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優しさという通貨

こんにちは!口永良部島のケイです!

今日これから書くことは、薩摩会議2023に参加し、感じたことのアウトプットです。
自分は頭がいいわけでもなく、知識があるわけでもないです。
ただ、僕が人生で感じてきたことに薩摩会議という刺激が加わって、自分の中にポッと芽が出た気持ちを書いていこうと思います。


僕らには心の声が聞こえる

ちょっと自分の話をします。

大学生になって、初めてアルバイトを経験しました。
塾講師だったんですが、応募理由は時給がいい(1,200円)のと勉強が得意だったから。
数日の研修を経て、いざ近くの塾で働き始めました。

が、3日で辞めました。

理由は、しんどかったから。
時間外労働も多く、時給計算すると600円ほどだったし、勉強を教えることはそう好きでもなかったと気が付きました。
その後、大学を中退したり、プログラマーを辞めたり、農業学校を辞めたりして、今口永良部島にいます。

どれも、最初は興味があって始めたのに、しばらくすると期待はしんどさの中に埋もれ、掘り返すのにも疲弊して、その場所を離れ、丸ごとさっぱり手放すようになってしまいます。

でもそうしてたくさん捨ててきたことで、変わっていったことがあります。

それは、心の違和感が減っていったことです。
東京で塾講師のアルバイトに戻れるかといえば、絶対にNOですが、茨城の農業学校に戻れるかといえば、半々くらいの気持ちです。

僕らの心は身体に話しかけていて、それを無視しながら生きていると、その声は大声に変わり、悲鳴にかわり、ある時声を発しなくなり、もう元には戻れなくなります。
だからその前に、身体はその場所を捨て、新しい場所を探すんだと思います。無視できないくらいに心の声が大きくなってきたから。

そんな経験、これまでにないですか。


現代社会への違和感

口永良部島に来て、僕の心の声は穏やかになりました。
元気に話しかけてくれるもんで、日々幸せです。

でも一方で、僕らの耳にはある大きな悲鳴が聞こえてきます。
しかも次第にその声は大きくなってきています。

それが地球の声です。

夏、暑いですよね。異常なくらい。
魚、全然獲れなくなってませんか。
なんでプラスチックが悪者になっているんですか。

口永良部島、西之浜(2022.10月)

目に見えて、僕らの生活環境はおかしくなってきている。
その違和感の理屈は説明できないけど、五感に訴えかけてくる違和感は強まっている。

物価、高くないですか。
子供、減ってますよね。
なんでこんなに国防費を増やす必要があるんですか。

日々僕らを蝕んでいく違和感は地球環境だけではなくて、いま生きているこの社会全体に対してもです。

この違和感を心の声に例えるなら、いつか声は枯れ、失われてしまいます。
その前に身体、僕らが動かなくてはいけない。

世界人口80億人、食糧危機問題はすでに燃えていて、資源の奪い合いは戦争という形で表面化している。
資本を持つ国が軍事力を増大させ、資源の奪い合いの勝敗を決するなら、今のままの日本の未来は明るくない。

なにが問題なんでしょう。
どうすれば、現在社会の叫び声がなくなりますか。
僕ら身体は何を捨て、何を得ればいいんでしょう。

僕が感じた一つの答えがあります。
それは、貨幣の絶対的価値基準という意識を捨て、相対的価値基準という意識を得ること。


島の価値基準

僕が口永良部島に来たばっかりのとき、困ったことがありました。
それは、周りの人から物を頂いたとき、何を返せばいいんだろう、ということです。

お店で野菜を買うとき、値段がついています。
リサイクルショップで家具を買うときも、値段がついています。

じゃあ、近所のおばちゃんがくれた大根はいくらなんだろう。
余ったからっておすそ分けしてくれた肉じゃがはいくらなんだろう。

くれたんだからタダ?だって、善意でしょ?
いやでも、野菜を育てる大変さ、めっちゃわかるしなぁ。
お金渡しても受け取ってくれないだろうし、そもそも優しさでくれたのをお金に換えるのも嫌だなぁ。
じゃあ、昨日釣れた魚を渡そう。おばちゃん、メジナ好きって言ってたもんな。

ケイの頭の中

たくさん渡すと自分の食べる分がなくなるし、相手も気を使うから、家族の人数を考えて、相手がもらってちょうどいい感じの量を想像して渡すようになりました。

コンビニで水が100円で売っているとき、この水はだれが汲んで、詰めて、運んで、どんな気持ちを込めて売っているんだろうと考える人は少ないと思います。

でもおばちゃんがたくさん作ったからって言っておかずを分けてくれる時、このおばちゃんがさっきまで台所に立って、料理して、「あ、そうだ、隣のケイは男で一人もんだったな、少し分けてあげようか」、なんて考えて分けてくれたんだと、想像して嬉しくなります。

僕も魚がたくさん獲れた時、近所の人にわけたりします。
それは、見返りが欲しいんじゃなくて、もうすでにお世話になってると感じるから、お礼がしたくて渡すんです。

普段ののんかた(飲み会)の風景
漁師さんと僕とで魚を獲ってきて、漁師さんが寿司を握ってくれた。
集まった人はお酒をもって来たり、つまみを作ってきたりして、みんなで楽しんでいる。

売り手が値段をつけてくれると、買い手は楽ですよね。
想像しなくていいから。
でも値段がついてないものをもらった時は、何が自分にできるんだろう、相手は何が喜ぶだろうと想像します。

相手を想像して物を渡す、ごく当たり前のことですが、人が増え、お金でなんでも買える時代になって、失われつつある感覚なんじゃないかと思うんです。


お金で買えないもの

お金で買えないものはない、愛も幸せもお金で買える、そんな風に思うことがあります。
お金があれば美味しいものを食べ、旅行に行って、プライベートビーチがあるような別荘で海で遊んで、掃除洗濯なんかも人に任せて、ストレスがたまる仕事もしなくていい。
なんでもできる、そのくらい、現代社会において貨幣は強力です。

でもその価値は絶対だろうか。

たとえば、自分で種をまいて育てたトマトを1玉100円で、自分でお店を開いて売るとします。

Aさんがやってきて、
「なんだこのトマトは。張りがないし、形も変だ。育て方が悪い。こんなんに100円も払うやつがいるのか。50円だったら買ってやる。」
と言ってきたら、あなたはAさんに50円で売りますか。
売らないですよね。

では断った後に、
「しょうがない、本当は払いたくないけど頼まれてるから100円で買ってやる」
と言われたら、100円で売りますか。

最初に100円という値段をつけているから、トラブルを避けるために売るかもしれません。
でも、ここまで言われた後に売りたくないですよね。
「そんなこと言う人に売りません」と。

それでは、Bさんがやってきて、
「自分でこのトマトを作ったんですか!みずみずしくて、美味しそう。こんなに丁寧に作るのは大変だったと思います。とてもじゃないけど、100円で買うのは忍びないです。少ないけど、150円受け取ってください」
と言われたら、嬉しいですよね。

いやいや、100円で売っているので100円でいいですよ、と返すかもしれません。
もしくは、150円受け取る代わりに、もう一個オマケしてしまうかもですね。「たくさん採れたから。近所の人にも分けてあげて」なんて言ったりして。

お世話になったからと、屋久島でたんかん農家をしている人からいただいた。
もちろん売り物になるものを、わけてくれた優しさが嬉しい。

また、
「水」とだけ書かれたペットボトルより、「富士の天然水」と書かれたペットボトルを選んで買ったり、
ただのお米より、「田舎の風景を取り戻すため、地元民が協力して耕作放棄地を再生して作ったお米」を選んで買ったり。

僕らは同じ品質の商品でも、付加価値やストーリーを加味して買い物をしています。
その時には、
「水?水道水?湧き水?天然水でも、富士山の水は美味しそう」
「このお米を買ったら、この田舎の人たちがもっと元気になるかなぁ」
などと、想像力が働いています。


値段のないものを売る

お金が決して悪者ではないのですが、資本≒物理的な力という式の弊害が、現代においてあまりに影響を与えすぎている、と感じます。
かといって、貨幣を今すぐ捨てて物々交換の社会形態に戻ろうとするのは、無理です。

では、商品に値段をつけない社会はどうか。

商品の値段を、買い手が決めてお金を支払う形式です。
たとえば、レストラン。
メニューには値段が書いてなく、ご飯を食べた後、お客さんが自分の感覚で料金を支払います。

物もいいと思います。
たとえば、カバン。
最低額だけ決まっていて、数週間使ってみて、お金を支払います。

最低価額が決まっている場合、本当の意味で買い手が値段をつける形式とは異なりますが、単純に決まった金額を支払う場合と比べて、自分が支払うお金の意味を考えると思います。

このくらいの商品だったら、このくらいかな・・・
でもサービスがよかったな。
働いている人の給料が上がって欲しいし、少し多めに支払おうかな・・・
だけど自分もお金ないし、このくらいにしておくか。

この思考のプロセスは、まさに、おばちゃんから野菜をもらった時と同じです。

でも買い物のたびにこんなこと考えてお金を払うのは、正直、煩わしいと思います。やってられないですよね。
だけど、(僕の愛すべき先輩の言葉を借りれば)この煩わしさがこの先の未来を変える鍵になると思います。

少しずつでも、目の前の商品を買うときに相手を想像して、値段を決めるようになれば、貨幣が、資本が絶対的な力を持たなくなる。

人々が相手を想像する優しさをもって生きていく世界になれば、間違いなくこの先の未来は大きく変わる。

いつの日か、本当に優しさが通貨になる日を願って、いま自分ができることを始めます。

自分の畑でベビーレタスを収穫する様子(2023.4月)
この時採れた野菜は、近所の人に半分おすそ分けした。


参考


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