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物語の因果関係

『鬼滅の刃』の快進撃が止まりません。

 これに関連して、興味深いnoteを読んだのでご紹介します。

 心理学系のコラムであり、直接の創作論のノウハウではありませんが、ノブ@心理学さんの推論は示唆に富んでいると思います。

(人間は)因果関係の推論能力が高いから、未来を予想して自分の知能でその未来になるように行動したり、悪い未来を予想するなら行動して予想した未来を変更することができるんです。
これくらいなら、まだ他の動物でもできますが、人間にはさらに虚構を想像するという鬼性能があります。

「虚構の推論」ができるのは人間ならではの能力であるという意見です。

 たしかに『鬼滅の刃』ひとつとっても、物語の因果関係には、じつは無理があります。

 たとえば、大枠の要素だけ抜き出すと、主人公の炭治郎は家族を鬼に殺され、さらに唯一生き残った妹を鬼に変えられてしまったことから、愛する妹を人間に戻すために、鬼を退治しにいきます。

 先の論考に当てはめてみれば、

●妹を人間に戻したい=個人(家族)へ帰属するアイデンティティー
●鬼を倒して世界平和を導きたい=集団(人類)に帰属するアイデンティティー

 となります。

 以前『小説の書きかた私論』で類型化したパターンにおいては「復讐譚」ですね(第二章「復讐/奪還/災害復興=幸せへの復帰」参照)。

 でも、ちょっと待ってください。
 因果関係を推論すると、

炭治郎「妹を人間に戻したい。そうだ、世界平和を実現すればいいんだ!」
象やカラスや出川やイルカ「お 前 は バ カ か ?」

 となってしまいます。
 じつはここに堂々と、虚構の飛躍があるのです。

 この点についても、すでに『私論』で書きましたから詳しくは繰り返しません(第二章「ハリウッド脚本式」参照)。

 要は、この論理飛躍の拡大再生産こそが、良くも悪くも哀しくも、エンターテインメントの本質なのです。

『鬼滅の刃』自体、完璧にワンアンドオンリーの素晴らしい個性を確立しているわけではありません。たとえば、先に挙げた一要素「鬼と化した妹を人間に戻したい」ですが、これと似た大ヒット漫画がそう遠くない昔にありませんでしたか? さまざまな意見があることと思われますが、たとえば私は『鋼の錬金術師』を想起しました。『鬼滅の刃』の妹は竹筒を口にくわえていますが『鋼の錬金術師』では弟が身体ごと失って、魂だけが鎧に宿っています。『鋼の錬金術師』でも、兄が弟の身体を元に戻すため、軍の駒として生きることを決意するわけです。あれ、鬼殺隊に所属することになる炭治郎となんだか似ていますね。入隊試験のくだりは、たとえば『NARUTO』などで描かれた成長の一過程です。

 世界観も独特ではあるものの、完全なるオリジナルではありえません。
「鬼を退治しにいく」というあらすじだけを抜き出せば、それはもう「桃太郎」の昔から親しまれた類型です。

 さらに、舞台設定は大正時代。いわゆる広義の時代劇です。だからこそ登場人物が刀を振り回していても違和感を持たれず、派手なチャンバラを繰り広げられる土壌が存在している。

 この現代に広義の時代劇が流行るのは、ある意味では喜ばしいことではないかと思います。
 流行というものにはある一定の閾値のようなものがあると個人的には考えていて、もともと『鬼滅の刃』は少年誌の連載漫画ですから、おもなターゲット層は中高生くらい。まずその世代のなかで人気を確立し、話題を飽和させなければ、他の世代にはなかなか広がっていかない。ところがある一定の閾値を超えると、そんなに売れているなら面白いのだろうと、本来なら少年漫画を守備範囲にしていない人たちの流入が一気に始まるのです。こうして、いい歳したおっさんが通勤電車でコミックスを読んだり、スマホやタブレットでアニメ版を観る姿が普通に見かけられるようになる(もちろん女性読者を多く獲得しているのにも、また別の要因があるようです)。

 余談ですが、その点『鬼滅の刃』は上手いことやったなと思っています。大正時代を舞台にしたチャンバラ時代劇なら、まだ中高齢層にも馴染みがある。その世代の流入がしやすいように門戸が開けられているのです。これが「異世界」だったら、ここまでの大ヒットには至らなかったでしょう。
 ちなみに、世代を超えた大ヒットにつながる閾値が存在するのと同様に、悲しいことですが逆の場合、すなわちジャンルが衰退するのにも閾値は存在するものと思われます。
 それこそ、このままでは時代小説は消滅の危機に瀕しているとさえ考えられる。読者層の高齢化が進む一方、若い読者の流入が少ない。いまの若い人がどれだけ「鬼平」や「半七」、藤沢周平先生やら池波正太郎先生、峰隆一郎先生らの作品を読んだことがあるというのでしょう。かくいう私も浅学ながら、決して満足に読んでいるとはいえないジャンルですし、また現代ものに比べると個人的な興味は相対的に薄くなります。
 もし版元が、若い読者の流入がまったくのゼロでない限りジャンルとして消滅することはありえないと楽観視しているようなら、それは怠慢だろうと思います。出版はあくまでビジネスですから、読者の減少がある閾値を超えた段階で紙の出版は叶わなくなり、電子出版のみに移行したり、同人・自費出版といった形にしたり、あるいはネットで無料公開したりするしか存続の道はなくなってしまうと推測するのは、果たして的外れなのでしょうか。
 以前も書きましたが、ジャンルの衰退は、それを支える読み手が引き起こします。

 その最大の加担者は、そのジャンルを志望している書き手です。なぜなら書き手は、同時に最良の読み手としてそのジャンルのことを知悉していないことには、デビューもままならないからです。他人の書きものに無関心ではいられないはず。

 これまで書いてきたように、エンターテインメントの本質が拡大再生産にあるとすれば、そのためには、より多くの作品を貪欲に吸収する必要があるのです。そうすることで「虚構の因果関係」を類推する力がつき、物語の文脈の勘どころが掴めてくる。

 そうした基礎を身につけて初めて、多くの読者に違和感なく自然に「虚構の推論」をさせる最大公約数的な拡大再生産の方法を見出せるようになるのだと思われます。

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