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この恥ずかしさはどこから来るのか

 またぞろ『新サクラ大戦』の話で恐縮なんですが、主要キャラのひとりに、クラリスというそれはそれは可愛い金髪のお嬢様がいます。

 公式サイトのプロフィール紹介には、

「帝国華撃団・花組」隊員、16歳。
 ルクセンブルク出身。
 本を読むのが好きな、
 知的で可憐な文学少女。

 とあります。

 ゲーム中では、本好きを買われて舞台の脚本執筆を任されます。しかし、引っ込み思案な彼女は、自分の書く物語に自信が持てない。

 プレイヤーの分身たる神山隊長は、なぜか幾度も劇場内で彼女の創作ノートを拾ってしまい、その恥ずかしい内容を盗み読んでは、じつは意外と言いかたがきつい彼女に罵られる羽目になります。

「忘れてください忘れてくださいいっそ死んでください」

 早見沙織さんに言われたら死ぬしかありませんがそれはさておき、自分の創作を盗み見られたら恥ずかしいという感情、小説を書いたことのある人なら、少なからず覚えがあるのではないでしょうか。プロでもなければ、小説を書いているということ自体を公言して歩いている人は少なく、伝えられる知人の範囲はある程度、限定されているはずです。まして、他人に見せるつもりのないアイデアノートのようなものであれば、盗み見られて恥ずかしいと感じるのは当然のことと思われます。

 この恥ずかしさの源泉はどこにあるのか。

 野球少年ならば、人目を憚ることなく、バットケースを背負ってヘルメットを被って、ユニフォーム姿で自転車を漕いでいます。スポーツ観戦やライブ鑑賞が趣味の人が、レプリカユニフォームやライブTシャツを着たまま電車に乗っているところもよく見かけます。大きくてゴツいヘッドフォンをつけている人や、ギターケースを背負ったバンドマンふうの人は音楽が好きなのかなと推測できますし、意外とアニメグッズを堂々と身につけている人も増えてきた気がします。

 それに比べて、机に向かってひとり孤独に文字だけで作品を生み出そうとする小説創作は、はっきりいって地味です。アイコンになるものもない。電車のなかでは確かに小説を読んでいる人を見かけますが、その人たち全員が全員、実作者であるはずがありません。

 いまでこそネットの発達により、このnoteのように気軽に作品を発表して、同好の士に読んでもらえる機会は格段に増えました。しかし、所詮は相手の顔が見えない匿名のネットでのことです。この恥ずかしさの源泉が完全に断たれたとは言い難く、依然として顔を合わせる場には存在しているはずです。編集として著者の先生方と当たり前のように接している私は、むしろこの感情が麻痺していて、気をつけなければ他人のそれを慮ってあげられなくなっているかもしれません。

 この恥ずかしさの源泉はどこにあるのか。

 田山花袋『蒲団』に始まり、
「自分をさらけ出すのが文学」
 と規定されたからでしょうか。
 もちろん先達による影響が皆無ではないかもしれませんが、基本的に創作は自由なものです。世には人殺しのミステリーが流行り、官能小説や、男性同士が愛し合うBLというジャンルもあります。

「文学は食えない」
「破滅的な人間がとる最後の手段だ」
 という世間の目もあるでしょうか。
 映画『耳をすませば』の雫のお父さんも、

「人と違う生き方は、それなりにしんどいぞ」

 と言っています。
 人と違う、もっといえばまともでないと思われているふしが、まったくないとはいいきれないでしょう。

 とはいえ最たる理由は、創作物そのものにあると私は思っています。
 抽象的な記号たる文字だけで感情を表現する小説という手段では、なぜだか絵画やダンスや音楽などとは異なり、個人的な思い入れが強くなりがちです。小手先のテクニックによらず、感覚がそのまま筆先に直結するというか。本当は、プロとして書いていくためにはある程度の小手先のテクニックと量産できる態勢がなければならない(そうすることで、恥ずかしさをも恒常的に軽減できる)と考えていますが、そのプロにだって、絶対に編集者による意見を容れたくないラインというのが、必ず存在します。
 ゆえに、小説を読まれることは、裸を見られるような羞恥を伴うのです。

 この恥ずかしさは、ある意味、誰しも共通である。

 そう考えたら、恥ずかしいと感じることを恥ずかしがる必要はないのだろうと思います。恥ずかしさを所与のものとして、書いていく。それでいいのではないでしょうか。

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