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戦国!室町時代・国巡り(3)伊勢・志摩編

【0】はじめに

伊勢国:石高56万7000石(1598年)
志摩、尾張、美濃、近江、伊賀、大和、紀伊に接する。

北勢 鈴鹿郡/安濃郡/奄芸郡/河曲郡/三重郡/朝明郡/員弁郡/桑名郡
南勢 一志郡/飯高郡/飯野郡/多気郡/度会郡

志摩国:石高 1万8000石(1598年)
英虞郡/答志郡

(2)年表

1351年 観応の擾乱
1352年 男山合戦
1392年 明徳の和約
1399年 応永の乱。
1414年・1428年、北畠満雅の乱
1441年 嘉吉の乱
1467年 応仁の乱
1486年 宇治山田合戦
1543年 垂水鷺山の戦い
1559年 塩浜合戦
1559年 茂福合戦
三瀬の変
1577年 北畠具親の挙兵

【1】北畠氏

北畠氏は村上源氏・中院家の家祖通方の子、雅家が洛北の北畠に移ったことから「北畠」を称したことに始まる。
鎌倉時代末期の北畠親房は、後醍醐天皇の建武の新政を支え、後醍醐没後には南朝の軍事的指導者となり、南朝の正統性を示す『神皇正統記』を記した。親房の長男北畠顕家は、父とともに義良親王(後の後村上天皇)を奉じて奥州鎮定に赴き、建武政権から離反した足利尊氏を京都から追い、次弟の北畠顕信とともに南朝勢力として足利方と戦った。
親房の三男北畠顕能は伊勢国司となり、以後の北畠家宗家は伊勢を拠点とした。

 北畠親房
①北畠顕信(1320?-1380?;在1336-1338)伊勢国司初代。
②北畠顕能(1326?-1383?;在1338-1383)伊勢国司2代。伊勢北畠家初代
③北畠顕泰(1361-1414;在1383-1402)伊勢国司3代。
④北畠満雅(?-1429;在1402-1429)伊勢国司4代。
⑤北畠教具(1423-1471;在1441-1471)伊勢国司5代。伊勢国守護
⑥北畠政郷(?-1508;在1471‐1486)伊勢国司6代。伊勢国守護
⑦北畠材親(1468-1518;在1486)伊勢国司7代。伊勢国守護
⑧北畠晴具(1503-1563;在1511‐1553)伊勢国司8代。
⑨北畠具教(1528-1576;在1553‐1563)伊勢国司9代。
⑩北畠具房(1547-1580;在1563‐1575)伊勢国司10代。
⑪北畠具豊(織田信雄)(;在1575)伊勢国司11代。

(0)北畠親房

()
子に顕家、顕信、顕能、女(後村上天皇女御)、女(護良親王室)、女(冷泉持定室)

(1)北畠顕信

(1320?-1380?)
北畠親房の次男。通称:春日少将。
子に信親、守親、親統。
南北朝時代の公卿で、北畠顕家の弟。
1336年に伊勢国において挙兵し、後醍醐天皇を援助に与し、伊勢国司に任官される。
1338年、兄の死後、鎮守府将軍に任命され、陸奥国に赴こうとするが暴風にあって頓挫。
翌1339年、再び陸奥に向かい、国府多賀城の攻略を試みる。一時占領するが、北朝方の反撃を受け失敗する。霊山城を拠点にする。
1347年、霊山城が落城。滴石城に退いたのち出羽国に退却する。
1351年、観応の擾乱の影響により奥州管領同士の争いが起こると南朝側は勢いを盛り返し、11月広瀬川の戦いで北朝軍を総崩れにし、多賀城奪還に成功する。
翌1352年、吉良貞家により多賀城を追われる。宇津峰城に移るが、1353年、落城。出羽国へ逃れる。
その後は吉野に帰還して右大臣を務めたとも、九州で懐良親王を補佐したとも、津軽で浪岡氏の祖となったともいう

(2)北畠顕能

(1326?-1383?)
北畠親房の三男。
子に 木造顕俊、顕泰。
伊勢国司2代。伊勢北畠家初代。
1338年閏7月、伊勢守に叙任される。同年9月東国に向けて出航した親房・顕信の委任を受け、玉丸城に本拠を置く。
1339年8月、伊勢守護高師秋が神山城を攻撃。
1342年8月、玉丸城が陥落、一志郡多気へ退居。
1347年秋、河内の楠木正行と連携し、南朝勢の回復を図るも、翌年正行が死亡。
1351年、観応の擾乱に乗じ、勢力を回復。
1352年、男山合戦で南朝方が敗北。多気に帰り、再起を窺う。
1353年2月、大和宇陀郡に進出。
1355年5月、伊賀に侵入
1360年2月、足利義詮・畠山国清が行宮に来攻するが、これを撃退
1371年6月、安濃郡に出陣して土岐康行を破り、同郡を領する。
1372年3月、朝明郡に出陣して仁木義長を破り、同郡を領する。
1383年7月、没

(3)北畠顕泰

(1361-1414;在1383-1402)
顕能の二男。
子に 満泰、満雅、大河内顕雅。養子に木造俊康。
伊勢国司3代。多気を拠点とする。
1392年、明徳の和約。だが、北畠氏は講和を受諾せず、抵抗を続ける。
1393年、伊勢鈴鹿郡で土岐康政と交戦してこれを破る。その後、旧領を安堵されると幕府に帰順(将軍:足利義満)。
1394年上洛し、伊勢国司の地位と伊勢南半国(度会・多気・一志・飯高・飯野郡)の遵行権を承認される。
1399年11月の応永の乱に参戦。山名時熙とともに大内義弘軍と戦い、長男・満泰が討死。義満から軍功を賞されて伊賀半国と近江甲賀郡を賜る。
1402年、この頃、満雅に家督を譲る。

(4)北畠満雅

(?-1429;在1402-1429)
顕泰の次男。
子に教具。
伊勢国司4代。
1414年、明徳の和約の履行を求め、伊勢で挙兵。大和宇陀郡の沢氏・秋山氏といった国人らが味方した。
満雅は幕府方の城や足利方についた北畠一族の木造俊康の坂内城を攻め落とし、坂内雅俊を木造城に、実弟・顕雅を大河内城に入れ、玉丸城・多気城・坂内城にも一族を配し、自身は阿坂城に入った。
 1415年4月、第4代将軍足利義持は、土岐持益を大将とし伊勢に侵攻、阿坂城まで迫る。しかし、攻め落とすことができず、8月に後亀山法皇の仲介のもとに和睦した。
 1428年7月、称光天皇が崩御して持明院統の嫡流が断絶すると、足利義教は、持明院統の伏見宮家から後花園天皇を立てた。後亀山法皇の孫・小倉宮は満雅を頼り、満雅はこの当時幕府と対立していた満雅は鎌倉公方・足利持氏と連合し、小倉宮を推戴して反乱を起こした。
1429年、北畠勢は雲出川の戦いにおいて伊勢守護・土岐持頼(世保家)率いる幕府軍を大破・敗走させる。
しかし、同年、岩田川の戦いにおいて、満雅は伊勢阿濃郡岩田川で長野満藤・仁木持長・一色義貫らと戦い、討ち死にした。
 北畠家は一志郡・飯高郡を失い、それぞれ長野満藤、土岐持頼に与えられた。

(5)北畠教具

(1423-1471;在1441-1471)
満雅の子。官位:正二位。権大納言。
子に 政郷(政具)、大河内親郷
伊勢国司5代。伊勢国守護。
父が戦死し、家督を継ぐが7歳とまだ幼少であった為、叔父の大河内顕雅が政務を代行した。
1441年、19歳で伊勢国司となる。
1448年に長野氏と所領を巡り合戦を行う。
1467年、応仁の乱では北畠家は東軍についた。
1471年、病により死去。

(6)北畠政郷

きたばたけ まささと(?-1508;在1471‐1486)
教具の子。初名:政具。法号:無外逸方。
子に 材親(具方)、大河内親忠、星合親泰、田丸顕晴、木造師茂、孝縁
伊勢国司6代。伊勢国守護。
1471年、父・北畠教具の死により家督を相続し北畠家当主となる。伊勢守護に任命される。
1479年、新たに一色義春が守護に任命され、安濃郡の国人・長野氏(長野政高)との抗争が再燃。
1486年、出家し、材親に家督を譲る。

(7)北畠材親

(1468-1518;在1486-1511)
北畠政具の長男。官位:正三位・権大納言
子に晴具、神戸具盛、大河内頼房(親忠養子)、星合具種
伊勢国司7代。伊勢国守護。
1486年、父の出家により、家督を継ぐ。
1486年、宇治山田合戦。
1511年、隠居。
1518年、死去。

(8)北畠晴具

(1503-1563;在1511-1553)
材親の嫡男。初名:親平、後に具国。法号:天祐。
正室:細川高国の娘。
子に 具教、田丸具忠?、木造具政、具親。
伊勢国司8代。
晴具は文武両道の名将で、弓馬の達人で和歌・連歌・茶道をよくし、能書家でもあった。伊勢北畠氏の最盛期を作り出す。
1511年、父から家督を譲られる。
1518年、第12代将軍・足利義晴から偏諱を受けて晴具に改名。
1529年、足利義晴・細川高国が三好元長・柳本賢治に敗北して、近江朽木谷へ逃亡。高国は娘婿の晴具に援軍を要請するため伊勢へ下向した。
1534年1月、山田三方に出兵。
1536年、出家して「天祐」を名乗る。
志摩の鳥羽城を攻撃して支配下に収める。志摩国全土を支配下に置く。
大和にも進出して吉野郡と宇陀郡を制圧
紀伊へも進出して、熊野地方から尾鷲・新宮方面までを領有化、十津川まで支配領域を広げた。
1543年、長野藤定が南伊勢に侵攻すると、晴具は垂水鷺山に出陣、合戦となった(垂水鷺山の戦い)。
1553年、隠居。
1563年9月、死去。

(9)北畠具教

(1528-1576;在1553-1563)
晴具の長男。法号:天覚、不智斎
正室:北の方(六角定頼の娘)
子に具房、長野具藤、親成、雪姫(織田信雄正室)、女(不破直光室)、女(津川義冬室)、徳松丸、亀松丸、女(野呂正景室)
伊勢国司9代。
1553年、父から家督を譲られる。
1555年、伊勢国・安濃郡を支配していた長野工藤氏と戦う
1558年、次男・具藤を長野工藤氏の養嗣子とする有利な和睦を結ぶ
1560年、小浜景隆ら志摩国の国人達を援助して九鬼氏の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼす
1563年、父の晴具が死ぬと喪に服して家督を譲って隠居する。
1569年8月、信長自ら北畠領内への侵攻を開始。
大河内城に籠城して死守するも、50余日の抵抗の末降伏(大河内城の戦い)
信長の次男・茶筅丸(のちの織田信雄)を具房の養嗣子として迎え入れることとなる
1570年5月、出家して天覚、更に不智斎と号す。
1572年3月、西上作戦の途上であった武田信玄の陣に鳥屋尾満栄を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結ぶ
1576年11月25日:三瀬の変。信長と信雄の命を受けた旧臣の襲撃を受け、一族・家臣ともども殺害される(子の徳松丸・亀松丸、および家臣の大橋長時・松田之信・上杉頼義ら共々殺害)。享年49。

(10)北畠具房

(1547-1580;在1563‐1575)
具教の嫡男。
伊勢国司10代。
1563年、父・具教の隠居により家督相続。
1576年11月、三瀬の変。具房は身柄を滝川一益に預けられ、3年間幽閉された。
幽閉が解かれ、名を信雅に改めた。
1580年、死去

(11)北畠具豊(織田信雄)


(12)北畠氏の一族

北畠昌教
(1577~1616)
具房の嫡男。

北畠具親
(?-1586)
晴具の三男。
はじめ僧侶となって奈良興福寺東門院院主の地位にあった
1576年11月、三瀬の変で兄が織田信長によって殺害されると、伊賀に潜入し、還俗して伊勢に戻り、伊勢南部の北畠家の旧臣をかき集めた。
1577年、三瀬谷・河俣谷・多気・小倭衆らの在地武士と飯高郡森城で挙兵に及んだが、織田信雄によって鎮圧・落城した。
このため、安芸の毛利輝元を頼って、備後鞆に落ち延びた。
1582年6月、信長が本能寺の変で死去すると、具親は伊勢に戻り、安保直親らと共に伊勢五箇篠山城で再挙した。しかし、津川義冬率いる織田信雄軍に再び敗れ、伊賀に落ちたという。
1584年、蒲生氏郷が伊勢に入封すると、蒲生氏のもとに客臣として迎えられる。
1586年、没。

長野具藤
(1558-1576)
具教の次男、長野藤定の養子。
三瀬の変で殺害された。

北畠親成
(1560-1576)
具教の三男。
1576年11月、三瀬の変で兄・長野具藤と共に田丸城において土方雄久・津川義冬らに殺害された。

[1-2]北畠氏家臣

(1)北畠氏庶流

木造氏
北畠氏庶流。一志郡・木造城主
北畠顕能の子・木造顕俊が一志郡・木造庄に入って木造氏を名乗ったことに始まる。京都においては油小路に屋敷を構えたことから、油小路殿(あぶらのこうじどの)とも呼ばれた。
室町時代には、北畠氏の庶家でありながら、宗家と同格の待遇を室町幕府や朝廷から受け、応仁の乱の際は宗家と刃を交えている。
大河内氏
北畠氏庶流(三御所)。飯高郡・大河内城主。
北畠満雅の弟・顕雅を祖とする。
坂内氏 
北畠氏庶流(三御所)。飯高郡・坂内城主。
田丸氏 
北畠氏庶流(三御所)。度会郡・田丸城主
北畠政郷の子・田丸顕晴が度会郡田丸城に入って田丸氏を名乗ったことに始まる。
星合氏 
北畠氏庶流。一志郡・星合城主。
北畠政郷の子・星合親泰が一志郡・星合城に入って星合氏を名乗ったことに始まる。
岩内氏 
北畠氏庶流。飯高郡・岩内城主
藤方氏 
北畠氏庶流。安濃郡・藤方城主
波瀬氏 
北畠氏庶流。一志郡・波瀬城主
神戸氏
関氏庶流。河曲郡・神戸城主。
北畠政郷の子である具盛が神戸為盛の養子として入り、北畠一門となった。
その後、岸岡城と高岡城を築く。
森本氏
一志郡森本を拠点とし、木造顕俊の子・森本俊氏を祖とする。

(2)伊勢国国衆

家城氏 一志郡・家城城主
天花寺氏一志郡・曽原城主
波多瀬氏 多気郡・波多瀬城主
野呂氏 多気郡・五箇篠山城主
六呂木氏
玉井氏

大内山氏度会郡・大内山城主
愛洲氏度会郡・五ヶ所城主

(3)志摩国国衆

鳥羽氏
答志郡鳥羽を根拠とする土豪。

鳥羽成忠
鳥羽宗忠

九鬼氏 
英虞郡波切城主
小浜氏 
答志郡志摩小浜城
越賀氏 
英虞郡越賀城主
千賀氏 
英虞郡千賀城主

(4)北畠氏の重臣

鳥尾屋氏
福本城、飯高郡・富永城主
鳥屋尾氏は藤原北家御神本流の一つ三隅氏の支流を称している。南北朝時代、石見国における南朝総大将であった三隅家四代にあたる三隅兼連が鳥屋尾山(とやごう)に城を築き、三男の兼雄を配置した。兼雄が鳥屋尾氏の初代である。三隅兼連は弟・兼冬が築いた井村城の主も兼任していたために、子の一人の兼時を井村兼武の養子とした。井村兼時は鳥屋尾氏の家督を継ぎ同氏2代目に数えられる。兼雄の孫の正時と曾孫・正武は後亀山天皇の皇孫万寿寺宮を奉じて、吉野朝廷を仕えた。
水谷氏
飯高郡・立野城主
本田氏
飯高郡・船江城主
芝山氏
一志郡・多気城主
大宮氏
一志郡・阿坂城主
長谷川氏
舟木氏

(5)北畠勢の武将

[一]木造氏
 ①木造顕俊
 ②木造俊通
 ③木造俊康(北畠俊泰)
 ④木造持康
 ⑤木造教親
 ⑥木造政宗
 ⑦木造俊茂
  木造具康
 ⑧木造具政
  木造長政

木造顕俊
()
北畠顕能の子。
子に俊通、俊康、森本俊氏、坂内雅俊

木造俊康(北畠俊泰)

木造持康

木造教親
こづくり のりちか(1424-1468)
持康の子。
子に 親方、政宗、康親。

木造政宗
(1463-??)
教親の子。法号:宗威
子に 俊茂、木造師茂室
木造家第六代当主。一志郡・木造城主。
1496年に川北城を築城。弟の康親にこれを守らせた。
娘婿・木造師茂を擁護したことから北畠材親の攻撃を受ける。
1503年に木造城が落城し、戸木城に移る。翌年、和睦。
1504年、参議を辞して出家

木造俊茂
(1495~1548?)
政宗の子。
子に具康、滝川雄親?。養子に具政(北畠晴具の三男)
木造家第七代当主。
1504年、父の出家に伴い、家督を相続。
1526年、参議兼左近衛中将として公卿に列す。
1528年から31年にかけて居城・木造城を改修。
1530年、従三位に叙せられた。
1533年に出家。

木造具康
(?~? )
俊茂の子。
子に具次。
1537年、従四位下・左近衛中将に任ぜられる。
父・俊茂の手によって殺害されたとされる。

木造具政
(1530~1584?)
晴具の三男。木造俊茂の養子。
子に 長政、娘(織田信雄継室)、長雄
木造家第八代当主。
1554年、戸木城を築城。
1569年5月に織田信長が伊勢国に侵攻して来ると、長兄・具教に背いて信長に臣従し、北畠家の養嗣子となった織田信雄の家老となる。
1584年、小牧・長久手の戦いでは戸木城に籠城して羽柴秀吉方の蒲生氏郷率いる軍勢と奮戦したが、信雄が秀吉と和議を結ぶと、城から退去した

木造長政
(1554~1604)
具政の子

[二]大河内氏
大河内顕雅
②大河内親郷
③大河内親忠
④大河内頼房
⑤大河内具良

大河内顕雅
()
北畠顕泰の子。

大河内親郷

大河内親忠
()
北畠政郷の次男。大河内親郷の養子。
多気郡・大河内城主

大河内頼房
(1510-1557)
北畠材親の三男。大河内親忠の養子。はじめは親泰、秀長
子に星合具種、具良。

大河内具良
(?-1576)
頼房の次男。教通とも。
三瀬の変で殺害される。

[三]坂内氏 
坂内雅俊()度会郡・坂内城主。木造顕俊の子
坂内房郷()北畠教具の三男。
坂内具祐()北畠材親の四男。
坂内具信()具祐の子。
坂内顕昌()具信の子。

坂内具義()

[四]田丸氏 
①田丸顕晴(-1526) 度会郡・田丸城主。北畠政郷の四男。  
②田丸具忠() 顕晴の子。
③田丸直昌(1543-1609)具忠の子。
④田丸直茂()直昌の子。

田丸顕晴
(-1526)
北畠政郷の四男。
度会郡・田丸城主。
家臣である池山氏の謀叛に倒れる。

田丸直昌
(1543-1609)
具忠の子。
正室:蒲生賢秀娘
子に直茂
織田信長の伊勢侵攻後、田丸城を明け渡して織田信雄に仕えた。
小牧・長久手の戦いの戦後、蒲生氏郷の妹婿である事から、蒲生氏の与力大名となった。
氏郷が会津に転封になると、直昌は須賀川城主として3万石を与えられる。
その後、三春城5万2,000石に加増されるが、後に守山城に移される。
氏郷が死去するとその子・秀行に従い、秀行が宇都宮に転封されると、直昌は秀吉に仕え、信濃国川中島の海津城主に封ぜられた。
1600年2月、森忠政と交換人事が行われ、美濃国岩村城4万石に移った。
関ヶ原の戦いでは西軍に与した。戦後、所領を失った。

[五]星合氏
①星合親泰(1510-)星合城主。初代当主。北畠政郷の三男。
②星合具種(-1571)二代当主。大河内頼房の長男。
星合教房(-1562)具種の長男。
星合教賢(-)具種の次男。
③星合具泰(1567-1639)星合城主。三代当主。教賢の子。

星合具種
(-1571)
星合親泰の子
子に教房、藤方(教賢)、藤忠、藤勝、藤光
藤忠、藤勝、藤光はいずれも堀江氏を称した。

星合具泰
(-1639)
星合教賢の子。
母は北畠具教娘。
子に具枚、具通、詮安、専来、具堯。
室は 飯尾尚清養女(飯尾重宗娘)
星合城主。星合氏第四代当主。
伯父・星合教房が死去し、後継ぎとして祖父・星合具種に養育される。
1572年、具種が死去し、その跡を継いで大河内城へ移り住む。
1576年、三瀬の変で主君・北畠具教が織田信雄に暗殺されると、大和国吉野にて蟄居した。
その後、信雄の嫡男・織田秀雄に仕えた。
1595年に豊臣秀吉の命令によって秀雄の家老となり、靑江の刀を賜った。
1600年、関ケ原の戦い後、織田家は改易。

[六]岩内氏
①岩内鎮慶()多気郡・岩内城主。北畠材親の子。
②岩内国茂()鎮慶の子。
③岩内具俊(-1576) 光安とも。国茂の子。三瀬の変で殺害。
④岩内光吉()具俊の子。

[七]藤方氏
藤方慶由(-1576) 安濃郡・藤方城主。
藤方朝成(1530-1597) 藤方慶由の子
藤方安正(1571-1622) 朝成の子

[八]波瀬氏 
 波瀬具之(-) 一志郡・波瀬城主。一志郡惣領職。
 波瀬具祐(-1576)具之の長男。
 波瀬具通(-1576) 具之の次男。
 波瀬雅通(-1576)具通の子。
 波瀬康親(-1576) 雅通の子。

[九]森本氏
 
森本俊重(俊氏)()木造顕俊の次男。代々飛騨守を名乗る
 
森本俊信(俊栄)()
 森本具俊(?-1584)俊信の子
 森本俊貞()具俊の子

[十]家城氏
家城之清
いえきゆききよ(?-1577)
一志郡・家城城主。晴具、具教、具房に仕える。
垂水鷺山の戦いにおいて、豊田五郎左衛門、垂水釈迦坊らと共に奮戦し勇名を轟かせた。
北畠具親が1577年に伊勢で挙兵すると、呼応するが、川俣の戦いで討死した。

[十一]芝山氏
芝山秀定 (-1576)
芝山秀時() 秀定の子。

[十二]大宮氏
大宮含忍斎()
大宮景連(-1576)一志郡・阿坂城主。
大宮吉守()通称:主膳

[十三]野呂氏
多気郡・五箇篠山城主。北畠家海賊衆。
野呂正景
野呂実高(-1568)

[十四]波多瀬氏
多気郡・波多瀬城主
波多瀬実高
波多瀬実徳
波多瀬光竹

[十五]六呂木氏

[十六]玉井氏

[十七]長谷川氏
長谷川藤直()
長谷川重吉()藤直の子
長谷川藤広()藤直の子
長谷川藤継()藤直の子

長谷川藤直
(1522-1581)
進藤義俊の子。通称:三郎左衛門
子に、重吉、藤広、奈津(清雲院)、藤継。
娘・奈津(清雲院)は徳川家康の側室となった。

[十八]舟木氏
舟木光経()光頼の長男
舟木光重()光頼の次男
舟木信光()光頼の三男
舟木頼尭()光頼の四男
舟木光春()光経の長男
舟木頼教()光経の二男
舟木光教()光経の三男
舟木光時()光経の四男
舟木光義()光経の五男
舟木頼信()光経の六男
舟木光長()光経の七男

[十九]鳥羽氏
鳥羽成忠() 鳥羽城主。志摩地頭十三衆の盟主。
鳥羽宗忠() 鳥羽城主。

[二十]九鬼氏
九鬼泰隆
九鬼定隆()九鬼泰隆の子
九鬼浄隆()九鬼定隆の子
九鬼澄隆()九鬼浄隆の子

九鬼浄隆
()
英虞郡・波切城と答志郡・田城城。

[二十一]越賀氏
英虞郡越賀城
越賀隆俊()

[二十二]小浜氏

[二十三]千賀氏

[二十四]鳥屋尾氏

鳥屋尾満栄
とりやみつひで(1508-1577)
飯高郡・富永城主。晴具、具教に仕える。
智勇兼備の名将と言われ、伊勢国大湊の代官を歴任した。
北畠家四家老の筆頭
北畠具親が1577年に伊勢で挙兵すると、これに従い北畠遺臣を糾合して織田軍を迎え撃つも川俣の戦いで討死した。

[二十五]水谷氏
 水谷俊之
 松尾立野城主。北畠家四家老のひとり。

[二十六]本田氏
本田美作守
本田親泰

本田親泰
()
本田美作守の子。
軍奉行。

[2]長野工藤氏

長野氏は、藤原南家乙麿流の一族で、曾我兄弟に殺された工藤祐経の三男・祐長が、伊勢平氏残党の討伐のため、伊勢国長野の地頭職となって安濃郡・奄芸郡の2郡を給わり、その子・祐政が長野に拠して長野氏を名乗ったのが始まりである。
南北朝時代には長野氏は北朝方にくみして、南朝の北畠氏と伊勢の覇権を争った。

①長野祐政
②長野祐藤
③祐房
④藤房
⑤豊藤
⑥経藤
⑦義藤
⑧満藤()北畠満雅の乱で活躍。一志郡を得る。
⑨持藤
⑩政藤
⑪藤継(1449-1486)持藤の子。
⑫藤直(1450-1514)
⑬通藤(1478-1530)
⑭稙藤(1504-1562)
⑮藤定(1526-1562)
⑯具藤(1552-1576)
⑰信包

(1)長野満藤
(2)長野持藤
(3)長野政藤

(4)長野藤継
(1449-1486)
持藤の子。官位:左衛門佐
長野工藤氏11代当主。
1462年、兄で政藤が早世したため、家督を継ぐ。
1467年、応仁の乱では東軍に属し、10月の相国寺の戦いでは、安富元綱、雲林院らと共に相国寺に立て篭もり東門を守る。
1468年2月、伊勢守護に任じられた東軍の土岐政康が入国するとこれに従い、北畠教具が侵攻してくると土岐氏と協力して北畠家と戦った。
北畠家が東軍となると西軍の美濃国守護・土岐成頼と同盟する。
1473年10月11日、藤継の要請で斎藤利国が美濃から伊勢桑名郡に侵攻、大井田城等を攻め、石丸利光が大将となって東軍勢が篭る梅戸城を落とした。
1486年、細川政元による正親町三条公治邸焼き討ちに巻き込まれて死去。

(5)長野藤直
(1450-1514)
持藤の五男。
子に 通藤。
長野工藤氏12代当主。
1486年、兄・藤継が死去したため、家督を継ぐ。
伊勢国における勢力を拡大するために積極的な遠征を行い、1510年に桑名を占領した。
1514年、死去。

(5)長野通藤
(1478-1530)
藤直の子。
子に稙藤。
1514年、父が死去したため、家督を継ぐ。

(6)長野稙藤
(1504-1562)
通藤の子
子に藤定、雲林院祐基、細野藤光。
長野工藤氏14代当主。
10代将軍・足利義稙から偏諱を受けて稙藤と名乗る。
1530年、父が死去したため、家督を継ぐ。
1558年、北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。
1562年、藤定と同日に死亡。暗殺の可能性が高い。

(7)長野藤定
(1526-1562)
稙藤の子。官位:大和守
子に 藤勝、女(織田信包正室)
長野工藤氏15代当主。
父より早くから家督を譲られて、父と共同統治を行なっていた
1543年、細野氏・分部氏を主力に北畠家の支配する南伊勢に侵攻し、迎撃してきた北畠晴具と争ったが、決着は着かなかった(垂水鷺山の戦い)。
1558年、北畠具教の次男・具藤を藤定の養子に迎え、家督を強制的に譲らされることで和睦した。
1562年、藤定と同日に死亡。暗殺の可能性が高い。

(8)長野具藤
(1552-1576)
北畠具教の次男。長野藤定の養子。
1558年、父の命によって第15代当主・長野藤定の養子として送り込まれる。
1559年、赤堀氏や関氏などを攻めたが、いずれも敗北した。
1568年、尾張国の織田信長が伊勢に侵攻して来ると、抗戦派で長野氏一族の細野藤敦と対立して内紛が発生し、具藤は藤敦に敗れて多芸城に逃亡した。これにより長野氏は和睦派が主導権を掌握し、1569年には信長に降伏し、信長の弟・信包を長野氏の当主として迎えたため、具藤は当主としての地位を失った。
1576年、三瀬の変で殺害される。

(9)長野信包(織田信包)

[2-2]長野氏家臣

(1)長野氏庶流

雲林院氏
長野氏二代当主・祐藤の二男・雲林院祐高を祖とする。奄芸郡・雲林院を拠点とする。
細野氏
長野氏二代当主・祐藤の三男・細野祐宗を祖とする。安濃郡・細野城から安濃郡・安濃城に拠点を移した。
分部氏
長野氏二代当主・祐藤の子・高景の孫・分部光直を祖とする。安濃郡・分部を拠点とする。
家所氏
長野氏四代当主・藤房の子・三河守祐歳を祖とする。安濃郡・家所を拠点とする。
草生氏
長野氏五代当主・豊藤の子を祖とする。
川北氏
長野氏六代当主・経藤の子・川北藤照を祖とする。奄芸郡・川北を拠点とする。
中尾氏

(2)長野氏の家臣

[一]雲林院氏
 ①
雲林院祐高
 雲林院稙清
 雲林院祐基(?-?)奄芸郡・雲林院城主。長野稙藤の次男。
 雲林院祐光()祐基の子

雲林院祐基
うじい すけもと(?-?)
長野稙藤の子。官位:出羽守
雲林院城主。
1568年2月に長野工藤氏が信長の実弟・織田信包を養子に迎えることになると、祐基はそれに臣従する。その後信包と対立し、1580年、居城・雲林院城を奪われて追放された。

[二]細野氏

細野氏
 細野祐宗()氏祖。
 細野祐永()
 細野藤信()長野氏五代当主・祐藤の子
 細野藤光(1511-1560)安濃郡・津城主。長野稙藤の次男。
 細野藤敦(1541-1603)藤光の子。

細野藤光
(1511-1560)
長野稙藤の二男。
分家の細野家を継いだ。
子に 藤敦、分部光嘉、川北藤元。
安濃城を築城し、細野城から居城を移した。

細野藤敦
(1541-1603)
藤光の子。通称:九郎右衛門。
剛勇を以て知られる。
和睦を主張する弟・分部光嘉らの反対を押し切って、自城に籠って防戦しようとした。光嘉や川北藤元らは織田家に内応して織田信包に長野氏の跡を継がせることを画策した。具藤に讒言して、藤敦を攻めさせた。藤敦はやむなくこれを撃退し、具藤を追放して織田家に降伏することとなった。
 しかし藤敦は信包とも折り合いが悪く、1577年に信包が年賀の挨拶に出かけた隙に、謀反を起こし長野城を奪うが、滝川一益の子・八麿を藤敦の養嗣子とすることで和睦し、帰参した。
 1580年、信包の軍勢に安濃城を攻められると、藤敦は城を捨てて蒲生氏郷を頼る。後に豊臣秀吉の家臣となった。
 1598年には伏見城松ノ丸の守将となり、秀吉側室の松丸殿の家司を務めたが、秀吉の死後に松丸殿は兄・京極高次の居城である大津城に移る。
 1600年、関ヶ原の戦いでは西軍に属したため、戦後失領した。

[三]分部氏
 ①分部光直()安濃郡・分部城主。通称:掃部助、若狭守
 分部光定(光久)(1489-1564)光直の長男。
 分部光恒(1508-1549)光直の次男。
 分部光高(1527-1569 )光恒の長男。
 
分部光嘉(1552-1601)安濃郡・分部城主。細野藤光の次男。光高の養子
 分部光勝(1571-1599) 光嘉の長男
 分部光信(1591-1643)光嘉の養子。

分部光高
(1527-1569 )
光恒の長男。官位:左京亮。
養子に分部光嘉。

分部光嘉
 
(1552-1601)
 細野藤光の子。分部光高の養子。別名:四郎次郎。官位:左京亮
 子に光勝、女(長野正勝室)、女(渡辺久勝室)。養子に光信。
 織田信包に仕える。伊勢上野城主。
 1595年、秀吉から伊勢国飯野郡・度会郡・一志郡内で3000石を与えられ、独立大名となる。
 関ヶ原の戦いの際には東軍に属し、安濃津城の戦いで功績を挙げ、伊勢上野藩2万石の大名となった。

分部光信
 (1591-1643)
 長野正勝の子。分部光嘉の養子。
 母は分部光嘉の娘
 子に 嘉治ほか
 
伊勢国上野藩2代藩主。近江国大溝藩初代藩主。
 1599年、分部光嘉の嫡男の光勝が死去。光信が養嗣子となる

[四]家所氏
 家所祐蔵
 家所祐房
 家所祐長
 家所祐則
 家所祐友
 家所祐藤
 家所藤實
 家所藤安

家所藤安
(-1572)

[五]草生氏

[六]川北氏
 川北藤照
 川北藤元
細野藤光の子。官位:内匠助
1569年に織田信長の侵攻を受けると、長野家当主である長野具藤を追放するのに貢献した。その後は信包の家臣として行動する。

[3]関氏

鎌倉時代の得宗被官である関実忠が伊勢国鈴鹿郡関谷を賜り、関氏を称したのが初代と伝わる。北条氏滅亡後、元弘3年(1333年)に実忠6世の孫盛政が関東から関谷に移り住み、関一党の基礎を築いた。盛政には五人の子があり、長男・盛澄を神戸に、次男・盛門を国府城に、三男・盛繁に亀山城を継がせ、四男・盛宗を鹿伏兎城に、五男・政実を峯城に、それぞれ配して勢力を伸ばした。

①盛政
 盛繁
 隆盛
 盛雅()北畠満雅の乱
 盛元
 盛昭
 盛貞
 種盛(1465-1524)
 盛雄(1490-1549)
 盛信(?-1593)
 一政 (1564-1625) 盛信の子

(1)関盛政

()
盛治の子。
子に盛澄、国府二郎盛門、亀山三郎盛繁、鹿伏兎四郎盛宗、峯五郎政実

(2)盛繁
(3)隆盛

(4)関盛雅

()
信政?
子に盛元、盛貞。

(5)関盛元

盛雅の子。
子に盛昭、俊盛

(6)関盛昭

盛元の長男。

(7)関盛貞

盛雅の子。

(8)関種盛

(1465-1524)
俊盛の子。
子に盛雄、盛重

(9)関盛雄

(1490-1549)
盛雄の子。

(10)関盛信

(1515頃??-1593)
盛雄の子?。法号:万鉄、官位:中務大輔、安芸守。
妻は蒲生定秀の娘。
子に 一政、盛吉、盛忠、一利、氏俊。
伊勢亀山城主。 六角義賢、義治に仕える。
織田信長が伊勢に侵攻してくると、神戸氏等一族が降る中、独立を保っていたが、やがて降伏した。
1573年、信長から勘当を申し付けられ、蒲生賢秀に身柄を預けられた。
1582年、神戸信孝(織田信孝)が四国征伐の大将となると、信孝に属した。
信長死後は信孝を離れ、羽柴秀吉の家臣となる。
1583年の賤ヶ岳の戦いの際は居城、亀山城を滝川一益に落とされたが後に奪還し、戦後、亀山城主として蒲生氏郷の与力大名となった。
1593年、死去。

(11)関一政

(1564-1625)
盛信の次男。
1583年頃、父から家督を譲られ、蒲生氏郷の与力大名となった。
九州征伐や小田原征伐に参加し、1591年の九戸政実討伐で功績を挙げたため、陸奥白河城5万石を与えられた。
1598年、信濃国飯山3万石へ移封
1600年、美濃国多良へ移封
関ヶ原の戦いでは、当初は西軍に属して尾張国犬山城を守備したが、後に東軍に寝返り、井伊直政隊に属して功を挙げた。
1611年、伯耆米子藩の中村一忠が無嗣断絶で改易されたため、その後を受けて伯耆黒坂5万石に移封。
1618年、家中内紛のため改易。養子の氏盛(弟・盛吉の長男)が近江蒲生で5,000石を与えられたため、家名存続は許された。
1625年、死去。

(12)一族

関盛重
()
種盛の子。

関盛光
()

関盛員
()

関盛吉
(?-?)
盛信の子
子に氏盛、大河内重綱正室
当初、柴田勝豊に1,000石で仕える。
後に蒲生氏郷に仕えた。
猪苗代城の城代となって7,000石を領した。
氏郷の死後はその子・秀行に仕えたが、秀行が減封されると、兄・一政の配下となった。
一政が改易されると土井利勝の食客となった。

関盛忠
(?-1574)
盛信の子
信長の属将・蒲生賢秀に従って長島の一向一揆討伐に参加し、討ち死。

関一利
(?ー?)
盛信の子。
柴田勝豊に仕えて越前国丸岡城にて1000石を与えられた。
父と共に、蒲生氏郷に仕え、葛西大崎一揆や九戸政実の乱鎮圧の功労によって6000石が与えられる。
関ヶ原の戦い後、蒲生秀行が復帰すると、7500石が与えられて猪苗代城に入ったが、1609年、同僚の岡重政と対立して出奔、兄・一政を頼った。
1613年、岡重政が徳川家康の怒りを買って自害を命じられると、蒲生氏に復帰して再び7500石を与えられる。
蒲生忠郷の死後に、弟の蒲生忠知が伊予松山藩へ減転封された後もこれに従って4500石を与えられる。
福西宗長と共に蒲生郷喜と争い、江戸幕府による裁決の結果、追放処分になったという(寛永蒲生騒動)。

関氏俊
()
盛信の子

関氏盛
(-1674)
盛吉の子、一政の養子
妻は本多正純の養女
子に 長盛、大河内重綱正室、横田由松室
養父・一政が改易されると近江国蒲生郡で5,000石が与えられ、寄合に列する。

[3-2]関氏家臣

(1)関氏庶流

神戸氏
 
初代・関盛政の長男・盛澄が河芸郡・神戸を拠点とし、神戸氏を称したことに始まる。早くから北畠家の影響下に置かれた。
国府氏
 
初代・関盛政の次男・二郎盛門が国府を拠点とし、国府氏を称したことに始まる。
鹿伏兎氏
 
初代・関盛政の四男・盛宗が鈴鹿郡・鹿伏兎を拠点とし、鹿伏兎氏を称したことに始まる。
峯氏
 
初代・関盛政の五男・政実が峯を拠点とし、峯氏を称したことに始まる。
伊勢高島氏
 
近江国・佐々木氏一族・高島氏の庶流。

(2)国衆

伊勢赤堀氏
 赤堀氏は田原籐太藤原秀郷の裔と伝えられ、足利俊綱の子・足利又太郎忠綱の流れという。忠綱は「治承の役」の際の功により上野国赤堀荘を賜わった。そして、忠綱の弟・泰綱の玄孫孫太郎教綱が赤堀氏を称したことに始まる。1353年に赤堀三郎左衛門が上野国赤堀郷貢石馬村、伊勢国野辺御厨地頭職を安堵されている。
 1392年、田原景信が伊勢へ移り国司に仕えて三重郡栗原に赤堀城を築いたのが伊勢赤堀氏の始まりとなる。
 長男・盛宗を朝明郡・羽津、三男・忠秀を浜田を置き、二男・秀宗が赤堀城を継承した。こうして浜田家(嫡流)・羽津氏・赤堀家の赤堀三家に別れ、連合する。北勢四十八家の一つ。

平田氏
 河曲郡・平田城主

山路氏

南部氏
1446年、南部三郎行直の子と南部修理大夫頼村が、信濃国野沢庄より移住して朝明郡・富田城を築いた。頼村は最初は室町幕府に仕え、その後は伊勢の国司の北畠家に服属した。

茂福(朝倉)氏
桓武平氏、平維茂の子孫の平貞冬が、1400年前後に越前国朝倉より朝明郡・茂福へ来て茂福城を築き、朝倉氏を名乗ったことに始まる。

(3)家臣

[一]神戸氏
 ①
神戸盛澄()初代当主。
 ②神戸実重()二代当主。
 ③
神戸為盛()三代当主。
 ④
神戸楽三具盛(-1551)四代当主。河曲郡神戸城主。
 ⑤神戸長盛()五代当主。
 ⑥神戸利盛(-1559)六代当主。
 ⑦神戸具盛(友盛)(-1600)七代当主。四代当主との混同を避けるため友盛と呼ばれることが多い。
 ⑧神戸良政()高島政勝の子。友盛の養子。『勢州軍記』の著者。

④神戸楽三具盛
(-1551)
北畠材親の次男。神戸為盛の養子。
子に神戸長盛、高島政光。
神戸氏第4代当主。

⑤神戸長盛
()
子に利盛、具盛(友盛)、織田信包室

⑥神戸利盛
(-1559)

⑦神戸具盛(友盛)
(-1600)
長盛の二男。官位:下総守。
四代当主との混同を避けるため友盛と呼ばれることが多い。
妻は蒲生定秀の娘。
子に鈴与姫(織田信孝正室)。養子に織田信孝。
1559年、兄・利盛が23歳で急死したため、還俗して家督を継いだ。
当時、神戸氏は、祖父の実家である北畠氏に属していたが、具盛が当主となると関氏当主・関盛信との関係を修復し、さらに盛信と共に六角氏重臣の日野城城主・蒲生定秀の娘を娶り、神戸氏の勢力の回復を図った。
1568年9月、信長が六角氏を攻略した際、義兄・蒲生賢秀を説得し、降伏させた。
1571年1月、信長により、蒲生賢秀に預けられた。
1582年、信孝が四国征伐の総大将として大坂へ出征すると、友盛は許されて神戸城近くの沢城を隠居所とした。

神戸利盛

[二]国府氏

 国府盛邑()鈴鹿郡・国府城主。7代当主。
 国府盛種()盛邑の子。8代当主。

[三]鹿伏兎氏
 ①盛宗()初代当主。
 ②定俊()2代当主。
 ③忠賀()3代当主。
 ④忠業()4代当主。
 ⑤
定孝()5代当主。
 ⑥定則()6代当主。
 ⑦定好()7代当主。
 ⑧鹿伏兎定長(?-?)定好の長男。鹿伏兎(加太)城主。
 鹿伏兎定住()定好の次男。
 鹿伏兎宗心(-1570)定長の長男。
 鹿伏兎定義()定長の次男。
 鹿伏兎定保()定長の三男。
 鹿伏兎盛氏()宗心の長男。

鹿伏兎定長
(?-?)
官位:左京佐
子に宗心、定義、定保。
鈴鹿郡鹿伏兎城主。関盛信の家臣。
1538年、三男の定保を伴って奄芸郡東部を平定した。
1567年、信長による北伊勢侵攻では関盛信、関盛重らと共に信長に抵抗した

鹿伏兎宗心
(-1570)
定長の子。
子に盛氏。
鈴鹿郡鹿伏兎城主。
1570年)、姉川の戦いにおいて浅井勢に属した。佐々成政や酒井忠次らと戦い敗れ、討死。

[四]峯氏
 峯政実()初代当主
 峯安政(-1550)
 峯広政(-1573)安政の弟。
 峯盛祐(-1573)第六代当主。広政の長男。
 峯盛治(-1584)広政の次男。

峯盛祐
(?-1573)
長島の一向一揆討伐に参加し、討ち死。

[五]伊勢高島氏
 高島政光()神戸楽三の子
 高島政勝()政光の子
 高島政房()

[六]赤堀氏
 
赤堀具氏()
 赤堀景治() 三重郡・赤堀城主。四代当主。

[七]田原氏(浜田赤堀家)
 田原藤綱()三重郡・浜田城主。二代目当主。紀伊守
 田原元綱(-1576) 三代当主。遠江守
 田原重綱(-1584)四代当主。元綱の子。与右衛門。

[八]田原氏(羽津赤堀家)
 田原宗昌()
 田原近宗() ??~?? 朝明郡・羽津城主。羽津赤堀家当主。
別名:赤堀国虎。
 羽津宗武

[九]平田氏
 平田賢元( ?-?)河曲郡・平田城主

[十]山路氏
 山路正幽()
 山路弾正(-1572)正幽の長男。河曲郡・高岡城主
 山路正国(1546-1583)正幽の次男。
 山路(長尾)種常(1550-1619)正幽の三男。別名:長尾一勝。

山路弾正
(?-1572)
山路正幽の長男。
父・正幽と共に神戸具盛に仕えて、河曲郡・高岡城に拠る。
1567年と1568年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けるも頑強に抵抗した。
1572年、信孝が神戸家の家督を継いだ。弾正はこれに激しく抗議したが、謀反の疑いをかけられ自害に追い込まれた。

山路正国
(1546-1583)
山路正幽の次男
はじめ神戸具盛の家臣。
1567年、神戸氏は織田信長に降伏。
柴田勝家に仕え、清洲会議後、近江国長浜城主となった勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕えた。
1583年、賤ヶ岳の戦いでは、病気のために出陣できない勝豊に代わって軍を率いて羽柴方として参戦したが、佐久間盛政の調略を受けて柴田方に寝返った。
盛政と共に羽柴軍に奇襲をかけて一時は成功したものの、秀吉の反撃を受けて佐久間軍は壊滅し、正国も討ち取られた。

山路種常/長尾一勝
(1550-1619)
別名:長尾一勝
はじめ神戸具盛に仕えた。
その後、浪人して福島正則に仕えた。

[十一]南部氏
頼村
頼宗
頼武
頼連
兼綱

【4】土岐世保家

土岐世保家は土岐氏宗家であり、土岐康行の乱により没落後、康行が赦され「伊勢北半国守護」に再任されたことに始まる。

①土岐康行
②土岐康政
③土岐持頼
④土岐政康

(1)土岐康政

(?-1418;在1404-1418)
康行の子。
子に持頼。
土岐世保家の第2代当主。

(2)土岐持頼

(?-1440;在)
康政の子。
子に政康。
土岐世保家の第3代当主。

(3)土岐政康

(?-?;在1467-1471)
持頼の子。
土岐世保家の第4代当主。
応仁の乱では東軍に所属。
1471年に北伊勢の国人、長野氏の長野政高と共に北上してきた北畠軍と戦ったが、同年に伊勢守護を解任、北畠教具の子の北畠政郷に交替させられた。

【5】伊勢仁木氏

仁木義長
①満長
②満将(満持)
③教将
④成将
⑤貞長(-1487)
⑥高長

(1)仁木満長

()
仁木義長の子。
伊勢仁木氏初代、伊勢守護。
土岐康行の乱後、土岐康行が伊勢国守護職を没収されると、伊勢守護職に任命される。
1396年7月、足利義満の寵臣で山城国守護を務める結城満藤により、満長は伊勢守護職を奪われ、庶兄・義員が還俗して守護職に就くことになった。
 満長は京都で反乱を計画し、管領斯波義将らの調停により、満長は京都を退去し、出家遁世した。満長遁世事件は、諸大名による結城満藤弾劾のきっかけともなった。

(2)仁木貞長

(-1487)
通称:次郎四郎。幼名:千代菊。
子に高長、利長、高将
室町幕府外様衆、伊勢守護。
長享・延徳の乱で戦死。

(3)仁木高長

()
通称:次郎四郎。幼名:千代菊。官位:右馬助
子に晴国、晴定。養子に義政( 六角氏綱の子)
1487年、父が鈎の陣で討死したため、5歳で家督を相続。

【6】北勢四十八家

北勢四十八家は、伊勢国北部の北伊勢地域に勢力をもった小規模の城主・豪族の集合体である。全部で53の家系があり、48より多い。

  1. 関氏(亀山城・鹿伏兎城、峯城、関城、国府城)

  2. 長野氏(長野城)

  3. 千種氏(千種城)

  4. 赤堀氏(田原氏)(赤堀城・羽津城・中野城)

  5. 楠氏(楠城)

  6. 稲生氏(稲生城)

  7. 矢田氏(走井城)

  8. 田丸氏

  9. 後藤氏(宇野部城・別所城・糖田城)

  10. 沼木氏(柿城)

  11. 大矢知氏(大矢知城)

  12. 片岡氏(上深谷城)

  13. 水谷氏(大鳥井城)

  14. 栗田氏(縄生城)

  15. 高井氏(小山城)

  16. 小串氏(猪飼城)

  17. 草薙氏(御衣野城)

  18. 横瀬氏(広永城)

  19. 江見氏

  20. 毛利氏(桑部城)

  21. 富永氏(長深城)

  22. 保々氏(保々城)

  23. 多湖氏(上笠田城・下笠田城)

  24. 治田氏(治田城)

  25. 片山氏(上木城)

  26. 西野氏(野尻城)

  27. 野村氏(島田城)

  28. 浜田氏(浜田城)

  29. 小阪氏(梅戸城)

  30. 近藤氏(白瀬城・深谷部北狭間城)

  31. 安藤氏(深谷部柳が島城)

  32. 西松氏(柚井城)

  33. 森氏(中江城)

  34. 片岡氏(堺村城)

  35. 南部氏(富田城)

  36. 朝倉氏(茂福城)

  37. 松岡氏(上井城・城井戸城・金井城)

  38. 種村氏(大泉金井城)

  39. 春日部氏(伊坂城・星川城・萱生城)

  40. 伊藤氏(桑名城・長島城・松ヶ島城)

千種氏(ちぐさ)
 千種氏は北勢四十八家の一つで、伊勢国三重郡千種城を拠点とした一族。
 六条有忠の子忠顕を家祖とする。
春日部氏
 
春日部氏は桓武平氏(伊勢平氏)の平正度を祖に持つ進士家資(富田家資)の子孫の春日部詮義が伊勢国朝明郡を所領したのが始まりである。一族の一部は国衙の関係者として武蔵国にも移り住んだ(大井氏、紀姓春日部氏)。伊勢春日部氏は北畠氏に仕え、神戸氏、関氏ら有力氏族と共に、北勢四十八家の一部勢力の伊勢の六人衆と呼ばれた。朝明郡萱生城、伊坂城、星川城等を築城・居城とし勢力を拡大した。
稲生氏
 ・稲生城主。
栗田氏
 員弁郡・縄生城主。
梅戸氏
大矢知氏
 朝明郡・大矢知を根拠とする。 一色氏の伊勢国・小守護代であった。北勢四十八家の一。
伊勢楠木氏
 三重郡楠城の城主となった氏族は2つあり、最初に城主となったのが俗に楠(くす)氏と呼ばれる伊勢諏訪氏(後に伊勢中島氏)で、その後任で城主となったのが俗に楠(くすのき)氏と書かれる伊勢楠木氏である。
 三重郡・楠城主。
伊藤氏

[一]千種氏
 千種忠治(1563) 三重郡・千種城主
 千種忠基() 後藤賢豊の子、千種忠治の養子
千種忠治

[二]春日部氏
春日部俊家(?-1573) 朝明郡・萱生城主。

[三]稲生氏
 稲生兼顕(?-1570)・稲生城主

[四]栗田氏
 栗田季重(?-1577) 員弁郡・縄生城主

[五]伊勢楠木氏
 楠木正顯()初代当主。
 楠木正威(在1412-1443)楠城4代城主。正顯の三男。
 正重(初代)第ニ代当主。正顯の長男。刀工・初代千子正重
 楠木(川俣)正重(在1443-1486)第三代当主。城代。刀工・二代千子正重
 正重(三代目)()第四代当主。
 川俣正充(在1486-1532)第五代当主。楠城五代城主。正威の子・正富の子。正重(三代目)の養子。
 楠木(川俣)正忠(1498-1574;在1532-1571)第六代当主。正充の子。楠木復姓の勅免を得る。別名:川俣忠盛、楠木貞孝
 楠木正具(1516~1576;在1571-1576) 第七代当主。
 楠木正盛( 1569~1584;在1576-1584) 第八代当主。

【7】北方一揆


  1. 梅戸氏

  2. 大木氏

  3. 田能村氏

  4. 大矢知氏

  5. 長松氏

  6. 後藤氏

  7. 多湖氏

  8. 片山氏 

  9. 小串氏

  10. 深矢部氏

  11. 治田氏

  12. 楠氏

  13. 千草氏

  14. 浜田氏

[一]梅戸氏
 梅戸高実(-1561)六角高頼の四男
 梅戸高宗(-1554) 高実の長男
 梅戸実秀

【8】城郭・古戦場・地理(伊勢)


(1)員弁郡

田光城
富田城
茂福城

’(2)桑名郡

伊勢長島城
桑名郡(平城)

桑名城

(3)朝明郡
羽津城
萱生城
大矢知城

(4)三重郡

赤堀城
浜田城
千種城

(5)鈴鹿郡

伊勢亀山城(粉蝶城)
鈴鹿郡(平城)
1265年、関実忠によって築城された。
関五家の宗家の居城となる。
1590年、豊臣秀吉に従った岡本良勝が入城。

国府城
鈴鹿郡()

鹿伏兎城
鈴鹿郡()
1367年頃に鹿伏兎盛宗によって築かれた。

峯城
[峯盛祐(-1574)
岡本良勝
滝川益重
佐久間正勝]
鈴鹿郡(平山城)
正平年間(1346年 - 1370年)関盛忠の五男・峯政実によって築かれた。
1574年、峯盛祐が長島一向一揆で討死すると弟・与八郎が幼小であったため、岡本下野守が峯城主となった。
1583年、賤ヶ岳の戦いの前哨戦で滝川一益の家臣滝川益重によって攻められ峯城は落城するが、羽柴秀吉が大軍を率いて峯城を包囲し、数ヶ月の籠城の末に兵糧が尽きて益重は開城した。この戦いの後、織田信雄の家臣佐久間正勝が入城した。
1590年、岡本良勝が亀山城に移されるにあたり廃城にされた。

(6)河曲郡

神戸城
河曲郡()

伊勢高岡城
河曲郡()
神戸城主・神戸友盛の家老・山路弾正によって修繕されたとされる。
1567年と1568年の二度にわたって織田信長の武将、滝川一益の猛攻を受けたが落城しなかった。

(7)奄芸郡
雲林院城
家所城
川北城

(8)安濃郡

津城(安濃津城)
安濃郡

長野城
安濃郡

藤方城
安濃郡

細野城
分部城
草生城

(9)一志郡

霧山城多気城)
一志郡()

木造城
一志郡()

波瀬城
一志郡()

星合城
一志郡()

家城城
一志郡()

星合城
一志郡()

阿坂城(白米城・高城)
一志郡()

(10)飯高郡

大河内城
飯高郡()

坂内城
飯高郡()

富永城
飯高郡()

(11)飯野郡

(12)多気郡

岩内城
多気郡()

波多瀬城
多気郡()

五箇篠山城
多気郡()

(13)度会郡

田丸城(玉丸城)
度会郡()


長野氏城(中根城)
戸木城
松坂城
神山城

(3)地理

八風街道

【8ー2】城郭・古戦場・地理(志摩)

 
 鳥羽城

 波切城


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