくことです。これは、一人一人ができることです。
歩けない赤ちゃんが歩けるようになるために、人間は唯一、頑張ることができる、精進することができる存在だと教えていただいてると思います。
これは時間がかかりますし、忍耐がいります。
子育ても同じ要素はありますね。
成長を待つ必要があるんですね。
忍耐なのです。

私自身も、色んな失敗してきましたし、今もしてますし、そういう間違ったことを周囲の人々に大目に見てもらいつつ、生かされてきたし、今も生かされています。これらは堪忍。多くの人の忍耐と堪忍の中で、生かされていると感じます。これらが実感としてあると、社会や人々に感謝の念が生じてくる気がしますね。
私も本当に反省の毎日ですが😂それでも生きていこうと明るく逞しく生きております。
何の話だ。

めっちゃ話がそれちゃいましたが、本に沿ってこれから7つの資具を紹介していきます。

前兆は、私たちが道に入ることを暗示することで、あるいは吉兆であるというだけではなく、ブッダの言われるまだ生じない道を生じさせ、生じた道を完全に増大させる重要な要素です。

まだ生じさせない道を生じさせ、生じた道を完全に増大させる、重要な要素。

この度は前置きが長くなったので、この辺で😂🙇‍♀️
次回は1番目の資具、善友性について、書いていきます。

生きとし生けるものが幸せでありますように

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