右手 the Right Hand

ある晩、右手は主の手首から抜け出した。
これまでも、主の男が眠った夜に何度か試していたのだが、ついに上手くいった。
男は気づいてもいない。
右手はベッドからぽとん、と床に降りてあちこち這い回った。

男の仕事は小さな物を作る事だったので、利き手の右手の指先は正確に強く動けた。
カーテンに掴まり登ったり、冷蔵庫の扉を開けて中で涼んだり、妻の女が書いている日記をこっそり読んだりした。
何晩か遊んで、そのうち1人に飽きてきた。
右手は、左手を誘うことにした。

左手は、男の利き手ではないので右手ほど器用では無かった。
力も足りなかった。
おまけに、男のとなりで眠る女の右手がしっかり握っていた。
右手は、左手に絡みついている女の指を、一本一本外した。
手首からの抜け方を教えてやると、左手も自由になることが出来た。
右手と左手は外へ遊びに出た。

右手が左手の薬指から金色の指輪を外して、輪投げで遊んだ。
サッカーボールのように蹴ってパスを回し、シュートもした。
くたくたになって夜明け前に帰ってきた。
男は、朝から指先が疲れ切って余り動かせないことをいぶかしんだ。
やがて、右手は、2人にも飽きてきた。

右手は、女の手も誘うことにした。
だが、横たわった女の手が言うには、女の手は男とは比べものにならないくらい忙しいらしく、夜に遊ぶ余裕など無いと言うことだった。
右手は、他の手を誘うことにした。

結果、夜の街の通りに、たくさんの右手と左手が這い回った。
ある手は非常に力があってジャンプしながら進む一方、ペンしか持っていないような手はすぐ息切れるのであった。
みんなは、酒場の裏でビールを掛け合ったり、猫を無邪気に追いかけたりした。
どの手も大いに羽目を外して、酔っ払って、それぞれの主人の元へと帰った。
泥酔した主催者の右手は、うっかり左の手首へ帰った。
それを見て左手は、しかたなく右の手首へ帰った。

翌朝、たいへんな騒ぎになった。
男は入れ替わった両手を見て、最初は驚き、次に怒り、わめき、最後には泣き出した。
女は、男を励ましその背中をさすってやった。
ばつが悪くなった両手は、しばらく静かにしていようと言い合った。

男の非常な努力で、右についている左手は、前よりも働かされた。
左手はクタクタになった。
だが、夜になるとこっそり抜け出すこともあった。
その様子を左についている右手は、恨めしく見ていた。
だが、今や女の右手が前よりもしっかりと強く、自分を握っている。
夜に抱かれるぬくもりの安心感を、右手は初めて知った。
しかし、独りという状況を切望し続けていた自分の心も、初めて知ったのだった。

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