楽園の君の歌詞の意味を考えた。

österreichこと高橋國光さんは、4月には「swandivemori」、5月には「きみを連れてゆく」を2か月連続でリリースし、本格的に音楽を再開することに決めたのだなということが改めて実感されてファンとしては嬉しいばかりです。

しかし、ファンであるから改めて動き出した高橋國光さんの心情の変化が気になるというもの。
ツイッターnoteブログで語られてはいますが、ファンとしては、もっと色々知りたくなってしまいます。

そんな中、改めて「楽園の君」を聴くと、これは高橋國光さん自身の過去と再始動についての曲なのではないかと思いはじめました。
以下に考察を書いていきます。

高橋國光さんとthe cabs

この曲には高橋國光さんが以前やっていたバンドであるthe cabsに関連する言葉が多く登場します。

注目したいのは、曲のタイトルである「楽園の君」
これは高橋國光さんの失踪により、行われなかったthe cabsのライブツアーと同じタイトルです。

では、何故自ら姿を消し、開催されることがなかったツアーのタイトルを用いたのでしょうか?

曲について高橋國光さん自身が書いた文章としてこちらの記事があります。

こちらの記事の『楽園の君という曲について』の章から"シンプルで逃げ道がない曲を作り、どう受け取られたとしてもそこで終わりにしようと考えた"ということがわかります。

the cabsの終わりとなったライブツアーを"難解な曲をつくり、理解される事を放棄し、最後には逃げ出した自分の終わり"になぞらえて、「楽園の君」というタイトルをつけたのではないでしょうか。

「楽園の君」の歌詞について

ここからは歌詞について一節ずつ考えてみたいと思います。

なあそうだろ?
最後のページ書いてあった!
「愛すること、叶わなくとも」

「愛すること、叶わなくとも」はthe cabsのLelandの歌詞にも登場する表現です。

このLelandは、the cabsとして最後にリリースされたアルバム『再生の風景』に収録されています。
よって最後のページとはthe cabsとしての最後のページを指し、そこに「書いてあった」ということは「自らそう言っていたはずなのに」という過去の自分との乖離を表しているのではないでしょうか。

木蓮とソドムの際
からのゆりかご揺らした
例えばその光景が楽園だとしたら?

木蓮の開花時期は行われる予定だった楽園の君ツアーの日程と被ります。
また、ソドムといえば聖書に登場する背徳の街。
失踪してしまったことと、その背徳を表していると考えられます。

加えて、ゆりかごは赤子を楽しませる目的のものです。「からゆりかご」ということはそこには赤子=未熟だった自分がいなくなってしまったことを示しているのではないでしょうか。
また、「からのゆりかごを揺らしている光景が楽園かもしれない」と考えているということは、"未熟だった自分がかつていた場所を、いなくなってもなお待ち続けている人がいる"ことを表現しており、それが幸せなことだと思いはじめたのではないでしょうか。

いつから眠っていた
判決が聴こえた
車輪の下、三月孵化した!

この一節は、『無能』を表しているのではないかと考えられます。
こちらの『ひかりたどるむのう』の章から、自分にできることを求めて彷徨った過程を「路線図」に例え、そこにとらえられていた自分がいた場所を「車輪の下」と表現したのではないかと考えられます。
そこに「判決」、つまり、逃げ出した自分をそれでも求めてくれる声が聴こえたということではないでしょうか。

『無能』がリリースされたのは2015年の三月です。まさに三月に孵化したのです。

なあそうだろ?
最初のシーン覚えていた
エーテルの底、目が覚めぬとも

「最初のシーン」というのはthe cabsの初期を表しているのではないでしょうか。
the cabsは、2011年に残響レコードから『一番はじめの出来事』『回帰する呼吸』をリリースしました。
2011年9月のブログに『回帰する呼吸』のタイトルについての言及として、「いつも心にエーテルを、の精神でございます。」という文章があります。

よってこの一節は、"いまだに覚えていた初期(the cabs時代)の自分が変わっていないとしても"という意味なのではないでしょうか。

すれ違う地獄の窓でいつも探しているよ
変わり果てた君を
別の体で

「地獄」は、先にも挙げた『ひかりたどるむのう』の中に言及が見られます。
"楽園の君にいたる旅路は、地獄とすれ違うものであれ地獄そのものではなかった。"のです。

楽園の君にいたる地獄とすれ違う旅路の中では、この地獄を乗り越えた窓の向こうにいる過去と決別した「別の体の自分」がいる事を信じて探していることを示していると推測されます。

そうだろ
最後のページ書いてあった
「愛すること」

これは最初のサビとほとんど同じ歌詞ですが「叶わなくとも」という文が抜けています。
愛することに対する考え方が、最後のページに「愛すること、叶わなくとも」と書いた時とは変わってきたのではないでしょうか。

何一つ赦せずに生きていくか
笑った顔も思い出せずに
ずっと?

2019年7月のnoteから、音楽の仕事をすることを楽しいと感じたという記述があります。
「笑った顔も思い出せずに」は、自分の罪を赦せずに、楽しかったことも思い出せずにずっと生きていくことに疑問を感じはじめたことがわかります。

まとめ

長い期間を経て、人に自分の音楽を求めてもらった結果、楽しさを思い出し、自分を赦すことにつながっていったことを表現した歌詞なのではないでしょうか。


高橋國光さんのツイッター・ブログ
楽園の君特設サイト
を参考にしました。

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