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[essay] 言葉の違和感 ~ほぼほぼ~

テレビやラジオに出ているタレントの発言や、いわゆる YouTuber の使う言葉(総じて若い世代だが)、それにネットニュースの記事など、このごろどうにも、聞いたり読んだりしていて違和感のある日本語が飛び交っている。

自分自身が普段からそれなりに文を書いているせいもあるかもしれないが、個人的には、テレビやネットといった影響力のあるメディアが、平気で俗語を使用したり、誤用に気づかないまま拡散させてしまったりしている現状は、やはり好ましいとは思えない。


気になる「ほぼほぼ」

誤用というほどではないのだろうけれど、聞いていて気になるというか、なんとなく「おや?」と思ってしまう言葉のひとつ、「ほぼほぼ」。筆者はどうにもこの言葉が気持ち悪くて、自分が文を書くときも、何か話をするときも、意識して使わないようにしている。

なぜ「ほぼ」ではなく「ほぼほぼ」と、わざわざ2回重ねなければならないのか。そこに何らかの意味的な差異はあるのだろうか。同じようなことを考える人はやはりいるもので、調べているうちにおもしろそうな研究者を見つけた。

日本語とフランス語の教師である野口恵子氏によると、「ほぼほぼ問題ない」や「ほぼほぼ同じ」などの表現は、「より確実だ」と言いたいのか、断定を避けて婉曲に言っているのか、使う人・聞く人によってニュアンスに差が生まれ、本当の意味が分からないらしい。なるほど、たしかに。


繰り返しが丁寧になるという錯覚

繰り返しの表現というのは、基本的に「強調」である。

「よくよくお確かめのうえ・・・」
「重ね重ねお詫び申し上げます」
「返す返すも残念である」

このように、念を押したり、発言者が自身の気持ちを込めたいときに使われる。ためしに「ほぼほぼ」が使われるシチュエーションを考えてみると、たとえばこんなものがある。

「この件のリスクマネジメントに関しては、ほぼほぼ問題ないと思われます」
「前月度のKPIについては、ほぼほぼ出そろいました」

筆者個人の見解というか、偏見も多分に含まれているのだが、「ほぼほぼ」を会話の中で多用する人は、ビジネス・カタカナ用語や、アルファベット3文字略語の使用率も総じて高いように感じる。ビジネスの場で使うから、単発で「ほぼ」というよりも、言葉を重ねることでより丁寧な印象を相手に与えられるかもしれないという、一種の印象操作の意図から生まれた俗語ではないかと思うわけである。

しかし、そんな印象など錯覚に過ぎないのだ。

「1,000円、お預かりします」を「1,000円からお預かりします」と言ったほうが、丁寧な気がするのと同じ類の勘違いである。カタカナビジネス語もアルファベット3文字略語も、「ほぼほぼ」と併用して使いこなしてみせることで、自身が仕事のできる人間であるふうを装うとか、何ごとも万事心得ているように見てもらいたい、そういった人間の欲求に紐づいているいるのではないか。

そう考えると、「ほぼほぼ」を使うことは、ひょっとすると見栄や虚勢の裏返しなのかもしれない。


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