見出し画像

戦国!室町時代・国巡り(3)伊勢・志摩編

【0】はじめに

伊勢国:石高 56万7000石(1598年)
志摩、尾張、美濃、近江、伊賀、大和、紀伊に接する。

北勢 鈴鹿郡/安濃郡/奄芸郡/河曲郡/三重郡/朝明郡/員弁郡/桑名郡
南勢 一志郡/飯高郡/飯野郡/多気郡/度会郡

志摩国:石高 1万8000石(1598年)
英虞郡/答志郡

(2)年表

1351年 観応の擾乱
1352年 男山合戦
1392年 明徳の和約
1399年 応永の乱。
1414年・1428年、北畠満雅の乱
1441年 嘉吉の乱
1467年 応仁の乱
1473年 斎藤妙椿の伊勢侵攻
1486年 宇治山田合戦
1489年 将軍足利義尚が病死
1497年 木造師茂の乱
1498年 明応の大地震
1540年 六角氏の北伊勢侵攻
1542年 蟹坂合戦
1543年 垂水鷺山の戦い
1555年 今川氏の伊勢・志摩侵攻
1559年 塩浜合戦
1559年 茂福合戦
1565年 永禄の変
1567年 織田信長の北伊勢侵攻
1569年 織田信長の南伊勢侵攻
1571年 第一次長島侵攻戦
1573年 第二次長島侵攻戦
1574年 第三次長島侵攻戦
1576年 三瀬の変
1577年 北畠具親の川俣挙兵
1577年 縄生城の戦い
1579年 第一次天正伊賀の乱
1581年  第二次天正伊賀の乱
1582年 北畠具親の五箇篠山挙兵

(3)概要

伊勢の諸勢力
鈴鹿郡    :関氏
安濃郡・奄芸郡:長野氏
河曲郡    :神戸氏
三重郡    :守護(一色氏)、(千草氏・赤堀氏・後藤氏・楠氏)
朝明郡    :朝倉氏を中心とする幕府奉公衆「十ヶ所人数」
         他に(萱生氏・梅津氏・富田氏・浜田氏)
員弁郡    :梅戸氏が率いる「北方一揆」。
         他に(上木氏・白瀬氏・高松氏)。
桑名郡    :桑名は「十楽の津」と呼ばれる自由都市であり
         桑名衆が統治。他に(持福氏・木俣氏)。
南伊勢は北畠氏

①親房と3人の息子
 南朝の実質的指導者・北畠親房の3人の息子のうち長男北畠顕家は、奥州鎮定に赴いた。二男・顕信は、伊勢で挙兵し、伊勢国司に任官されるが、兄の死後、奥州へと移った。伊勢北畠家初代は、三男の顕能であり、顕信に代わって伊勢国司となった。顕能は玉丸城に本拠を置いたが、伊勢守護・高師秋に攻められ、一志郡多気へ退居した。そのご、勢力を盛り返し、伊勢北部、伊賀、大和宇陀郡へと勢力を広げた。

②明徳の和約と北畠満雅の乱。
 顕信の子、顕泰の代に明徳の和約が結ばれるが、北畠氏は承服せず抵抗を続けた。やがて、旧領を安堵されると幕府に帰順する。
 しかし、顕泰の子・満雅の代、幕府が明徳の和約を反故にすると満雅は、二度にわたり反乱を起こし、討ち死。北畠氏は一志郡・飯高郡を失う。
一志郡は、長野氏、飯高郡は伊勢守護・土岐持頼(世保家)に与えられた。

③応仁の乱と伊勢守護兼任
 応仁の乱が始まると、東軍に所属する土岐政康(世保家)が、西軍に参加した伊勢守護・一色義直に代わって東軍から伊勢守護に補任された。1471年土岐政康は長野氏と結び、北畠氏と争った。だが同年、北畠教具の子の北畠政郷が伊勢守護に任じられ、土岐政康は解任された。
 伊勢守護就任を北伊勢進出の大義名分とするが、1479年、守護職を罷免され新たに一色義春が守護に任命されると、安濃郡の国人・長野氏(長野政高)との抗争が再燃。武力進出を図るも大敗する。これを期に政郷は隠居。

④木造師茂の乱
政郷が隠居し、材親が家督を継ぐ。1486年、宇治山田合戦に介入する。
伊勢神宮では内宮の門前町・宇治と外宮の門前町・山田が対立を続けていた。北畠氏は、宇治と提携し、自治都市・山田を攻めた。
材親は神戸氏や長野氏らの領土に侵攻して勢力を拡大した。
しかし、材親の方針に反対する重臣が申状を提出、材親はこれに対して厳しい態度で対処した。大宮氏・高柳氏は、反乱を起こして田丸城を攻撃する。さらに、北畠氏の一門である木造政宗が娘婿で材親の弟である木造師茂を擁立し、家督を巡る争いへと発展させる。しかも、大御所である政郷も師茂に味方し、材親を幽閉してしまう。
 脱出した材親は木造城を攻撃(大河内氏、岩内氏、坂内氏、沢氏などが配下)。落城寸前まで追い込むが、長野氏が師茂方で参戦したことで、一族である大河内親文を失う大敗を喫す。追いつめられたかに見えた材親であるが、ここで政郷が師茂を切腹させたことで内乱は終結する。仇敵である長野氏の介入を良しとしなかったのではないかと考えられる。師茂義父の木造政宗は降伏せず抵抗を続け、最後は居城・木造城を接収、木造政宗が戸木城へと移ることで和議が成立した。

⑤晴具時代
次ぐ晴具は伊勢北畠氏の最盛期を作り出す。
志摩の鳥羽城を攻撃して手中に収めると、志摩国全土を支配下に置く。
大和にも進出して吉野郡と宇陀郡を制圧。大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦になる。
さらに紀伊へも進出して、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。
1542年、蟹坂合戦。六角氏に敗退し、六角氏の娘を北畠晴具の嫡男具教に嫁がせることとなる。
1543年、垂水鷺山の戦い。長野藤定が南伊勢に侵攻すると、垂水鷺山で迎え撃った。その後、1545年から1547年にかけて、長野氏を攻撃、一志郡内で攻防を続けた(葉野の戦いなど)が長野氏を降すことはできなかった。

⑥具教時代
1555年には、駿河の今川氏が伊勢・志摩に侵攻。
1558年、北畠具教は、仇敵長野工藤氏との間で次男・具藤を養嗣子とする有利な内容の和睦を結ぶ。
1560年には志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼすことに成功する。

⑦織田信長の伊勢侵攻
1567年、織田信長の北伊勢侵攻開始。北伊勢は梅戸氏、千種氏、神戸氏、関氏らが六角氏の影響下にあり、六角氏が反義昭方に付いたため、信長に敵対する勢力とみなされた。
1568年、長野家では、分部光嘉・川北藤元ら和睦派が長野具藤を追放し、織田信長の弟・信包(当時は信良)を新たに養子と迎え入れた。また2月には神戸氏が降伏し、織田信長の三男・信孝(幼名:三七)を養子と迎え入れた。
1569年、織田信長の南伊勢侵攻戦が開始、5月には有力一族である木造家当主・木造具政が造反。8月、信長自ら北畠領内への侵攻を開始。大河内城に籠城して死守するも、50余日の抵抗の末に降伏し、(大河内城の戦い)信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる。
1570年、伊勢長島一向一揆。
1576年、三瀬の変。信長と信雄の命を受けた旧臣の襲撃を受け、北畠氏は一族・家臣ともども殺害される。

⑧北畠具親
1577年、北畠具親は還俗し、遺臣たちを糾合し、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄によって鎮圧・落城した。安芸の毛利輝元を頼って、備後鞆に落ち延びた。
1582年6月、信長が本能寺の変で死去すると、具親は伊勢に戻り、安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。しかし、津川義冬率いる織田信雄軍に再び敗れ、伊賀に落ちた。

【1】北畠氏

北畠氏は村上源氏・中院家の家祖通方の子、雅家が洛北の北畠に移ったことから「北畠」を称したことに始まる。
鎌倉時代末期の北畠親房は、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した。親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。
親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢を拠点とした。

〇北畠親房(1293-1354)
①北畠顕信(1320?-1380?;在1336-1338)伊勢国司初代。
②北畠顕能(1326?-1383?;在1338-1383)伊勢国司2代。伊勢北畠家初代
③北畠顕泰(1361-1414;在1383-1402)伊勢国司3代。
④北畠満雅(?-1429;在1402-1429)伊勢国司4代。
⑤北畠教具(1423-1471;在1441-1471)伊勢国司5代。伊勢国守護
⑥北畠政郷(?-1508;在1471‐1486)伊勢国司6代。伊勢国守護
⑦北畠材親(1468-1518;在1486)伊勢国司7代。伊勢国守護
⑧北畠晴具(1503-1563;在1511‐1553)伊勢国司8代。
⑨北畠具教(1528-1576;在1553‐1563)伊勢国司9代。
⑩北畠具房(1547-1580;在1563‐1575)伊勢国司10代。
⑪北畠具豊(織田信雄)(;在1575)伊勢国司11代。

(0)北畠親房

(1293-1354)
子に顕家、顕信、顕能、女(後村上天皇女御)、女(護良親王室)、女(冷泉持定室)

(1)北畠顕信

(1320?-1380?)
北畠親房の次男。通称:春日少将。
子に信親、守親、親統。
南北朝時代の公卿で、北畠顕家の弟。
1336年に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇を援助に与し、伊勢国司に任官される。
1338年、兄の死後、鎮守府将軍に任命され、陸奥国に赴こうとするが暴風にあって頓挫。
翌1339年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。一時占領するが、北朝方の反撃を受け失敗する。霊山城を拠点にする。
1347年、霊山城が落城。滴石城に退いたのち出羽国に退却する。
1351年、観応の擾乱の影響により奥州管領同士の争いが起こると南朝側は勢いを盛り返し、11月広瀬川の戦いで北朝軍を総崩れにし、多賀城奪還に成功する。
翌1352年、吉良貞家により多賀城を追われる。宇津峰城に移るが、1353年、落城。出羽国へ逃れる。
その後は吉野に帰還して右大臣を務めたとも、九州で懐良親王を補佐したとも、津軽で浪岡氏の祖となったともいう

(2)北畠顕能

(1326?-1383?)
北畠親房の三男。
子に 木造顕俊、顕泰。
伊勢国司2代。伊勢北畠家初代。
1338年閏7月、伊勢守に叙任される。同年9月東国に向けて出航した親房・顕信の委任を受け、玉丸城に本拠を置く。
1339年8月、伊勢守護高師秋が神山城を攻撃。
1342年8月、玉丸城が陥落、一志郡多気へ退居。
1347年秋、河内の楠木正行と連携し、南朝勢の回復を図るも、翌年正行が死亡。
1351年、観応の擾乱に乗じ、勢力を回復。
1352年、男山合戦で南朝方が敗北。多気に帰り、再起を窺う。
1353年2月、大和宇陀郡に進出。
1355年5月、伊賀に侵入
1360年2月、足利義詮・畠山国清が行宮に来攻するが、これを撃退
1371年6月、安濃郡に出陣して土岐康行を破り、同郡を領する。
1372年3月、朝明郡に出陣して仁木義長を破り、同郡を領する。
1383年7月、没

(3)北畠顕泰

(1361-1414;在1383-1402)
顕能の二男。
子に 満泰、満雅、大河内顕雅。養子に木造俊康(木造俊康の子)。
伊勢国司3代。多気を拠点とする。
1392年、明徳の和約。だが、北畠氏は講和を受諾せず、抵抗を続ける。
1393年、伊勢鈴鹿郡で土岐康政と交戦してこれを破る。その後、旧領を安堵されると幕府に帰順(将軍:足利義満)。
1394年上洛し、伊勢国司の地位と伊勢南半国(度会・多気・一志・飯高・飯野郡)の遵行権を承認される。
1399年11月の応永の乱に参戦。山名時熙とともに大内義弘軍と戦い、長男・満泰が討死。義満から軍功を賞されて伊賀半国と近江甲賀郡を賜る。
1402年、この頃、満雅に家督を譲る。

(4)北畠満雅

(?-1429;在1402-1429)
顕泰の次男。
子に教具。
伊勢国司4代。
1414年、明徳の和約の履行を求め、伊勢で挙兵。大和宇陀郡の沢氏・秋山氏といった国人らが味方した。
満雅は幕府方の城や足利方についた北畠一族の木造俊康の坂内城を攻め落とし、坂内雅俊を木造城に、実弟・顕雅を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、自身は阿坂城に入った。
 1415年4月、第4代将軍足利義持は、土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、阿坂城まで迫る。しかし、攻め落とすことができず、8月に後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。
 1428年7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、足利義教は、持明院統の伏見宮家から後花園天皇を立てた。後亀山法皇の孫・小倉宮は満雅を頼り、満雅はこの当時幕府と対立していた満雅は鎌倉公方・足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こした。
1429年、北畠勢は雲出川の戦いにおいて伊勢守護・土岐持頼(世保家)率いる幕府軍を大破・敗走させる。
しかし、同年、岩田川の戦いにおいて、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした。
 北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられた。

(4-4)北畠満雅の乱

(5)北畠教具

(1423-1471;在1441-1471)
満雅の子。官位:正二位。権大納言。
子に 政郷(政具)、坂内房郷、大河内親郷、東門院孝尊、娘(神戸為盛室)
伊勢国司5代。伊勢国守護(?)。
父が戦死し、家督を継ぐが7歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行した。
1441年、19歳で伊勢国司となる。嘉吉の乱が起こると、その首謀者の一人で伊勢国に逃亡してきた赤松教康の保護を拒否して自殺に追い込み、幕府に恭順を誓った。
1448年に長野氏と所領を巡り合戦を行う。
1467年、応仁の乱では北畠家は東軍についた。しかし、在京していた一族の木造教親を通じて伊勢に亡命してきた足利義視を保護
1468年、東軍の土岐政康が新たに伊勢守護に任じられる。
1471年、病により死去。

(6)北畠政郷

きたばたけ まささと(?‐1508;在1471‐1486)
教具の子。初名:政具。政勝。法号:無外逸方。官位:従四位上、右近衛権中将。
子に 材親(具方)、大河内親忠、田丸顕晴、木造師茂、東門院孝縁
伊勢国司6代。伊勢国守護。
元服に際し第8代将軍足利義政より偏諱を与えられ、政具(まさとも)と名乗る。
1471年、父・北畠教具の死により家督を相続し北畠家当主となる。家督相続と伊勢守護に任命される。北伊勢進出の大義名分とするが、1479年、守護職を罷免され、新たに一色義春が守護に任命されると、安濃郡の国人・長野氏(長野政高)との抗争が再燃。武力進出を図るも大敗。
1484年、畠山義就が赦免され、北畠氏も伊勢守護職にも再任される。
1486年、出家し、材親に家督を譲る。
1486年ころ、宇治山田合戦に介入する。

(7)北畠材親

(1468-1518;在1486-1511)
北畠政具の長男。はじめ具方(ともかた)を名乗る。後に第10代将軍足利義材(のちの義稙)から偏諱を受けて材親と改める。官位:正三位・権大納言。
子に晴具、神戸具盛、大河内頼房(親忠養子)。
伊勢国司7代。伊勢国守護。
1486年、父の出家により、家督を継ぐ。
1486年、宇治山田合戦。
1487年、長享・延徳の乱。第一次六角征伐(鈎の陣)
1497年、木造師茂の乱。
1508年、父・政郷の死。伊勢守護に任命される。
1509年 伊勢に落ち延びてきた三好長秀を討ち取る
1511年、隠居。
1518年、死去。

(7-7)木造師茂の乱

(8)北畠晴具

(1503-1563;在1511-1553)
材親の嫡男。初名:親平、後に具国。法号:天祐。
正室:細川高国の娘。
子に 具教、木造具政、具親、東門院孝憲。
伊勢国司8代。
晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌・連歌・茶道をよくし、能書家でもあった。伊勢北畠氏の最盛期を作り出す。
1511年、父から家督を譲られる。
1518年、第12代将軍・足利義晴から偏諱を受けて晴具に改名。
1529年、足利義晴・細川高国が三好元長・柳本賢治に敗北して、近江朽木谷へ逃亡。高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。
1534年1月、山田三方に出兵。
1536年、出家して「天祐」を名乗る。
志摩の鳥羽城を攻撃して手中に収めると、志摩国全土を支配下に置く。
その後、大和にも進出して吉野郡と宇陀郡を制圧。大和諸国人との対立が発生し、筒井氏・越智氏・十市氏・久世氏らと合戦になる。
さらに紀伊へも進出して、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。
1542年、蟹坂合戦。木造氏が率いる1万余の軍勢が近江に侵入、六角氏重臣の山中秀国を攻める。六角勢は蟹坂で北畠勢を待ち受け、不意を突かれた北畠勢は混乱のうち敗退する。将軍の斡旋で両者は和睦。六角氏の娘を北畠晴具の嫡男具教に嫁がせることとなる。
1543年、長野藤定が南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣、合戦となった(垂水鷺山の戦い)。
1545年から1547年にかけて、長野氏を攻撃、一志郡内で攻防を続けた(葉野の戦いなど)が長野氏を降すことはできなかった。
1543年1月には山田三方が命令に従わないことを理由に出兵、宇治・山田の両門前町の軍勢を宮川の戦いで討ち、両門前町を支配下におさめる。
1553年、隠居。
1563年9月、死去。

(9)北畠具教

(1528-1576;在1553-1563)
晴具の長男。法号:天覚、不智斎
正室:北の方(六角定頼の娘)
子に具房、長野具藤、親成、雪姫(織田信雄正室)、女(不破直光室)、女(津川義冬室)、徳松丸、亀松丸、女(野呂正景室)
伊勢国司9代。
1553年、父から家督を譲られる。
1555年、伊勢国・安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦う。
同年、今川氏の伊勢・志摩侵攻。
1558年、次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な内容の和睦を結ぶ。
1558年、大和国宇陀郡の国人領主・秋山教家の居城・神楽岡城を攻める。
1560年、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼす。
1563年、父の晴具が死ぬと喪に服し官職を辞して家督を譲って隠居する。
1569年8月、信長自ら北畠領内への侵攻を開始。
大河内城に籠城して死守するも、50余日の抵抗の末降伏(大河内城の戦い)
信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる
1570年5月、出家して天覚、更に不智斎と号す。
1572年3月、西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結ぶ。
1576年11月25日:三瀬の変。信長と信雄の命を受けた旧臣の襲撃を受け、一族・家臣ともども殺害される(子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら共々殺害)。享年49。

(10)北畠具房

(1547-1580;在1563‐1575)
具教の嫡男。
伊勢国司10代。
1563年、父・具教の隠居により家督相続。
1576年11月、三瀬の変。具房は身柄を滝川一益に預けられ、3年間幽閉された。
幽閉が解かれ、名を信雅に改めた。
1580年、死去

(10-2)織田信長の南伊勢侵攻戦

北畠勢
小森上野城  藤方具就
阿坂城    大宮含仁斎
今徳山城   奥山常陸介

船江城    本田右衛門尉
八田城    大多和兵部少輔
曽原城    天花寺小次郎
岩内城    岩内鎮慶
大河内城   北畠具教、具房。

(11)北畠昌教

(1577~1616)
具房の嫡男。伝承上の人物。三瀬の変で祖父具教ら一族が誅殺された際、家臣に連れられて脱出し、本願寺を頼り、その降伏後は津軽に赴いて津軽為信の客分となったという。

(12)北畠具豊(織田信雄)


(13)北畠氏の一族

北畠具親
(?-1586)
晴具の三男。
はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあった
1576年11月、三瀬の変で兄が織田信長によって殺害されると、伊賀に潜入し、還俗して伊勢に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。
1577年、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄によって鎮圧・落城した。
このため、安芸の毛利輝元を頼って、備後鞆に落ち延びた。
1582年6月、信長が本能寺の変で死去すると、具親は伊勢に戻り、安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。しかし、津川義冬率いる織田信雄軍に再び敗れ、伊賀に落ちたという。
1584年、蒲生氏郷が伊勢に入封すると、蒲生氏のもとに客臣として迎えられる。
1586年、没。

長野具藤
(1558-1576)
具教の次男、長野藤定の養子。
三瀬の変で殺害された。

北畠親成
(1560-1576)
具教の三男。官位:式部少輔
1576年11月、三瀬の変で兄・長野具藤と共に田丸城において土方雄久・津川義冬らに殺害された。

[1-2]北畠氏家臣

(1)北畠氏庶流

木造氏
北畠氏庶流。一志郡・木造城主
北畠顕能の子・木造顕俊が一志郡・木造庄に入って木造氏を名乗ったことに始まる。京都においては油小路に屋敷を構えたことから、油小路殿(あぶらのこうじどの)とも呼ばれた。
室町時代には、北畠氏の庶家でありながら、宗家と同格の待遇を室町幕府や朝廷から受け、応仁の乱の際は宗家と刃を交えている。
大河内氏
北畠氏庶流(三御所)。飯高郡・大河内城主。
北畠満雅の弟・顕雅を祖とする。
坂内氏 
北畠氏庶流(三御所)。飯高郡・坂内城主。
木造顕俊の子・木造雅俊を祖とする。
北畠満雅の代、木造顕俊の二男・木造俊康は顕泰の養子として在京出仕していたが、反幕行動をとる満雅と袂を分かち、帰家して木造家の当主となった。顕俊の弟・雅俊は満雅側に付き、木造城を占拠した。
京都にいた木造俊康は足利義持将軍の助力を得、5万の兵を率いて居城を奪回。雅俊は坂内城へ退いて坂内氏を名乗るった。
田丸氏 
北畠氏庶流(三御所)。度会郡・田丸城主
北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。
星合氏 
北畠氏庶流。一志郡・星合城主。
北畠政郷の子・星合親泰が一志郡・星合城に入って星合氏を名乗ったことに始まる。実際は歴代当主は大河内氏や坂内氏を名乗っており、星合氏を名乗ったかは不明。
岩内氏 
北畠氏庶流。飯高郡・岩内城主
藤方氏 
北畠氏庶流。安濃郡・藤方城主
波瀬氏 
北畠氏庶流。一志郡・波瀬城主。木造顕俊の子・木造雅俊(坂内雅俊)を祖とする。
神戸氏
関氏庶流。河曲郡・神戸城主。
北畠政郷の子である具盛が神戸為盛の養子として入り、北畠一門となった。
その後、岸岡城と高岡城を築く。
森本氏
一志郡森本を拠点とし、木造顕俊の子・森本俊氏を祖とする。

(2)伊勢国国衆

天花寺氏
一志郡・曽原城主。
久我氏。
野呂氏
多気郡・五箇篠山城主
鎌倉時代中頃に野呂氏隆が上野国より伊勢国へ移り住む。
五箇篠山は、北畠氏の被官・五箇氏の根拠であったが文明年間(1469-87)に北畠氏に背いたことで滅ぼされ、その後に野呂氏が入った。
波多瀬氏
多気郡・波多瀬城主
六呂木氏
玉井氏
舟木氏
美濃土岐一族。
大内山氏
度会郡・大内山城主
愛洲氏
度会郡・五ヶ所城主
清和源氏の武田氏の一族で、一説では一条忠頼が愛洲氏祖とされる。
伊勢愛洲氏は、三重県南伊勢町の五ヶ所浦にあった五ケ所城を本拠地として水軍を率いていた豪族で室町幕府の遣明貿易に関わっていた。
愛洲氏は北畠氏滅亡後、常陸国の佐竹氏に仕え、「平沢」と改姓し、関ヶ原の戦い後、佐竹氏が出羽国移封にともない移住した。

蔵田氏

潮田氏

阿曽氏
丹生俣城主。波瀬氏家臣

大崎氏
福井氏
下村氏
古和氏
上村氏
奥氏

向井氏
伊賀国向荘を本貫としていたが、後に伊勢国に拠点を移した。
愛州氏に従属し 小浜氏らと共に伊勢大湊を本拠とする北畠水軍の一翼を担う。
第7代正重のときに 伊勢国から駿河国に移って 今川氏の水軍となり 今川氏滅亡の後は 武田氏の水軍に加った。その後、徳川家康に仕える。

(3)志摩国国衆

志摩十三地頭:戦国時代、志摩国に割拠していた13の地頭家。
(小浜、安楽島、浦、千賀、的矢、三浦、甲賀、国府、九鬼、越賀、和具、田城、鳥羽)
志摩七党(相差(大差)、三浦(国符武田(甲賀和具(青山)、佐治(越賀)、浜島(浜嶋))

鳥羽氏
答志郡鳥羽を根拠とする土豪。
小浜氏
答志郡・志摩小浜城主
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出すと、破れて落ち延び武田信玄の家臣・土屋貞綱に仕える。
浦氏
答志郡・今浦城主。
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出すと、「今浦城の戦い」で当主・浦豊後守が討死。滅亡した。
安楽島氏
答志郡・安楽島城主。
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出し、「今浦城の戦い」で浦豊後守が討死すると、九鬼氏の軍門に下った。
相差氏(大差)(伊藤氏)
答志郡・相差城主。
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出し「今浦城の戦い」で浦豊後守が討死すると、九鬼氏の軍門に下った。
九鬼氏
英虞郡波切城主。
 九鬼氏の出自については藤原隆信が伊勢国佐倉に移住したのちに紀伊国九木浦に築城し、九鬼隆信を名乗ったとする説、熊野本宮大社の八庄司の一派が地名から九鬼を名乗ったとする説などがあり、明らかではない。
 熊野では思うように勢力が拡大できず、3代隆房の次男・九鬼隆良が波切村の川面家の養子となり、波切城城主になった(1362年 - 1366年頃)。
隆良は子に恵まれなかったため、和具(青山)氏から養子を迎え、波切九鬼2代目の隆基となった。
 隆次、泰隆、定隆と続き、定隆の長男・浄隆と次男・嘉隆が生まれた。
 熊野の宗家は隆房の後、隆良の兄・隆長、光長、政長と続く(政隆、浄隆、澄隆と続き、澄隆の異母弟・光隆が家督を継いだ。)。
 泰隆の代には田城城を築き、拠点を移す。
 1560年、北畠具教の援助を受けた、他の志摩十三地頭たちが田城城を攻撃。当主・浄隆は討ち死。浄隆の子、澄隆が家督を継ぎ、朝熊山に逃亡する。嘉隆は滝川一益を頼り、織田信長に仕官する。
 1568年、九鬼嘉隆は織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出す。小浜氏、浦氏を攻め滅ぼす。和具氏、越賀氏、的矢氏、甲賀氏は手を結んで九鬼氏に対抗した。
三浦氏
英虞郡・畔乗城主。
相模三浦氏の出身。安乗衆を率い、やがて、国府氏率いる国府州を吸収、国府城に拠点を移す。
九鬼氏が志摩を平定すると、九鬼氏に臣従することを良しとせず、織田信雄を頼って志摩国を離れた。
国府氏
英虞郡・国府城主。
三浦氏に吸収された。
田城氏
田城城主。
的矢氏
英虞郡的矢城主。
伊雑宮の神事を司る地位にあったが、1531年、九鬼隆次や三浦新助に攻め滅ぼされる。
千賀氏
英虞郡千賀城主
千賀氏は伊予国河野氏の支流であり、為重の代に志摩へと移住した。子・為親の代である1558年頃、九鬼氏に敗れ、知多半島の須佐(豊浜)に落延びると尾張国知多郡・大野城を根拠とする佐治為景に属す。
1560年、桶狭間の戦い前に松平元康に仕えた。家康の関東転封後には徳川御船手四人衆に任じられる。
甲賀氏(武田氏)
 
本姓は藤原氏。甲賀衆は北畠氏が伊勢国司となった頃(南北朝時代)より同氏に仕え、甲賀のほか鵜方・神明など2千数百石を領した。
戦国時代の頭領・甲賀雅楽(うた)は、武田信虎から武田姓を与えられ、武田左馬之助と名乗った。
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出すと、和具氏、越賀氏、的矢氏、甲賀氏は手を結んで九鬼氏に対抗した。しかし、やがては軍門に下った。1633年、三田藩に転封後も九鬼氏に仕えた。
和具氏(青山氏)
英虞郡和具城主。
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出すと、和具氏、越賀氏、的矢氏、甲賀氏は手を結んで九鬼氏に対抗した。しかし、やがては軍門に下った。1633年、三田藩に転封後も九鬼氏に仕えた。
越賀氏
英虞郡越賀城主
九鬼嘉隆が織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出すと、和具氏、越賀氏、的矢氏、甲賀氏は手を結んで九鬼氏に対抗した。しかし、やがては軍門に下った。1633年、三田藩に転封後も九鬼氏に仕えた。

小野田氏(浜島)
鵜方氏
英虞郡鵜方城主
御座氏
英虞郡御座城主
菅島氏
答志郡菅島城主
国崎氏
答志郡国崎城主

(4)大和国国衆

秋山氏
宇陀松山城主
沢氏
宇陀沢城主
芳野氏
吉野芳野城主

(5)紀伊国国衆

三鬼氏
 三鬼城主
鬼頭氏
赤羽氏

(6)北畠氏の重臣

鳥尾屋氏
福本城、飯高郡・富永城主
鳥屋尾氏は藤原北家御神本流の一つ三隅氏の支流を称している。南北朝時代、石見国における南朝総大将であった三隅家四代にあたる三隅兼連が鳥屋尾山(とやごう)に城を築き、三男の兼雄を配置した。兼雄が鳥屋尾氏の初代である。三隅兼連は弟・兼冬が築いた井村城の主も兼任していたために、子の一人の兼時を井村兼武の養子とした。井村兼時は鳥屋尾氏の家督を継ぎ同氏2代目に数えられる。兼雄の孫の正時と曾孫・正武は後亀山天皇の皇孫万寿寺宮を奉じて、吉野朝廷を仕えた。
水谷氏
飯高郡・立野城主
本田氏
飯高郡・船江城主
芝山氏
一志郡・多気城主
大宮氏
一志郡・阿坂城主
家城氏
一志郡・家城城主
日置氏
吉田氏
奥山氏
安保氏

長谷川氏
山崎氏①

山崎式部少輔
山崎氏②
山崎大炊助
石丸氏

(7)武将個別

[1]木造氏
 ①木造顕俊
 ②木造俊通
 ③木造俊康(北畠俊泰)
 ④木造持康
 ⑤木造教親
 ⑥木造政宗
 ⑦木造俊茂
  木造具康
 ⑧木造具政
  木造長政

木造顕俊
()
北畠顕能の子。
子に俊通、俊康、森本俊氏、坂内雅俊。

木造俊通
()
木造顕俊の子。

木造俊康(北畠俊泰)
()
木造顕俊の子。
子に持康、功徳院康玄。

木造持康
()
木造俊康の子。
子に教親。
叔父・北畠顕泰の養子として在京出仕したが、反幕行動をとる満雅と袂を分ち、帰家して木造家を継いだ。

木造教親
こづくり のりちか(1424-1468)
持康の子。
子に 親方、政宗、康親。

木造政宗
こづくり まさむね(1463-??)
教親の子。法号:宗威
子に 俊茂、女(木造師茂室)
木造家第六代当主。一志郡・木造城主。
1480年従五位下に叙爵し、侍従に任ぜられる。
1496年に川北城を築城。弟の康親にこれを守らせた。
娘婿・木造師茂を擁護したことから北畠材親の攻撃を受ける。
1503年に木造城が落城し、戸木城に移る。翌年、和睦。
1504年、参議を辞して出家

木造俊茂
こづくり とししげ(1495-1548?)
政宗の子。
子に具康。養子に具政(北畠晴具の三男)
木造家第七代当主。
1504年、父の出家に伴い、家督を相続。
1526年、参議兼左近衛中将として公卿に列す。
1528年から31年にかけて居城・木造城を改修。
1530年、従三位に叙せられた。
1533年に出家。

木造具康
こづくり ともやす(1520-? )
俊茂の子。
子に具次。
1537年、従四位下・左近衛中将に任ぜられる。
父・俊茂の手によって殺害されたとされる。

木造具政
こづくり ともまさ(1530-1584?)
北畠晴具の三男。木造俊茂の養子。
子に 長政、娘(織田信雄継室)、長雄
木造家第八代当主。
1554年、戸木城を築城。
1569年5月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄・具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった織田信雄の家老となる。
1584年、小牧・長久手の戦いでは戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結ぶと、城から退去した

木造長政
こづくり ながまさ(1554-1604)
具政の子。具康・長正・長忠.
はじめ伊勢の織田信雄に仕えた。1574年7月に侍大将として水軍を率いて伊勢長島攻めに従軍した。
1584年、主君の信雄に討たれた信雄家老の津川義冬の家臣団が松ヶ島城に籠城した際には、これを攻めている。
小牧・長久手の戦いにおいて主家が豊臣秀吉と和睦した後、居城の戸木城を廃城し、1586年に田辺城を築いて新たな居城とした。
1590年の小田原征伐ののち、主家である織田信雄が領地を没収されると、秀吉に召しだされ、織田秀信の家老として配され、2万5千石の知行を得た。
1600年の関ヶ原の戦いにおいては、美濃国岐阜を居城としていた秀信に東軍に与するように進言するが、これは容れられず秀信は西軍に与した。
戦後は、福島家に1万9千石で仕えた。
1604年、死去した。

木造雄利(滝川雄利)
()
若くして出家、源浄院主玄と名乗る。
1569年、織田信長の北畠家攻略戦に際し、信長の家臣・滝川一益の調略を受け、柘植三郎左衛門尉と共に当主の木造具政を織田方に寝返らせた。
一益は源浄院の才能を見出し、還俗させて滝川姓を与え、甥とした。
1578年、信雄(当時は信意)の命によって伊賀国に侵攻し、丸山城を修繕するが伊賀の国侍衆の反撃に遭い伊勢国へ敗走した(第一次天正伊賀の乱)。1581年の第二次天正伊賀の乱の際には主力とともに近江側から侵攻する信雄に代わり、伊勢衆の大将として加太口からの侵攻を受け持った。
伊賀国の制圧後、3郡を得た信雄によって雄利は伊賀国守護に任命され、丸山城に入って伊賀国を支配した

[2]大河内氏
大河内顕雅()権大納言。
②大河内親郷(-1495)左少将。
③大河内親忠()左中将。
④大河内頼房(1510-1557)権中納言。
⑤大河内具良(1535-1576)左少将。
 大河内教通()具良の子。相模守。大淀城主。

大河内顕雅
()
北畠顕泰の子。
正長の変で、北畠満雅が戦死すると、幼かった後継者・教具を補佐して国政にあたり、国司北畠家の立て直しに貢献した。

大河内親郷
(-1495)
北畠教具の子。

大河内親忠
()
北畠政郷の次男。大河内親郷の養子。
多気郡・大河内城主

大河内頼房(親泰)
(1510-1557)
北畠材親の三男。大河内親忠の養子。はじめは親泰、秀長。
子に星合具種、具良。
1526年、家督を継ぎ、大河内城主となる。

大河内具良
(?-1576)
頼房の次男。教通と同一人物?
三瀬の変で殺害される。

[3]坂内氏 
坂内雅俊()度会郡・坂内城主。木造顕俊の子
坂内具能()雅俊の子。
坂内房郷()北畠教具の三男。
坂内具種()大河内頼房の子。星合具種。具房→具種→具祐。右近将監
坂内具信(-1576)兵庫頭。具祐の子。具義。
坂内顕昌(-1576)具信の子。
坂内具泰()星合教賢の子。具種の養子。星合具泰。

[4]田丸氏 
①田丸顕晴(-1526) 度会郡・田丸城主。北畠政郷の四男。  
②田丸具忠() 顕晴の子。
③田丸直昌(1543-1609)具忠の子。
④田丸直茂()直昌の子。

田丸顕晴
(-1526)
北畠政郷の四男。
度会郡・田丸城主。
家臣である池山氏の謀叛に倒れる。

田丸具忠

田丸直昌
(1543-1609)
具忠の子。官位:中務大輔
正室:蒲生賢秀娘
子に直茂
織田信長の伊勢侵攻後、田丸城を明け渡して織田信雄に仕えた。
小牧・長久手の戦いの戦後、蒲生氏郷の妹婿である事から、蒲生氏の与力大名となった。
氏郷が会津に転封になると、直昌は須賀川城主として3万石を与えられる。
その後、三春城5万2,000石に加増されるが、後に守山城に移される。
氏郷が死去するとその子・秀行に従い、秀行が宇都宮に転封されると、直昌は秀吉に仕え、信濃国川中島の海津城主に封ぜられた。
1600年2月、森忠政と交換人事が行われ、美濃国岩村城4万石に移った。
関ヶ原の戦いでは西軍に与した。戦後、所領を失った。

[5]星合氏
①星合親泰()大河内頼房と同一人物。
②星合親能()大河内具種と同一人物。
星合教房(-1562)具種の長男。
星合教賢(-)具種の次男。
③星合具泰(1567-1639)教賢の子。星合城主。三代当主。

星合具種
(-1571)
星合親泰の子。親能
子に教房、藤方(教賢)、藤忠、藤勝、藤光
藤忠、藤勝、藤光はいずれも堀江氏を称した。

星合具泰
(-1639)
星合教賢の子。
母は北畠具教娘。
子に具枚、具通、詮安、専来、具堯。
室は 飯尾尚清養女(飯尾重宗娘)
星合城主。星合氏第四代当主。
伯父・星合教房が死去し、後継ぎとして祖父・星合具種に養育される。
1572年、具種が死去し、その跡を継いで大河内城へ移り住む。
1576年、三瀬の変で主君・北畠具教が織田信雄に暗殺されると、大和国吉野にて蟄居した。
その後、信雄の嫡男・織田秀雄に仕えた。
1595年に豊臣秀吉の命令によって秀雄の家老となり、靑江の刀を賜った。
1600年、関ケ原の戦い後、織田家は改易。

[6]岩内氏
①岩内鎮慶()多気郡・岩内城主。北畠材親の子。
②岩内国茂()鎮慶の子。
③岩内具俊(-1576) 光安とも。国茂の子。主膳正
④岩内光吉()具俊の子。

[7]藤方氏
藤方慶由(-1576) 安濃郡・藤方城主。
藤方朝成(1530-1597) 藤方慶由の子。具俊。小森上野城主
藤方安正(1571-1622) 朝成の子
小原国永(1505-1584)
小原具就()国永の子?

[8]波瀬氏 
 木造雅俊()
 波瀬具之(-) 一志郡・波瀬城主。蔵人。
 波瀬具祐(-1576)具之の長男。蔵人。
 波瀬具通(-1576) 具之の次男。
 波瀬雅通(-1576)具通の子。
 波瀬康親(-1576) 雅通の子。

[9]森本氏
 
森本俊重(俊氏)()木造顕俊の次男。代々飛騨守を名乗る
 
森本俊信(俊栄)()
 森本具俊(?-1584)俊信の子。
 森本俊貞()具俊の子

[B1]天花寺氏
天花寺広高()
天花寺小次郎()

[B2]野呂氏
野呂友景()
野呂正景(1536-1577)
野呂守景()正景の長男
野呂勝景()正景の三男
野呂左近将監()

野呂正景
()
室は北畠具教娘。

[B3]波多瀬氏
波多瀬実秀()
野呂源実(-1568)越前守
波多瀬(野呂)実高(-1568)野呂源実の長男。
波多瀬実光()野呂源実の五男。
波多瀬実徳(-1577)野呂実高の長男。
波多瀬実仲()野呂実高の二男。
波多瀬実重()野呂実高の三男。
六呂木氏
山副実有(-1577)野呂源実の二男。
六呂木実忠(-1577)野呂源実の三男。
六呂木義時()実忠の子。

野呂実高
(-1568)
越前守
北畠氏から離反した志摩水軍衆との戦いで討ち死。

波多瀬実徳
()
実高の長男。
織田信長が「本能寺の変」で討死すると、北畠家再興を目論む北畠具親が伊勢五箇篠山城で再挙した。実徳は叔父である山副実有・六呂木実忠と共に参加するも破れ、船江城で磔にされた。

[B4]玉井氏

[B5]舟木氏
舟木光経()光頼の長男
舟木光重()光頼の次男
舟木信光()光頼の三男
舟木頼尭()光頼の四男
舟木光春()光経の長男。()左馬助・左馬頭
舟木頼教()光経の二男
舟木光教()光経の三男
舟木光時()光経の四男
舟木光義()光経の五男
舟木頼信()光経の六男
舟木光長()光経の七男

[B6]愛洲氏
愛洲忠行()
五ヶ所教忠()

愛洲忠行
あいすただゆき()
伊勢神宮の神領奉行。

[B7]向井氏

①向井長宗(1359-1418)仁木義勝の子。仁木四郎
②向井長興(1380-?)長宗の子。中務大輔
向井長忠(1405-1452)長興の子。三郎修理亮
④向井
長春(1437-1490)長忠の子。三郎 式部大輔
⑤向井
長勝(1460-1502)長春の子。右衛門佐
⑥向井忠綱(1488-1553)長勝の子。三郎太郎 刑部大輔
⑦向井正重(1519-1579)
向井政勝(1538-1579)
向井正綱()

[B8]阿曽氏
阿曽弾正少弼

[B9]大内山氏
大内山但馬守

[B10]赤羽氏
赤羽新之丞

[B11]蔵田氏
蔵田行俊

[B12]潮田氏
潮田超助()

[C1]鳥屋尾氏
鳥屋尾茂康
鳥屋尾満栄()石見守

鳥屋尾満栄
とりやみつひで(1508-1577)
茂康の子。官位:石見守。
飯高郡・富永城主。晴具、具教に仕える。
智勇兼備の名将と言われ、伊勢国大湊の代官を歴任した。
北畠家四家老の筆頭
北畠具親が1577年に伊勢で挙兵すると、これに従い北畠遺臣を糾合して織田軍を迎え撃つも川俣の戦いで討死した。

[C2]水谷氏
水谷俊之()刑部少輔

水谷俊之
()
刑部少輔。
松尾立野城主。北畠家四家老のひとり。

[C3]本田氏
本田右衛門尉
本田美作守
本田親泰()左京亮

本田美作守
()
船江城主。

本田親泰
()
本田美作守の子。左京亮。
侍所奉行。

[C4]奥山氏
()
奥山知忠(-1576)

奥山知忠
侍所奉行。

[C5]芝山氏
芝山秀定 (-1576)出羽守。
芝山秀時() 秀定の子。

芝山秀定
()
出羽守
北畠政成の家老。

[C6]大宮氏
大宮含忍斎()
大宮景連(-1576)一志郡・阿坂城主。
大宮吉守()通称:主膳

大宮含忍斎
()
一志郡・阿坂城主。

[C7]家城氏
家城之清(?-1577)

家城之清
いえきゆききよ(?-1577)
一志郡・家城城主。晴具、具教、具房に仕える。侍大将。
垂水鷺山の戦いにおいて、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊らと共に奮戦し勇名を轟かせた。
北畠具親が1577年に伊勢で挙兵すると、これに呼応するが川俣の戦いで討死した。

[C8]豊田氏

[C9]日置氏
日置大膳亮

日置大膳亮
()
寺社奉行。

[C10]吉田氏
吉田兼房(-1595)
吉田兼宗()

[C11]安保氏
安保式部少輔
安保大蔵大夫
安保若狭守
安保直親()大蔵少輔

[C12]長谷川氏
長谷川藤直()
長谷川重吉()藤直の子
長谷川藤広()藤直の子
長谷川藤継()藤直の子

長谷川藤直
(1522-1581)
進藤義俊の子。通称:三郎左衛門
子に、重吉、藤広、奈津(清雲院)、藤継。
娘・奈津(清雲院)は徳川家康の側室となった。

【13】山崎氏
山崎大炊亮

【14】片穂氏
片穂久長

【15】大嶋讃岐守

【16】石丸氏
石丸有次
石丸有定

[D]志摩十三地頭

[D1]九鬼氏
九鬼隆長()宗家4代当主。
九鬼光長()隆長の子。宗家5代当主。
九鬼政長()光長の子。宗家6代当主。

九鬼隆良()波切九鬼氏初代当主。
九鬼隆基()波切九鬼氏二代当主。
九鬼隆次()波切九鬼氏三代当主。
九鬼泰隆()隆次の子。波切九鬼氏四代当主。
九鬼定隆()泰隆の子。波切九鬼氏五代当主。
九鬼重隆()泰隆の子。
九鬼浄隆(-1560)九鬼定隆の子。
九鬼澄隆(-1584)九鬼浄隆の子。
九鬼嘉隆(1542-1600)九鬼定隆の子。
九鬼光隆()九鬼定隆の子。

九鬼泰隆
くきやすたか()
隆次の子。北畠材親勢に属して勢力を拡大した。

九鬼定隆

九鬼浄隆
くききよたか(-1560)
九鬼定隆の子。
子に澄隆。
九鬼氏9代当主。
1551年、父の病死に際し、家督を承継する。
北畠具教と結んだ志摩七党と争った。
1560年、病没。

九鬼澄隆
くきすみたか(-1584)
九鬼浄隆の子。通称弥五郎。
九鬼氏10代当主。英虞郡・波切城主、答志郡・田城主。
1560年、父の病死に際し、家督を承継する。
幼少のために叔父九鬼嘉隆の補佐を受けた。
志摩七党の攻撃を受け、九鬼嘉隆とともに朝熊岳に落延びた。
その後、織田信長に仕え、1568年、北畠具教を撃ち破り、田城を奪還した。

[D2]鳥羽氏(橘氏)
鳥羽成忠(監物)
鳥羽宗忠(主水)成忠の子
[D3]小浜氏
小浜真宗(久太郎、将監)()
小浜景隆(1540-1597)真宗の子。民部少輔。
小浜光隆()景隆の子
小浜嘉隆(1600-1664)光隆の長男
小浜直隆()嘉隆の二男
[D4]安楽島氏(荒島氏)
安楽島越中守(左門)
[D5]浦氏
浦豊後守(-1569)
[D6]田城氏(加茂氏)
田城左馬之助
[D7]千賀氏
千賀為重(志摩守)
千賀為親()為重の長男
千賀親久()為重の二男
千賀重親()為親の養子
千賀信親()重親の子

千賀為重
()
伊予出身であった千賀氏は為重の代に志摩に移り住んだ。

千賀為親
()
為重の長男。
1558年頃、九鬼氏に敗れ、知多半島の須佐(豊浜)に落延びて佐治為景に属した。

千賀親久
()
為重の二男。
今川義元に仕える。

千賀重親
()
佐治為貞の子。千賀為親の養子。
養子に信親(林秀貞の子)。
佐治家の陣代を務めた。
1560年、桶狭間の戦い前に松平元康に仕えた。
豊臣秀吉により家康が関東に転封されると、小浜景隆、向井正綱、間宮信高と共に徳川御船手四人衆に任じられ三崎に配備されて1000石を得た。

千賀信親()
林秀貞の子。重親の養子。
子に千賀貞信。

[D8]的矢氏
的矢美作守(-1531)
伊雑宮の神宮を務める。九鬼隆次、三浦新助に攻められ自刃。
[D9]三浦氏
三浦新助
[D10]国府氏
国府内膳正
[D11]甲賀氏(武田氏)
甲賀宗能
甲賀雅楽介
[D12]和具氏(青山氏)
青山豊前守
[D13]越賀氏(佐治氏)
越賀隆俊(玄蕃允)
越賀隆政(隼人)隆俊の子
越賀隆春(隼人)隆政の子
[D14]伊藤氏(相差)
伊藤兵部
[D15]小野田氏(浜島)
小野田筑後守

鵜方氏 英虞郡鵜方城主
鵜方縫殿介
御座氏 御座城主
御座源四郎
菅島氏 答志郡菅島砦主
菅島能登守
国崎氏 答志郡国崎城主
国崎嘉十郎

[2]長野工藤氏

長野氏は、藤原南家乙麿流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の2郡を給わり、その子・祐政が長野に拠して長野氏を名乗ったのが始まりである。
南北朝時代には長野氏は北朝方にくみして、南朝の北畠氏と伊勢の覇権を争った。

①長野祐政
②長野祐藤
③祐房(友房)
④藤房
⑤豊藤
⑥経藤
⑦義藤
⑧満藤()北畠満雅の乱で活躍。一志郡を得る。1429頃
⑨持藤
⑩政藤
⑪藤継(1449-1486)持藤の子。
⑫藤直(1450-1514)
⑬通藤(1478-1530)
⑭稙藤(1504-1562)
⑮藤定(1526-1562)
⑯具藤(1552-1576)
⑰信包

(1)長野満藤
幕府軍として北畠満雅の乱を鎮圧、満雅を安濃郡岩田川で敗死に追い込んでいる(岩田川の戦い)。

(2)長野持藤

(3)長野政藤
()
持藤の子。

(4)長野藤継
(1449-1486)
持藤の子。政高。官位:左衛門佐
長野工藤氏11代当主。
1462年、兄で政藤が早世したため、家督を継ぐ。
1467年、応仁の乱では東軍に属し、10月の相国寺の戦いでは、安富元綱、雲林院らと共に相国寺に立て篭もり東門を守る。
1468年2月、伊勢守護に任じられた東軍の土岐政康が入国するとこれに従い、北畠教具が侵攻してくると土岐氏と協力して北畠家と戦った。
北畠家が東軍となると西軍の美濃国守護・土岐成頼と同盟する。
1473年10月11日、藤継の要請で斎藤利国が美濃から伊勢桑名郡に侵攻、大井田城等を攻め、石丸利光が大将となって東軍勢が篭る梅戸城を落とした。
1479年、北勢に進出した北畠政郷に大勝する。
1486年、細川政元による正親町三条公治邸焼き討ちに巻き込まれて死去。

(5)長野藤直
(1450-1514)
持藤の五男。
子に 通藤。
長野工藤氏12代当主。
1486年、兄・藤継が死去したため、家督を継ぐ。
伊勢国における勢力を拡大するために積極的な遠征を行い、1510年に桑名を占領した。桑名衆は逃散という手段で対抗した。伊勢湾内の水運が機能不全となったことから、神宮が仲介斡旋をはかり、1512年に長野氏は桑名から
撤退した 。
1514年、死去。

(5)長野通藤
(1478-1530)
藤直の子。
子に稙藤。
1514年、父が死去したため、家督を継ぐ。

(6)長野稙藤
(1504-1562)
通藤の子
子に藤定、雲林院祐基、細野藤光。
長野工藤氏14代当主。
10代将軍・足利義稙から偏諱を受けて稙藤と名乗る。
1530年、父が死去したため、家督を継ぐ。
1536年、梅戸氏が桑名に侵攻すると、長野氏は本願寺の顕如に対し自らの桑名支配の正当性を長島の願証寺が支持するよう書状で求めるなどして対抗し、桑名は梅戸氏と長野氏とが分割統治するになった。
長野氏は、1538年に、再び桑名に侵攻したが、梅戸氏との分割統治は維持さ
れた 。
1540年に、六角氏の北伊勢侵攻があり 、長野氏は桑名から撤退し、桑名は六
角氏の影響下におかれることになった。
1558年、北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。
1562年、藤定と同日に死亡。暗殺の可能性が高い。

(7)長野藤定
(1526-1562)
稙藤の子。官位:大和守
子に 藤勝、女(織田信包正室)
長野工藤氏15代当主。
父より早くから家督を譲られて、父と共同統治を行なっていた
1543年、細野氏・分部氏を主力に北畠家の支配する南伊勢に侵攻し、迎撃してきた北畠晴具と争ったが、決着は着かなかった(垂水鷺山の戦い)。
1558年、北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。
1562年、藤定と同日に死亡。暗殺の可能性が高い。

(8)長野具藤
(1552-1576)
北畠具教の次男。長野藤定の養子。
1558年、父の命によって第15代当主・長野藤定の養子として送り込まれる。
1559年、赤堀氏や関氏などを攻めたが、いずれも敗北した。
1568年、尾張国の織田信長が伊勢に侵攻して来ると、抗戦派で長野氏一族の細野藤敦と対立して内紛が発生し、具藤は藤敦に敗れて多芸城に逃亡した。これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、1569年には信長に降伏し、信長の弟・信包を長野氏の当主として迎えたため、具藤は当主としての地位を失った。
1576年、三瀬の変で殺害される。

(9)長野信包(織田信包)

[2-2]長野氏家臣

(1)長野氏庶流

雲林院氏
長野氏二代当主・祐藤の二男・雲林院祐高を祖とする。奄芸郡・雲林院を拠点とする。
細野氏
長野氏二代当主・祐藤の三男・細野祐宗を祖とする。安濃郡・細野城から安濃郡・安濃城に拠点を移した。
分部氏
長野氏二代当主・祐藤の子・高景の孫・分部光直を祖とする。安濃郡・分部を拠点とする。
家所氏
長野氏四代当主・藤房の子・三河守祐歳を祖とする。安濃郡・家所を拠点とする。
草生氏
長野氏五代当主・豊藤の子を祖とする。
川北氏
長野氏六代当主・経藤の子・川北藤照を祖とする。奄芸郡・川北を拠点とする。
中尾氏

(2)武将個別

[一]雲林院氏
 ①
雲林院祐高()長野氏二代当主・祐藤の二男。播磨守
 ②雲林院祐顕()播磨守
 ③雲林院祐氏()右京大夫
 ④雲林院持行()兵部大輔
 ⑤雲林院教祐()播磨守
 ⑥雲林院光晴()修理大夫
 ⑦雲林院祐清()播磨守
 ⑧雲林院稙清()中務大輔
 ⑨雲林院祐基(?‐?)奄芸郡・雲林院城主。長野稙藤の次男。出羽守。
 ⑩雲林院祐光(?‐?)祐基の子。兵部大輔

雲林院祐基
うじい すけもと(?-?)
長野稙藤の子。官位:出羽守
雲林院城主。
1568年2月に長野工藤氏が信長の実弟・織田信包を養子に迎えることになると、祐基はそれに臣従する。その後信包と対立し、1580年、居城・雲林院城を奪われて追放された。

雲林院祐光
(?‐?)
祐基の子。兵部大輔
正室は滝川一益娘。

[二]細野氏

細野氏
 ①細野祐宗()氏祖。長野氏二代当主・祐藤の三男
 細野祐永()掃部亮・佐衛門佐
  〇
 細野藤信()長野氏五代当主・豊藤の子
  〇
 細野藤光(1511-1560)安濃郡・津城主。長野稙藤の次男。
 細野藤敦(1541-1603)藤光の子。

細野藤光
(1511-1560)
長野稙藤の二男(生年があわない?弟?)。
子に 藤敦、分部光嘉、川北藤元。
長野氏十四代当主・稙藤の子で、分家である細野家を継いだ。
安濃城を築城し、細野城から居城を移した。

細野藤敦
(1541-1603)
藤光の子。通称:九郎右衛門。
剛勇を以て知られる。
和睦を主張する弟・分部光嘉らの反対を押し切って、自城に籠って防戦しようとした。光嘉や川北藤元らは織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせることを画策した。具藤に讒言して、藤敦を攻めさせた。藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
 しかし藤敦は信包とも折り合いが悪く、1577年に信包が年賀の挨拶に出かけた隙に、謀反を起こし長野城を奪うが、滝川一益の子・八麿を藤敦の養嗣子とすることで和睦し、帰参した。
 1580年、信包の軍勢に安濃城を攻められると、藤敦は城を捨てて蒲生氏郷を頼る。後に豊臣秀吉の家臣となった。
 1598年には伏見城松ノ丸の守将となり、秀吉側室の松丸殿の家司を務めたが、秀吉の死後に松丸殿は兄・京極高次の居城である大津城に移る。
 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、戦後失領した。

[三]分部氏
  
工藤高景
 ①分部光直(-)安濃郡・分部城主。通称:掃部助、若狭守
 ②分部光定(光久)(1489-1564)光直の長男。
 ③分部光恒(1508-1549)光直の次男。
 ④分部光高(1527-1569 )光恒の長男。
 ⑤
分部光嘉(1552-1601)細野藤光の次男。光高の養子
 ⑥分部光勝(1571-1599) 光嘉の長男
 ⑦分部光信(1591-1643)光嘉の養子(長野正勝の子)。左京亮。

分部光定
()
分部光直の長男。四郎次郎、民部丞、左京亮、若狭守。
正室:峯道正の娘。
子に光宗。

分部光宗
()
分部光定の長男

分部光恒
(1508-1549)
分部光定の次男。与三左衛門尉。官位:左京亮。
正室:豊島言溥の娘。
子に光高

分部光高
(1527-1569 )
光恒の長男。四郎次郎官位:左京亮、若狭守。
養子に分部光嘉。
四郎次郎

分部光嘉
 
(1552-1601)
 細野藤光の子。分部光高の養子。別名:四郎次郎。官位:左京亮
 正室は分部光恒の娘。
 子に光勝、女(長野正勝室)、女(渡辺久勝室)。養子に光信。
 織田信包に仕える。伊勢上野城主。
 1595年、秀吉から伊勢国飯野郡・度会郡・一志郡内で3000石を与えられ、独立大名となる。
 関ヶ原の戦いの際には東軍に属し、安濃津城の戦いで功績を挙げ、伊勢上野藩2万石の大名となった。

分部光勝
(1571-1599)
光嘉の長男。織田信長没後には馬廻衆として羽柴秀吉に仕えた。

分部光信
 (1591-1643)
 長野正勝の子。分部光嘉の養子。
 母は分部光嘉の娘
 正室は渡辺久勝の娘。
 子に嘉治ほか
 
伊勢国上野藩2代藩主。近江国大溝藩初代藩主。
 1599年、分部光嘉の嫡男の光勝が死去。光信が養嗣子となる。
 1601年、養父・光嘉が病没。家督を継ぐ。

[四]家所氏
 家所祐蔵(-)三河守  1362
 家所祐房(-)飛騨守
 家所祐長(-)弾正
 家所祐則(-)玄蕃
 家所祐友(-)刑部 1492
 家所祐藤(-)三河守
 家所藤實(-)祐藤の子。隼人正
 家所藤安(-1572)藤實の子。三河守

家所祐藤
いえどこすけとう()
三河守。
子に藤實
安芸郡家所城主。

家所藤實
()
祐藤の子。隼人正。

家所藤安
(-1572)
藤實の子。三河守。

[五]草生氏
 
草生大和守()
 草生式部少輔()
 草生越前守()
 草生民部少輔()

[六]川北氏
 ①川北藤照
()長野氏六代当主・経藤の子。
  〇
 川北藤元
()細野藤光の子。

川北藤元
()
細野藤光の子。官位:内匠助
1569年に織田信長の侵攻を受けると、長野家当主である長野具藤を追放するのに貢献した。その後は信包の家臣として行動する。

[7]中尾氏
中尾駿河守()

[8]乙部氏
乙部藤政()三重郡渋見城主。三重郡・渋見城を築城。
乙部政直(-1569)
乙部正次()政直の三男。進藤姓に改姓する。

乙部政直
(-1569)
源次郎。官位:勘解由

[3]関氏

伊勢平氏維衡の末裔とされる鎌倉時代の得宗被官である関実忠が伊勢国鈴鹿郡関谷を賜り、関氏を称したのが初代と伝わる。北条氏滅亡後、元弘3年(1333年)に実忠6世の孫盛政が関東から関谷に移り住み、関一党の基礎を築いた。盛政には五人の子があり、長男・盛澄を神戸に、次男・盛門を国府城に、三男・盛繁に亀山城を継がせ、四男・盛宗を鹿伏兎城に、五男・政実を峯城に、それぞれ配して勢力を伸ばした。

①盛政()
 盛繁()
 隆盛()
 盛雅()1399「応永の乱」、1420「北畠満雅の乱」北畠方
 盛元()応仁の乱・相国寺の戦い
 盛昭()
 盛貞()
 種盛(1465-1524)民部大輔。
 盛雄(1490-1549)下野守。
 盛信(?-1593)安芸守
 一政 (1564-1625) 盛信の子。長門守

(1)関盛政

()
盛治の子。
弟に盛経・盛利・盛仲。
子に盛澄、国府二郎盛門、亀山三郎盛繁、鹿伏兎四郎盛宗、峯五郎政実

(1-2)関盛澄
()
関盛政の長男。
子に盛信・隆盛・神戸実重。

(1-3)関盛信
()
神戸盛澄の長男。官位:豊前守。
子に信政・盛光。

(2)盛繁

()
盛政の三男。


(3)隆盛

()
盛澄の二男。

(4)関盛雅(信政)

(-1465頃?)
関盛信 (豊前守) の子。持盛?
子に盛元。

(5)関盛元

(-1473頃?)
盛雅の子。官位:治部少輔、豊前守
子に盛昭、盛貞、俊盛
1429年。北畠氏の働きかけにより、旧領土を回復する。

(6)関盛昭

盛元の長男。官位:

(7)関盛貞

(-1527頃)
盛元の二男。何似斎。官位:民部大輔。
1473年頃、父盛元から家督を譲られる。
1505年に正法寺を建立。

(7-2)関俊盛
子に種盛、盛祥。

(8)関種盛

(1465-1524)
俊盛の子。
子に盛雄、盛重。

(9)関盛雄

(1490-1549)
種盛の子。

(10)関盛信

(1515頃??-1593)
盛雄の子?。法号:万鉄、官位:中務大輔、安芸守。
妻は蒲生定秀の娘。
子に 一政、盛吉、盛忠、一利、氏俊。
伊勢亀山城主。 六角義賢、義治に仕える。
織田信長が伊勢に侵攻してくると、神戸氏等一族が降る中、独立を保っていたが、やがて降伏した。
1573年、信長から勘当を申し付けられ、蒲生賢秀に身柄を預けられた。
1582年、神戸信孝(織田信孝)が四国征伐の大将となると、信孝に属した。
信長死後は信孝を離れ、羽柴秀吉の家臣となる。
1583年の賤ヶ岳の戦いの際は居城、亀山城を滝川一益に落とされたが後に奪還し、戦後、亀山城主として蒲生氏郷の与力大名となった。
1593年、死去。

(11)関一政

(1564-1625)
盛信の次男。官位:長門守。
1583年頃、父から家督を譲られ、蒲生氏郷の与力大名となった。
九州征伐や小田原征伐に参加し、1591年の九戸政実討伐で功績を挙げたため、陸奥白河城5万石を与えられた。
1598年、信濃国飯山3万石へ移封
1600年、美濃国多良へ移封
関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張国犬山城を守備したが、後に東軍に寝返り、井伊直政隊に属して功を挙げた。
1611年、伯耆米子藩の中村一忠が無嗣断絶で改易されたため、その後を受けて伯耆黒坂5万石に移封。
1618年、家中内紛のため改易。養子の氏盛(弟・盛吉の長男)が近江蒲生で5,000石を与えられたため、家名存続は許された。
1625年、死去。

(12)一族

関盛重
()
種盛の子。

関盛光
()

関盛員
()

関盛吉
(?-?)
盛信の子
子に氏盛、大河内重綱正室
当初、柴田勝豊に1,000石で仕える。
後に蒲生氏郷に仕えた。
猪苗代城の城代となって7,000石を領した。
氏郷の死後はその子・秀行に仕えたが、秀行が減封されると、兄・一政の配下となった。
一政が改易されると土井利勝の食客となった。

関盛忠
(?-1574)
盛信の子
信長の属将・蒲生賢秀に従って長島の一向一揆討伐に参加し、討ち死。

関一利
(?ー?)
盛信の子。
柴田勝豊に仕えて越前国丸岡城にて1000石を与えられた。
父と共に、蒲生氏郷に仕え、葛西大崎一揆や九戸政実の乱鎮圧の功労によって6000石が与えられる。
関ヶ原の戦い後、蒲生秀行が復帰すると、7500石が与えられて猪苗代城に入ったが、1609年、同僚の岡重政と対立して出奔、兄・一政を頼った。
1613年、岡重政が徳川家康の怒りを買って自害を命じられると、蒲生氏に復帰して再び7500石を与えられる。
蒲生忠郷の死後に、弟の蒲生忠知が伊予松山藩へ減転封された後もこれに従って4500石を与えられる。
福西宗長と共に蒲生郷喜と争い、江戸幕府による裁決の結果、追放処分になったという(寛永蒲生騒動)。

関氏俊
()
盛信の子

関氏盛
(-1674)
盛吉の子、一政の養子
妻は本多正純の養女
子に 長盛、大河内重綱正室、横田由松室
養父・一政が改易されると近江国蒲生郡で5,000石が与えられ、寄合に列する。

[3-2]関氏家臣

(1)関氏庶流

神戸氏
 
初代・関盛政の長男・盛澄が河芸郡・神戸を拠点とし、神戸氏を称したことに始まる。早くから北畠家の影響下に置かれた。
国府氏
 
初代・関盛政の次男・二郎盛門が国府を拠点とし、国府氏を称したことに始まる。
鹿伏兎氏
 
初代・関盛政の四男・盛宗が鈴鹿郡・鹿伏兎を拠点とし、鹿伏兎氏を称したことに始まる。
 定孝の代、宗家とともに細川勝元の東軍に与した。
 定長の代、1536年に亀山城主関盛信に従い、関軍の先鋒となって奄芸郡に進攻して林城主・林重越を安濃郡に駆逐した。
峯氏
 
初代・関盛政の五男・政実が峯を拠点とし、峯氏を称したことに始まる。
 鈴鹿郡峯城主。
伊勢高島氏
 
近江国・佐々木氏一族・高島氏の庶流。

(2)国衆

山路氏
 高岡城主
 
神戸氏の家臣。神戸家六奉行の一。

佐藤氏
 
岸岡城主
 
神戸氏の家臣。神戸家六奉行の一。佐藤中務丞

平田氏
 河曲郡・平田城主
 1434年、比叡山山法師撃退の功績により将軍足利義教より伊勢の国奄芸、鈴鹿、三重郡にわたる所領を授けられ開善寺に築城。
 4代目平田直隣が1467年、天下の乱れを見て、城を開善寺より鈴鹿川南岸の枚田郷平田に移し、鈴鹿川から水を引き水田開発を行うため新たな城を築いた。これが平田城である。

坂氏
 
鹿伏兎氏の家臣

(3)家臣

[一]神戸氏
 ①
関盛澄()初代当主。
 ②神戸実重()二代当主。
 ③
神戸為盛()三代当主。
 ④
神戸楽三具盛(-1551)四代当主。河曲郡神戸城主。
 ⑤神戸長盛()五代当主。
 ⑥神戸利盛(-1559)六代当主。
 ⑦神戸具盛(友盛)(-1600)七代当主。下総守
  ※四代当主との混同を避けるため友盛と呼ばれることが多い。
 ⑧神戸良政()高島政勝の子。友盛の養子。『勢州軍記』の著者。

①関盛澄
関盛政の子。
子に関盛信・関隆盛・実重。

②神戸実重
()
神戸氏二代当主。
盛澄の三男。
1423年、北畠満雅の命により神戸龍光寺の普請奉行となった。

③神戸為盛
()
実重の子。
室は北畠教具の娘。

④神戸楽三具盛
(-1551)
北畠材親の次男。神戸為盛の養子。
子に神戸長盛、神戸具氏、高島政光、娘(楠氏室)、娘(山路紀伊守室)。
神戸氏第4代当主。

⑤神戸長盛
(-1552)
子に利盛、具盛(友盛)、織田信包室

⑥神戸利盛
(-1559)
長盛の長男。
1552年、父が病没し、家督を継ぐ。

⑦神戸具盛(友盛)
(-1600)
長盛の二男。官位:下総守。
四代当主との混同を避けるため友盛と呼ばれることが多い。
妻は蒲生定秀の娘。
子に鈴与姫(織田信孝正室)。養子に織田信孝。
1559年、兄・利盛が23歳で急死したため、還俗して家督を継いだ。
当時、神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属していたが、具盛が当主となると関氏当主・関盛信との関係を修復し、さらに盛信と共に六角氏重臣の日野城城主・蒲生定秀の娘を娶り、神戸氏の勢力の回復を図った。
1568年9月、信長が六角氏を攻略した際、義兄・蒲生賢秀を説得し、降伏させた。
1571年1月、信長により、蒲生賢秀に預けられた。
1582年、信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、友盛は許されて神戸城近くの沢城を隠居所とした。

神戸利盛

[二]国府氏
 ①
盛門()1333頃
 ②
勝門()
 ③勝盛()
 ④勝清()1433
 ⑤勝直()
 ⑥盛直()
 ⑦国府盛邑()鈴鹿郡・国府城主。7代当主。
 ⑧国府盛種(1540-1589)盛邑の子。8代当主。

 国府盛種
(1540-1589)
盛邑の子。次郎四郎。
国府氏8代当主。1584年、「小牧、長久手の戦い」では、織田信雄勢に属して、羽柴秀吉勢と戦った。羽柴秀吉方の蒲生氏郷の攻撃を受け落城した。 

[三]鹿伏兎氏
 ①盛宗()初代当主。
 ②定俊()2代当主。
 ③忠賀()3代当主。
 ④忠業()4代当主。右京亮
 ⑤
定孝()5代当主。宮内少輔
 ⑥定則()6代当主。上総介
 ⑦定好()7代当主。宮内少輔
 ⑧定長(?-?)定好の長男。鹿伏兎(加太)城主。近江守。
 鹿伏兎定住()定好の次男。
 鹿伏兎宗心(-1570)定長の長男。定秀。豊前守
 鹿伏兎定義()定長の次男。
 鹿伏兎定保()定長の三男。
 鹿伏兎定和()定住の長男
 鹿伏兎盛氏()宗心の長男。
 鹿伏兎定基()定義の長男。
 鹿伏兎貞俊()定義の二男。
 鹿伏兎定保()定義の長男。
 鹿伏兎定能()定和の長男。

鹿伏兎定長
(?-?)
官位:左京佐
子に宗心、定義、定保。
鈴鹿郡鹿伏兎城主。関盛信の家臣。
1538年、三男の定保を伴って奄芸郡東部を平定した。
1567年、信長による北伊勢侵攻では関盛信、関盛重らと共に信長に抵抗した。後に降伏。

鹿伏兎宗心
(-1570)
定長の子。豊前守
子に盛氏。
鈴鹿郡鹿伏兎城主。
1570年、姉川の戦いにおいて浅井勢に属した。佐々成政や酒井忠次らと戦い敗れ、討死。

鹿伏兎定義
()
定長の次男。
「本能寺の変」後、織田信孝勢に属した。

[四]峯氏
①峯政実()初代当主
②長門守
③主水佐()1400頃?
④但馬守()
⑤大和守()
⑥峯盛憲()1500頃?
⑦峯盛定()
 峯安政(-1550)
⑧峯広政(-1573)安政の弟。
⑨峯盛祐(1553-1574)広政の長男。八郎四郎
 峯盛治(1566-1584)広政の次男。与八郎

峯盛定
()
1539年、一生吹山の戦いで小林重則を討つ。

峯安政

峯広政
(?-1573)
1550年、兄・安政の討死により、峯家の家督を相続した。
織田信長の「北伊勢侵攻」に屈服、織田(神戸)信孝に属した。

峯盛祐
(?-1574)
八郎四郎。
長島の一向一揆討伐に参加し、討ち死。

峯盛治
(?-1584)
与八郎。

[五]伊勢高島氏
 高島政光()神戸楽三の子
 高島政勝()政光の子
 高島政房()

[6]山路氏
 山路紀伊守()
 山路正幽()
 山路弾正(-1572)正幽の長男。河曲郡・高岡城主
 山路正国(1546-1583)正幽の次男。将監
 山路(長尾)種常(1550-1619)正幽の三男。別名:長尾一勝。

山路正幽
()
正室は神戸具盛の娘。

山路種常
(?-1572)
山路正幽の長男。弾正
父・正幽と共に神戸具盛に仕えて、河曲郡・高岡城に拠る。
1567年と1568年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けるも頑強に抵抗した。
1572年、信孝が神戸家の家督を継いだ。弾正はこれに激しく抗議したが、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれた。

山路正国
(1546-1583)
山路正幽の次男
はじめ神戸具盛の家臣。
1567年、神戸氏は織田信長に降伏。
柴田勝家に仕え、清洲会議後、近江国長浜城主となった勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは、病気のために出陣できない勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦したが、佐久間盛政の調略を受けて柴田方に寝返った。
盛政と共に羽柴軍に奇襲をかけて一時は成功したものの、秀吉の反撃を受けて佐久間軍は壊滅し、正国も討ち取られた。

山路種常/長尾一勝
(1550-1619)
別名:長尾一勝
はじめ神戸具盛に仕えた。
その後、浪人して福島正則に仕えた。

[7]佐藤氏
 
佐藤中務()鈴鹿郡岸岡城主
 佐藤又三郎()

[8]平田氏
 
平田義国()
 
平田直隣()4代目当主。
 
平田賢元(-1568)8代目当主。
 平田元綱()賢元の子。

[9]坂氏
 
坂定住

【4】土岐世保家

土岐世保(よやす)家は土岐氏宗家であり、土岐康行の乱により没落後、康行が赦され伊勢守護に再任されたことに始まる。

①土岐康行(在1391 - 1392、1400 - 1404)
②土岐康政(?-1418;在1404 - 1424)
③土岐持頼(?-1440;在1428 - 1440)
④土岐政康

(1)土岐康政

(?-1418;在1404-1418)
康行の子。
子に持頼。
土岐世保家の第2代当主。

(2)土岐持頼

(?-1440;在1428 - 1440)
康政の子。
子に政康、東陽英朝。
土岐世保家の第3代当主。
北畠 満雅の乱では幕府軍を率い、戦後、北畠氏の旧領、飯高郡を与えられる。
最期は義教の密命を受けた長野満藤や草生大和・中尾民部・雲林院らその一族などに三輪にて攻撃を受け包囲されて、又従兄弟の島田満清(島田満貞の孫)らとともに自害して果てた。

(3)土岐政康

(?-?;在1467-1471)
持頼の子。
土岐世保家の第4代当主。
応仁の乱では東軍に所属。
1471年に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、北畠教具の子の北畠政郷に交替させられた。

【5】伊勢仁木氏

仁木義長
①満長(在:1389 - 1391、不明 - 1396)
②満将(満持)
③教将
④成将
⑤貞長( - 1487)
⑥高長

(1)仁木満長

(在:1389 - 1391)
仁木義長の子。
伊勢仁木氏初代、伊勢守護。
土岐康行の乱後、土岐康行が伊勢国守護職を没収されると、伊勢守護職に任命される。
1396年7月、足利義満の寵臣で山城国守護を務める結城満藤により、満長は伊勢守護職を奪われ、庶兄・義員が還俗して守護職に就くことになった。
 満長は京都で反乱を計画し、管領斯波義将らの調停により、満長は京都を退去し、出家遁世した。満長遁世事件は、諸大名による結城満藤弾劾のきっかけともなった。

(2)仁木貞長

(-1487)
通称:次郎四郎。幼名:千代菊。
子に高長、利長、高将
室町幕府外様衆、伊勢守護。
長享・延徳の乱で戦死。

(3)仁木高長

()
通称:次郎四郎。幼名:千代菊。官位:右馬助
子に晴国、晴定。養子に義政( 六角氏綱の子)
1487年、父が鈎の陣で討死したため、5歳で家督を相続。

【6】一色氏

一色教親(在:1440 - 1451)
一色義直(在:1451 - 1467)
一色義春(在:1477 - 1484)
一色義直(在:1484 - 1491)
一色義秀(在:不明 - 1498)

(2)守護代・石河氏

石河道悟()一色義直の頃の守護代、1458、1463年に記録アリ
石河直清()1480年、一色義春の守護代として伊勢に入る

石河直清
()
1479年に一色義春が伊勢守護に任じられると、翌1980年4月に守護代となり伊勢国に下向した。
1484年に一色義春が没すると丹後国に帰還した。

【7】北勢四十八家

北勢四十八家は、伊勢国北部の北伊勢地域に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体である。全部で53の家系があり、48より多い。

  1. 関氏(鈴鹿郡:亀山城・鹿伏兎城、峯城、関城、国府城)

  2. 長野氏(長野城)

  3. 千種氏(三重郡:千種城)(北方一揆)

  4. 赤堀氏、浜田氏(田原氏)(三重郡:赤堀城・羽津城・中野城・浜田城)

  5. 楠氏(楠城)(北方一揆)

  6. 稲生氏(稲生城)

  7. 矢田氏(走井城)(桑名衆)

  8. 田丸氏

  9. 後藤氏(宇野部城・別所城・糖田城)

  10. 佐脇(沢木)氏(柿城)(十カ所人数)

  11. 大矢知氏(大矢知城)(北方一揆)

  12. 片岡氏(上深谷城・堺村城)

  13. 水谷氏(大鳥井城)(桑名衆)

  14. 栗田氏(縄生城)

  15. 高井氏(小山城)

  16. 小串氏(猪飼城)(北方一揆)

  17. 草薙氏(御衣野城)

  18. 横瀬氏(広永城)(十カ所人数)

  19. 江見氏

  20. 毛利氏(桑部城)

  21. 富永氏(長深城)(十カ所人数)

  22. 保々氏(保々城)

  23. 多湖氏(上笠田城・下笠田城)(北方一揆)

  24. 治田氏(治田城)(北方一揆)

  25. 片山氏(上木城)(北方一揆)

  26. 西野氏(野尻城)

  27. 野村氏(島田城)

  28. 小阪氏(梅戸城)

  29. 近藤氏(白瀬城・深谷部北狭間城)

  30. 安藤氏(深谷部柳が島城)

  31. 西松氏(柚井城)

  32. 森氏(中江城)

  33. 南部氏(富田城)(十カ所人数)

  34. 朝倉氏(茂福城)(十カ所人数)

  35. 松岡氏(上井城・城井戸城・金井城)

  36. 種村氏(大泉金井城)

  37. 春日部氏(伊坂城・星川城・萱生城)

  38. 伊藤氏(桑名城・長島城・松ヶ島城)(桑名衆)

  39. 海老名氏(十カ所人数)

  40. 疋田氏(十カ所人数)

  41. 樋口氏(桑名衆)

【1】千種氏(ちぐさ)
 千種氏は北勢四十八家の一つで、伊勢国三重郡千種城を拠点とした一族。
 六条有忠の子忠顕を家祖とする。

【2】伊勢赤堀氏
 赤堀氏は田原籐太藤原秀郷の裔と伝えられ、足利俊綱の子・足利又太郎忠綱の流れという。忠綱は「治承の役」の際の功により上野国赤堀荘を賜わった。そして、忠綱の弟・泰綱の玄孫孫太郎教綱が赤堀氏を称したことに始まる。1353年に赤堀三郎左衛門が上野国赤堀郷貢石馬村、伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されている。
 1392年、田原景信が伊勢へ移り国司に仕えて三重郡栗原に赤堀城を築いたのが伊勢赤堀氏の始まりとなる。
 長男・盛宗を朝明郡・羽津、三男・忠秀を浜田を置き、二男・秀宗が赤堀城を継承した。こうして浜田家(嫡流)・羽津氏・赤堀家の赤堀三家に別れ、連合する。北勢四十八家の一つ。

【3】伊勢楠氏
 三重郡楠城の城主となった氏族は2つあり、最初に城主となったのが俗に楠(くす)氏と呼ばれる伊勢諏訪氏(後に伊勢中島氏)で、その後任で城主となったのが俗に楠(くすのき)氏と書かれる伊勢楠木氏である。
 三重郡・楠城主。

【4】稲生氏
 
奄芸郡・稲生城主。物部守屋の末裔の和田兼通の子孫。


【6】後藤氏
  
三重郡采女城主。

【6】後藤氏
  三重郡宇野部城・桑名郡別所城・桑名郡糖田城。
  三重郡宇野部:後藤民部実重が当主。
  桑名郡別所城:後藤弥五郎が当主。
  桑名郡糖田城:後藤太郎左衛門が当主。

【7】沼木氏
 朝明郡柿城主。
 1557年に小倉河内守の攻撃で滅亡した。
 沼木宗治()神戸氏家臣。

【8】片岡氏
  桑名郡上深谷城主。桑名郡堺村城主。
  片岡掃部郎が当主。



【10】栗田氏
  員弁郡縄生城主。伊勢氏綱の一族。
  栗田季重(-1577)が当主。

【11】高井氏
  員弁郡小山城主。
  高井民部少輔が当主。

【12】草薙氏
  桑名郡御衣野城主。
  草薙出雲守が当主。

【13】江見氏
  江見藤七郎が当主。

【14】毛利氏
  員弁郡桑部城主。
  毛利次郎左衛門が当主。

【15】保々氏
  員弁郡及び朝明郡の保々城主。
  保々越前守が当主。

【16】西野氏
  員弁郡野尻城主。
  西野左馬助が当主。1577年縄生城の戦いで戦死。

【17】野村氏
  員弁郡島田城主。近江佐々木氏の末裔。
  野村兵庫助が当主。

【18】小阪氏
 桑名郡梅戸城主。
 小阪源九郎政吉が当主。

【19】近藤氏
員弁郡白瀬城主、桑名郡・深谷部北狭間城主。古田城主・近藤義晃は同族。
足利氏に仕えた近藤弾正左衛門光義が白瀬城を、弟の近藤三郎兵衛義孝が古田城を築城したといい、義晃は義孝から八代目にあたるという。
15614月25日に治田城主・治田山城守の夜襲を受けて吉綱は討死して白瀬城は落城、義晃も討死して古田城も落城した。吉綱の子・勘解由左衛門は京都の泉涌寺に落ち延び、その後桑名郡深谷村字奥條にある泉涌寺の末寺・阿弥陀寺を頼って同地に居住し、江間家より養子を迎えて子孫は江間氏を称した。近藤清左衛門の子孫は後に員弁郡本郷村の庄屋を務めた。
員弁郡白瀬城:近藤吉綱が当主。
桑名郡深谷部北狭間城:近藤左京進、近藤右京亮教恵。
古田城主:近藤義晃

【20】安藤氏
桑名郡深谷部柳が島城主。
安藤左京進が当主。

【21】西松氏
桑名郡・柚井城主。

【22】森氏
桑名郡中江城主。
森小一郎、その子・森清十郎が当主

【23】松岡氏
員弁郡上井城主。
松岡家政()
松岡家勝()彦之進。春日部氏家臣

【24】種村氏
員弁郡大泉金井城主。
当主の種村弾正左衛門尉が当主。長島で戦死。


[A]伊勢六人衆

【1】春日部氏
 
春日部氏は桓武平氏(伊勢平氏)の平正度を祖に持つ進士家資(富田家資)の子孫の春日部詮義が伊勢国朝明郡を所領したのが始まりである。一族の一部は国衙の関係者として武蔵国にも移り住んだ(大井氏、紀姓春日部氏)。伊勢春日部氏は北畠氏に仕え、神戸氏、関氏ら有力氏族と共に、北勢四十八家の一部勢力の伊勢の六人衆と呼ばれた。朝明郡萱生城、朝明郡伊坂城、員弁郡・星川城等を築城・居城とし勢力を拡大した。
朝明郡伊坂城:春日部太郎左衛門が当主。
員弁郡星川城:春日部若狭守が当主。

[D]三重郡の豪族

[D1]千種氏
 千種治庸()常陸介。1503頃の人物
 千種忠治(‐1563) 三重郡・千種城主。常陸介
 千種忠基() 後藤賢豊の子、千種忠治の養子
 千種顕理(‐1615)千種忠基の養子

[D2]赤堀氏
 景信()
 景宗(秀宗)()景信の二男。1428年家督継承
 〇
 
赤堀具氏()神戸具盛の次男。治部少輔。
 赤堀景治(-1568) 三重郡赤堀城主。四代当主。

[D3]田原氏(浜田赤堀家)
 忠秀()景信の三男。1470頃築城
 田原藤綱()三重郡浜田城主。二代目当主。紀伊守
 田原元綱(‐1576) 三代当主。遠江守
 田原重綱(‐1584)四代当主。元綱の子。与右衛門。

[D4]田原氏(羽津赤堀家)
 盛宗()景信の長男。
 羽津宗久()
 羽津宗善()
 羽津宗慶()
 田原宗昌()
 田原近宗(-1572) 朝明郡羽津城主。羽津赤堀家当主。別名:赤堀国虎。
 羽津宗武()

[D5]後藤氏(釆女後藤氏
 
後藤基久
 後藤方綱()
 後藤匡基(1516-1584)但馬守
 後藤藤勝(1544-)淡路守。滝川一益の与力となる。
 後藤忠基(-1584)二郎丸。加賀井城で戦死。

[D6]後藤氏(宇野部後藤氏
 
後藤実重()三重郡宇野部城主。民部。
 後藤弥五郎()桑名郡別所城主。
 後藤太郎左衛門()桑名郡糠田城主。

[五]伊勢楠木氏
 楠木正顯()初代当主。
 楠木正威(在1412‐1443)楠城4代城主。正顯の三男。
 正重(初代)第ニ代当主。正顯の長男。刀工・初代千子正重
 楠木(川俣)正重(在1443‐1486)第三代当主。城代。刀工・二代千子正重
 正重(三代目)()第四代当主。
 川俣正充(在1486‐1532)第五代当主。楠城五代城主。正威の子・正富の子。正重(三代目)の養子。
 楠木(川俣)正忠(1498‐1574;在1532‐1571)第六代当主。正充の子。楠木復姓の勅免を得る。別名:川俣忠盛、楠木貞孝
 楠木正具(1516‐1576;在1571‐1576) 第七代当主。
 楠木正盛(1569‐1584;在1576‐1584) 第八代当主。


[]稲生氏
 稲生兼顕(?‐1570)

[七]栗田氏
 栗田季重(?‐1577) 員弁郡・縄生城主


[九]春日部氏
春日部詮義
春日部宗方
春日部義資
春日部俊家(?‐1573) 朝明郡・萱生城主。

【7ー2】北方一揆

室町幕府の畿内近国の幕府の本拠地の周辺の国々の中小領主である一般御家人を一揆として組織した奉公衆。

  1. 梅戸氏:北方一揆の有力者。員弁郡

  2. 大木氏:六角氏の被官。大木智観

  3. 田能村氏:六角氏の被官。朝明郡のリーダー。田能村盛仲、田能村仲実

  4. 大矢知氏:守護被官。小守護代。朝明郡・大矢知城主。

  5. 長松氏: 守護被官。朝明郡別名。

  6. 後藤氏:

  7. 多湖氏:員弁郡上笠田城・下笠田城主。

  8. 片山氏:員弁郡阿下喜城主(上木城)。

  9. 小串氏:員弁郡猪飼城主。長島一向一揆に参加。

  10. 深矢部氏

  11. 治田氏:員弁郡治田城主。楠氏の一族。

  12. 楠氏:幕府奉公衆。楠城。信長の第一次北勢征伐に唯一抵抗して滅亡。

  13. 千草氏:幕府奉公衆。千種城。

  14. 浜田氏:幕府奉公衆。浜田城。赤堀氏の一族。

【1】梅戸氏
 
梅戸三河入道道雄()
 
梅戸高行()
 大石(梅戸)長実()
 梅戸貞実()
 梅戸道雄()
 梅戸高実(-1561)六角高頼の四男
 梅戸高宗(-1554) 高実の長男
 梅戸実秀(-1568)高実の二男
 梅戸高資()高実の三男
 梅戸光高()高実の養子(土岐政房の子)。

梅戸実秀
(-1568)
高実の二男。左衛門尉。
1561年、父は病没すると、家督を相続する。
1568年、「田光城の戦い」で滝川一益と戦い討ち死。


大矢知氏
 
大矢知正房()
 
大矢知遠江守()後に柴田勝家に仕える。
多湖氏
 
多胡実久()
 
多湖実元(1550-1590)大蔵介
片山氏
 
員弁郡・阿下喜城主
 
千葉氏の末裔とされ、室町時代には足利家に奉公衆として仕えた。
 1540年に田能村(種村)氏・治田氏と合戦。 片山大和守信保の長男・平蔵は若年にして病死、次男の範者は永禄年中に滝川一益と交戦して阿下喜城で討死、三男の五兵衛は阿下喜五兵衛と称して織田信雄及び池田家に仕え、末子の四郎左衛門は片山氏滅亡後に下福崎村に逃れて手習をして亡くなったと伝えられる。
  片山信保()大和守
 片山範者()
小串氏
 
小串詮行
 
小串詮通
 
小串常政(-1577)
 次郎右衛門。1577年、縄生城の戦いで戦死した。
治田氏
 菅原道真の後裔で近江国甲賀郡の城主・美濃部一学の子孫である美濃部九郎右衛門尉が員弁郡治田郷へ移り代々領主となり、治田山城守は十三世であるとされる。 室町時代には奉公衆として足利家に仕える。1540年には田能村(種村)氏と共に阿下喜城主・片山氏と合戦に及んでいる。
 1561年4月25日、山城守は父の代から争っていた近藤吉綱の居城である白瀬城を夜襲し、吉綱を討ち取っている 。永禄年中に滝川一益によって滅ぼされ、山城守は紀州根来寺へ逃れたと伝承される

【7-3】十カ所人数

十ヶ所とは、朝明郡にある荘園:茂福御厨・柿散在・長井国方・弘永・露野・福永・徳光半分・宇津尾・太子堂の意味であり、朝倉氏を中心とする幕府奉公衆を「十ヶ所人数」(朝倉氏・海老名氏・佐脇氏・疋田氏・富永氏・横瀬氏・南部氏)という。

【1】朝倉(茂福)氏
 桓武平氏、平維茂の子孫の平貞冬が、1400年前後に越前国朝倉より朝明郡・茂福へ来て茂福城を築き、朝倉氏を名乗ったことに始まる。
 康正年間(1455-1457年)、一族と思われる朝倉詮真が保々西城とその支城である市場城を築城する。

【2】南部氏
 1446年、南部三郎行直の子と伝わる南部修理大夫頼村が、信濃国野沢庄より移住して朝明郡・富田城を築いた。頼村は最初は室町幕府に仕え、その後は伊勢の国司の北畠家に服属した。

【3】海老名氏
相模国高座郡の海老名を本貫とする。

【4】疋田氏
三河国を本貫とする。

【5】横瀬家
朝明郡・広永城主。
横瀬勝五郎が当主。

【6】富永氏
員弁郡・長深城主。
三河国設楽郡の富永保を本貫とする。
富永筑後守が当主。

【7】佐脇氏
朝明郡・柿城主。
三河国宝飯郡の佐脇を本貫とする。

(1)朝倉氏
朝倉盈盛()持福城主。下野守
朝倉盈豊()掃部助
朝倉詮真()保々西城主。備前守

(2)南部氏
南部頼宗()
南部頼武()
南部頼連()
南部兼綱()
忠次()甲斐守
忠明()甚八郎

(3)富永氏
富春()筑後守
富継()
富輝()

【7-4】桑名衆

【1】伊藤氏
桑名郡桑名城主、桑名郡松が島城主。
桑名郡桑名城:伊藤武右衛門が当主。1570年、一向一揆との戦いで討ち死。
桑名郡松が島城:伊藤四郎重晴が当主。

【2】矢田氏
桑名郡走井城主。
矢田市郎右衛門尉が当主。

【3】樋口氏

【4】水谷氏
  桑名郡大鳥井城主。
  水谷與三兵衛が当主。

[5]太田氏

[6]内山氏

[7]森氏

【8】織豊時代の伊勢

神戸氏
 1570年、具盛を隠居させ、織田信孝が家督を継ぐ。
 河曲郡・鈴鹿郡の2郡、約5万石
 与力:関・峯・国府・鹿伏兎氏
 幸田彦右衛門、岡本太郎右衛門・坂仙斎・三宅権右衛門・坂口縫殿助・山下三右衛門・末松吉左衛門

【9】城郭・古戦場・地理(伊勢)

(1)員弁郡

梅戸城
員弁郡(山城)いなべ市大安町門前(旧大安町)
大井田城
員弁郡(平山城)いなべ市大安町大井田(旧大安町)
栗田左衛門佐あるいはその家老因入道道信が城主であったと伝わる。
因道信は栗田左近大夫高実、栗田左衛門尉実秀二代の家老を務め、1568年、織田信長の北伊勢侵攻によって主家滅亡の際に討死したと伝えられる。
上笠田城
員弁郡(平山城)いなべ市員弁町上笠田(旧員弁町)
建武年間(1334〜1338年)に多湖大蔵允によって築かれた。
織田信長の北伊勢侵攻の頃、城主は飯田左衛門尉で、織田勢に滅ぼされたという。
下笠田城
員弁郡(平山城)いなべ市員弁町下笠田(旧員弁町)
建武年間(1334〜1338年)に多湖大蔵允によって築かれた。1510年頃には、伊勢国司北畠氏に属する。
1567年、織田氏の北伊勢侵攻の際に城主である多湖大蔵介橘実元が降伏、織田氏の支配下となる。
大泉金井城
員弁郡()いなべ市員弁町北金井(旧員弁町)
佐々木家の一統六角高盛の子孫である種村大蔵太夫高盛が、1505年に築いたとされる。
野尻城

員弁郡()いなべ市藤原町西野尻(旧藤原町)
白瀬城
員弁郡()いなべ市藤原町本郷(旧藤原町)
近藤氏の居城
阿下喜城(上木城)
員弁郡()いなべ市北勢町阿下喜(旧北勢町)
南北朝の頃、片山信保が伊勢国司北畠氏に属し、阿下喜村の領主となった。
治田城
員弁郡(山城)いなべ市北勢町麓村(旧北勢町)
治田氏の居城。
田辺城
員弁郡(山城)いなべ市北勢町田辺(旧北勢町)
1586年、木造長政が織田信雄より1万貫余を宛行われ、築城したことに始まる。
長深城
員弁郡()東員町長深
暦応年間(1338-1342)に冨永筑後守富春が築城。
猪飼城
員弁郡()桑名市多度町北猪飼(旧多度町)
小串詮行が元弘建武(1331-36)の頃から居住し、以後6代続いた。1578、詮通の代に滅んだ。
小山城
員弁郡()桑名市多度町小山中ノ谷(旧多度町)
永禄年間(1558-1569年)に高井民部少輔が居城。1567年、織田信長の伊勢侵攻の時に落城。
柚井城
員弁郡()桑名市多度町柚井(旧多度町)
桑部城
員弁郡()桑名市城山台
毛利次郎左衛門の桑部北城、大儀須若狭守の桑部南城に別れる。
星川城
()桑名市星川
島田城
()桑名市島田

’(2)桑名郡

伊勢長島城
桑名郡(平城)桑名市長島町西外面

桑名城
桑名郡()桑名市吉之丸

矢田城
()
桑名市矢田

堺城
桑名郡()桑名市上深谷字南山下

三砂城
桑名郡()桑名市上深谷字堂ノ前

北廻城
桑名郡() 桑名市下深谷字北廻

山ノ城城
桑名郡()桑名市下深谷字山ノ城

柳ヶ島城
桑名郡()桑名市下深谷

(3)朝明郡

田光城
()三重郡菰野町田光字城山
八風街道に立地する。田光隼人が築城、田光氏はやがて梅戸氏と改姓した。茂福城
朝明郡()四日市市茂福町字里の内
保々西城

朝明郡()四日市市西村町字城下
八風街道が通る要衝に立地。朝明河左岸の半島状に突き出た丘陵にある。伊勢神宮内宮の荘園を管理する領主の集まりである「十カ所人数」の一人、朝倉氏の城。
市場城
朝明郡() 四日市市市場町字的場
朝明河右岸の丘陵地帯にある。朝倉氏の支城。
萱生城
朝明郡()四日市市萱生町字城山
伊坂城
朝明郡()四日市市伊坂町字古屋敷
富田城
朝明郡(平城)
南部氏の居城。1204年の三日平氏の乱の際に伊勢平氏の一党である進士三郎基度が、富田六郷の東西富田の地に築いた居館とされる。その後1446年、南部三郎行直の子と伝わる南部修理大夫頼村が、信濃国野沢庄より当地に移住して富田城を築いた。頼村は最初は室町幕府に仕え、その後は伊勢の国司の北畠家に服属した。
千種城
朝明郡()菰野町千草字城山
北朝時代に千種顕経によって築かれた。
千種氏は千種忠顕が南朝方として活躍し、三重郡二十四郷を与えられ禅林寺城を居城としていた。忠顕の子・顕経の時に千種城を築いて禅林寺城から移ったと伝えられる。
永徳年間(1381年〜1384年)の当主・千草顕季の時には北伊勢四十八家の棟梁として一千騎を率いていた。
1555年、近江国佐々木六角氏が北伊勢に侵攻すると、千種氏は後藤但馬守賢豊の弟を養子に迎え和睦して千種三郎左衛門と称した。以後六角氏の北伊勢侵攻の拠点となった。
羽津城
朝明郡()四日市市羽津山町
大矢知城
朝明郡()四日市市大矢知町
柿城
朝明郡()三重郡朝日町柿字城ノ広
1360年、周防国の佐脇宗喜が伊勢国守護仁木義長に属して、その子宗政が築いたとされる。1557年、近江国六角氏家臣小倉三河守が伊勢に侵攻し、千種勢とともに柿城を取り囲んだ。

(4)三重郡

赤堀城
三重郡()四日市市城東町
浜田城
三重郡()四日市市鵜の森
采女城
三重郡()
1187年、後藤基清によって築城された。
楠城

三重郡()四日市市楠町本郷

(5)鈴鹿郡

伊勢亀山城(粉蝶城)
鈴鹿郡(平城)
1265年、関実忠によって築城された。
関五家の宗家の居城となる。
1590年、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城。

国府城
鈴鹿郡()

鹿伏兎城(加太城)
鈴鹿郡()
1367年頃に鹿伏兎盛宗によって築かれた。
伊勢国関から、伊賀国柘植に向かう街道沿いにある。

峯城
[峯盛祐(-1574)/岡本良勝/滝川益重/佐久間正勝]
鈴鹿郡(平山城)
正平年間(1346年 - 1370年)関盛忠の五男・峯政実によって築かれた。
1574年、峯盛祐が長島一向一揆で討死すると弟・与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
1583年、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で滝川一益の家臣滝川益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて益重は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
1590年、岡本良勝が亀山城に移されるにあたり廃城にされた。

(6)河曲郡

神戸城
河曲郡()鈴鹿市神戸本多町

伊勢高岡城
河曲郡()鈴鹿市高岡町
神戸城主・神戸友盛の家老・山路弾正によって修繕されたとされる。
1567年と1568年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しなかった。

岸岡城
河曲郡()鈴鹿市岸岡町字雲雀山

平田城
河曲郡()鈴鹿市平田本町


(7)奄芸郡
雲林院城
家所城
川北城

伊勢上野城
奄芸郡()
1570年、織田信包が津城(安濃津城)の仮城として分部光嘉に築城させた。
1580年、津城の完成により、信包が居城を移したため、分部光嘉が城代となり、1594年に信包が近江へ改易になると、光嘉が城主に任ぜられる。
1619年、光嘉の養嗣子光信は近江国大溝藩へ移封となったため、廃城となった

(8)安濃郡

津城(安濃津城)
安濃郡()
永禄年間(1558年 - 1569年)に、長野氏の一族の細野藤光が安濃・岩田の両河川の三角州に小規模な安濃津城を構えた。
1568年、織田信長の伊勢侵攻により織田掃部頭(津田一安)が入城。
翌年には織田信包が入城した。信包は城郭を拡充し、石垣を普請し堀を巡らせて、本丸・二の丸・三の丸を整備した。1577年には五重天守と小天守を落成した。

長野城
安濃郡(山城)
伊賀道に面した交通の要衝にある。
工藤祐藤によって1274年に築城され、1346年に北畠氏に攻められて落城した。1352年に再び工藤氏が入っている。1360年には室町幕府に反乱した仁木義長が逃げこみ、追討軍に対して2年以上籠城を続けた。
長野氏の養子となった織田信包は1570年に上野城を居城としたため、長野城は廃城された。

藤方城
安濃郡



分部城
草生城

(9)一志郡

霧山城多気城)
一志郡()

木造城
一志郡()

小森上野城

戸木城

波瀬城
一志郡()

星合城
一志郡()

家城城
一志郡()

星合城
一志郡()

阿坂城(白米城・高城)
一志郡()

曽原城

八田城

細頸城

(10)飯高郡

大河内城
飯高郡()

松坂城

坂内城
飯高郡()

富永城
飯高郡()

船江城

天花寺城

(11)飯野郡

(12)多気郡

岩内城
多気郡()

波多瀬城
多気郡()

五箇篠山城
多気郡()

六呂木城

(13)度会郡

田丸城(玉丸城)
度会郡()
南北朝時代に南朝方の拠点として北畠親房、北畠顕信によって築かれた。
愛洲忠行が北畠政郷(政勝)の子・顕晴を養子にして田丸城を継がせたともいわれる。

大内山城

伊勢路城
度会郡()
城主は下村掃部。

中根城
神山城

(3)地理

八風街道

【8ー2】城郭・古戦場・地理(志摩)

 
鳥羽城

志摩小浜城

田城城

波切城

越賀城

千賀城

五カ所城

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?