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小説の再現性について

 ひとつの作品を書いたら次も、そのまた次も、小説のクオリティーを一定以上に保ち続けるのは、非常に困難なことだと痛感します。

 以前から何度か書いていますが、高度で繊細な領域に踏み込めば踏み込むほど「再現性」は、芸術であれスポーツであれ、あらゆる分野で重くのしかかってくる永遠の課題です。

 こと小説において、その「再現性」を最も必要とされるのは、あるいはショートショートという稀有なジャンルかもしれません。

 人間、誰しもなにかしら独自の発想というのを持ち合わせているはずですから、アイディア一発、あの星新一先生に勝るとも劣らないくらいの名作傑作を物せる可能性は、充分にあります。いや、既にネットのどこかにひっそりと埋もれていないともいいきれない。少なくとも長編小説よりは遥かにその可能性は高いはずです。

 もしプロ野球の投手が、たとえば県大会準々決勝止まりくらいの高校生相手に投げれば、まず間違いなく完封勝利を収めることでしょう。しかし、野球は確率のスポーツです。ボテボテの内野ゴロの転がった場所が悪くて内野安打を許してしまったり、味方のエラーから塁に出してしまったりすることくらいはあるかもしれません。

 長編小説の書き手を投手に喩えるなら、九回まで二十七個のアウトを重ねて完投勝利を上げるために、多少の被安打や失点には目を瞑ることになります。

 しかし、ショートショートはいわば一打席勝負、いや一球勝負。投手は打者を幻惑しようと、コースや球種をさまざまに工夫しながら投げますが、狙いすぎたあまりにフォアボールを出すこともあれば、暴投してしまうことだってあります。高校生の苦し紛れのセーフティーバントが偶然にも完璧に決まり、意表を突かれてしまうことがないとも限りません。

 私なぞ、久しぶりにショートショートらしき作品をひとつ書いただけで、もう次のアイディアがなかなか浮かびません。せめてこの習作程度のクオリティーを保ちたい……と思うと、いいアイディアがなかなか浮かばないのです。この「再現性の壁」はショートショートに限らず、あらゆる創作において高く高く立ちはだかります。

 ショートショートに必要なのは、アイディア一発のまぐれ当たりの特大ホームランよりも、面白さの質を保ち続ける打率であるように思います。もちろん、打率を保ち続けたうえで、ときには特大ホームランを打てるバッターが最強であることは当たり前ですが。

 この打率を残すことがやたらと難しいゆえか、ショートショート作家は不遇の時代にあります。現状、第一線でショートショートだけを看板に掲げて成功しているのは、田丸雅智先生くらいでしょうか。版元の立場を想像してみると、まず「ショートショートは売れない/売りにくい」という考えが先に立ちます。絶対的な基準などそもそも存在しない「面白さ」なるものの打率を保証するのがかなりの困難ですし、各編の短さゆえに特大ホームランもなかなか出づらい。売り出すポイントを定めるのが難しいのです。田丸先生でさえ「星新一の孫弟子」というキャッチフレーズがついて回ります。

 とはいえ、個人的にnoteはショートショートと親和性が高いと思っています。

 また、オンオフの切り替えが難しいリモートワークの世の中にあって、わずか五分で息抜きができるショートショートは、再注目されておかしくないジャンルでもあると思います。一歩も外出せずに住み慣れた自宅で仕事を続けるとなると息が詰まるし、変化がなくて退屈です。その点、息抜きに読んだショートショートの自由な発想が、仕事にもいい刺激を与えてくれるかもしれない。

 打率を上げるためには、なによりも書いて、書いて、書きまくること。
 それしかありません。

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