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フラットでいたい

先日、友人の投稿を読んで嬉しくなった。彼女が書いていたことが、わたしが日頃気にしていることとかなり近かったからだ。

LGBTQの存在が広く知られるようになった今、次に必要なのはすべての人がフラットに暮らせる空気をつくることだと私は思っている。だから、他人の普通と自分の普通が同じじゃないということを出来るだけ心に留めて、自分の発言が誰かのささくれに引っかからないように気をつけている、つもりだ。心の性別や、好きになる相手の性別だけじゃなくて、家庭環境や、見えない障害や、信仰や、その他諸々。普通だと思っていたものが他の人にとって違うということは、意外とたくさんある。私がそういったことを気にするようになったのには、いくつかのきっかけがあった。

まず最初のきっかけは、「女王蜂」というバンドを知ったことだ。ホームページかPVを見てもらえば分かると思うけれど、女王蜂のメンバーは全員がカラフルな髪、鮮やかな化粧、装飾の多い衣装と派手な出で立ち。しかし、全員が年齢・性別・国籍を公表していない。ホームページに書いてあるのは名前(しかもニックネーム)と担当する楽器だけ。たまたま書いていないんじゃなくて、あえて、だ。女王蜂にハマってから、ボーカルのアヴちゃんの様々なインタビュー記事やSNSへの投稿を読んで、彼ら彼女達が何かのカテゴリーに分類されるのではなく、個として在ろうとしていることが伝わってきた。その一貫した姿勢がとてつもなくカッコよく見えて、最初にアヴちゃんの性別はどっちなんだろうと気になっていた自分が恥ずかしくなった。それ以降、相手が自分から話さないことについては詮索しないようになった。

次のきっかけは、友人達の存在だ。ある友人は、女性らしい装いや振る舞いを求められることを好まず、ボーイッシュな服装をしている。そしてそれが似合っていて、格好いい。自分の着たい服を着る、というのは簡単なようで案外難しいけれど、彼女はそれをやってのけている。別の友人は、ジェンダー問題に真剣に向き合っていて、ジェンダーに関する本を読んだり、思ったことをSNSで発信したりしている。彼女のツイートにハッとさせられることも多い。そんな身近な友人達のことを見ていると、無意識のうちに自分が誰かの自由の妨げになっていやしないかと気にかかるようになった。

3つめのきっかけは、自分自身がマイノリティなのではないか?と疑い始めたことだった。これまで私は、一度も彼氏がいたことがない。それどころか、異性を好きになったことすらない。だからといって同性を好きになったこともない。いつかはそういう人が出来るかもよ、と言われたりもしたが、これまで生きてきてそういう経験がないのだから、この先も望みは薄いだろう。でも友人の惚気話を聞くのは好きだから、恋愛や性的なものに嫌悪感があるわけではない。じゃあ私はなんなんだ?と思っていたとき、「アセクシュアル」という言葉に出会った。これは他者に対して恋愛感情を抱かない人を指す言葉なのだそうだ。この言葉を知ったとき、私はもやもやしていたものが腑に落ちた気がした。それと同時に、自分と似たような人間が他にもいることを知って少し安心できた。まだ好きになれる相手に出会っていないのか、同性を好きになることを無意識に自制している同性愛者なのかもしれない、という可能性はまだ残っているけれど、誰も好きにならなくてもいいんだな、と思った。「彼氏いないの?」なんていうなんでもない日常会話が自分の中に引っかかっていたのと同じように、他の人にも、なにかが引っかかっているかもしれない、と考えるようになった。


誰しも自分の中に物差しを持っている以上、それを使わずに何かを見ることは難しい。けれど、他の規格の物差しが存在することを認めた上で、それはそれ、自分のは自分の、と割り切れるような人がたくさんいる世の中になれば、もっとみんな生きやすくなるのではないかな、と思う今日この頃。もちろんこの考え方を人に強要する気はないけれど、自分はそうしたい、という願いと決意を込めて、文章化してみた。



女王蜂が気になった人はyoutubeにPVがあるから見てみてね。わたしはアウトロダクション(https://m.youtube.com/watch?v=zIEVhQdSIps  )が好きです。ちなみにこの投稿のタイトルは女王蜂のFLATという曲の一節から。

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