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小説における移動時間

 しばらくnoteが書けずに放置していた間にも、何度か『小説の書きかた私論』を読んでくださったり、オススメをつけてくださったりして、本当に有難い限りです。この場を借りてお礼を申し上げます。

 自宅待機中でどうにも暇なときは、本を読んだり小説を書いたりすることが、ちょうどいい娯楽になります。小説に、自粛は要らない。小説を書くことで、たとえどんな形であれ自己満足であれ、手軽な自己実現も可能になります。賞を獲ったりコンテストで選ばれたりするだけが成功とも限りません。自分の読みたいものを書く、それだけで本来、楽しいはずですから。
 そんなとき、私のnoteがなにかしらの助けになれれば幸いです。本一冊相当の分量があるので、読むだけでも暇つぶしにもなりますよ(宣伝)。なんでこんなあからさまな宣伝文句を(非難の目を覚悟で)書き始めたかというと、こんな記事を拝読して共感したから。

 多くのお店がシャッターを下ろし、緩やかに経済が死んでいくさまを見せつけられている現状で、せめてネット空間において開けられるシャッターくらいは開けておいてあげたい。そう思ったのです。真っ当に経済を回す一員として、このコンテンツにささやかながら有用性があると信じればこそ、発信すべきことは発信したいと思います。

 ところで、このところ更新を滞らせてしまっていた原因のひとつに、例の「テレワーク」があります。
 自宅で仕事ができるのなら往復の通勤時間がなくなって、そのぶん暇ができそうなものですが、さにあらず。仕事が終われば当たり前のように子どもの世話があり、食事があり、風呂があり、寝かしつけがあります。そしてオンとオフの切り替えが難しく、疲れも感じにくく、ついつい夜更かしをしてしまいます。

 そしてなにより、通勤時間をそのままnoteを書く時間に充てていたので、それがすっぽり生活から抜け落ちてしまった格好です。電車の座席の振動に揺られているとすぐ眠くなってしまい、まともに本を読むことができないのは私だけでしょうか。その点、主体的に指を動かし続けられるスマホでの文章執筆なら、まだしも眠くならずに済みます。それでも堪らず、下書きの途中で眠ってしまうこともあるんですけど。

 移動時間というのは不思議なものです。テレワークやオンライン授業に慣れてくると、毎日の通勤通学ほど無駄なものはないと思うかもしれません。しかし、無駄なようでいて、じつは必要な時間だったのではないかと、最近のテレワーク体験を通じて思うようにもなりました。

 人は、移動するとき、なにも考えていないようでいて、じつはいろいろ考えている。たとえば街中の路上で、不案内な道を歩くときには地図を広げたりスマホを覗き込んだりしていますが、日常生活においてほとんどの場合は、勝手知ったる道を当たり前のように行くことになります。その途上、人は「あの角を右に曲がって、次を左に……」なんてタスクで頭をいっぱいにしているでしょうか。ロボットではあるまいし、多くの人が、今夜の晩ごはんのことを考えていたり、好きなあの子のつれない返事をふと思い出して落ち込んでいたりするはずです。その思考は脈絡もなく徒然と展開していく、いわば「無駄」そのものです。

 昨日公開したゲーム評でも触れたように、エンタメ作品における「移動時間」の演出は、じつはものすごく難しかったりします。

 ゲームの場合は、制限時間内に壁を登る、摩天楼のあいだを蜘蛛の糸を張ってスイングしていく、インクを地面に塗りたくって潜る、そして移動した先々にアイテムなどのご褒美(=誘因)がある、といったさまざまな形で、退屈になりかねない移動時間を演出していました。

 翻って、小説ではどうでしょう。

 小説は、かんたんそうでいて、じつは意外なところで難しい表現媒体です。その一例が「移動時間」かもしれない。小説では、たった一文の「説明」で、たとえば東京から大阪までひとっ飛びに移動できてしまいます。

 彼は十一時発の東海道新幹線のぞみ号に乗って、新大阪の駅に降り立った。

 たとえばこんなふうに書けば、もうおしまいです。決して短くない時間も、小説なら手間なく書けます。
 この機能はとても便利な反面、すっぽり抜け落ちる「描写」とのバランスに苦悩することにもなります。

(再び宣伝になりますが、説明と描写の違いについては『私論』に詳しく書いたので繰り返しません)

 彼が何度トイレに立ったのか、座席ではなにをしていたのか、窓の外の富士山は見たのか、目を閉じていたのか開けていたのか、なにを考えていたのか。それらがすべて抜け落ちてしまうことになります。
 作品によって場面によって、そういった「描写」が必要なこともあれば、不要なこともあります。ケースバイケースなので一概にはいえません。
 そもそも、小説であらゆるすべてを描写しようと肩肘を張っていると、待っているのは破綻です。極端な話、彼が左右どちらの足で新幹線に乗り込んだのか、どの座席を選んで背もたれを何度傾けたのか、心拍はどうだ呼吸はどうだ、そんな事細かなデータをまるで論文のように描写してみたところで、そこに文学的な試みがあるのならいざ知らず、多くの場合には無用の長物と化します。かといって、なにも描写しないままでは単なる記号に過ぎず、読者の共感は得づらい。悩ましいところです。

 リアリティーを考えると、移動時間には「無駄」が多く、描写すればするほど物語本来の筋とは乖離してしまいかねません。

 たとえば、ミステリーでは定番の「アリバイトリック」なんかはどうでしょう。犯人は時刻表の盲点を突いて巧みに犯行に及びますが、その長い道すがら、

「殺す殺す殺す……!」

 の一念だけを持ち続けているでしょうか。肝心の乗り換えトリックについては慎重に慎重に行動するにせよ、多くの時間を電車や飛行機のなかで過ごすことになるでしょうから、無駄も生まれます。これから人を殺そうとする、あるいは殺したばかりの犯人が、

「そういえば昼メシ食べてなかった。腹減ったな……。どこで食べようかな。あ、隣に座っているお姉さん巨乳だな」

 と考えていても不思議ではありません。
 そして、そんな移動中の犯人の雑念など知らぬげに、アリバイトリックはいつかは十津川警部に見破られるわけです。

 かように「無駄」が多いため描写しにくい移動中の思考ですが、それをうまく表現した小説の例として真っ先に思い浮かんだのが、夏目漱石の『草枕』の名調子でした。

 山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

 いやはや、いいですねぇ。

 ちなみに、なぜいいか。たとえば、人物の思考部分を丸カッコ( )やカギカッコ「 」で括ることなく、地の文にそのまま書いていくことの効果・メリットはどのようなものか……。

 そのことについても『私論』に書いてあります(やっぱり宣伝)。



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