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特殊な設定?

 なぜか「特殊設定ミステリ」の話がTwitterのタイムラインにちらほら出ていたので、あくまで自分のための覚え書きを残しておこうと思う。

 作品世界を創り出す神たる著者が、メタ的に作品世界内に「設定」した「特殊」な《公理》があって、その《公理》の下で論理的に演算して謎解きしていくのが「特殊設定ミステリ」なるジャンルではないかと、個人的には理解している。
 しかも、この《公理》は謎解きの意外性、独自性の演出のために著者によって意図的に用意されるものであり、その《公理》に則ることでしかその謎解きはなしえないというような必然性を併せ持つ。
 
 数学は大の苦手なのに「公理」という用語を使ってしまった行きがかり上、数学に喩えてみよう。ある直線lの外にある点aを通って、直線lに交わらない平行線はただ一本だけ存在する。このユークリッド幾何学の公理に則って解かれるのが、現実世界をモデルにした、いわゆる普通のミステリとする。
 ところが「特殊設定ミステリ」では、非ユークリッド幾何学のように「平行線は存在しない」とか、逆に「平行線は二本以上存在する」という事実を自明の理として設定し、それに則って謎解きを行なう。作者が「平行線は二本以上存在する」と書けば存在することになるのだ。しかも、その特殊な設定が謎解きの肝となっており、意外性の演出に役立っている。ユークリッド幾何学では見られなかった景色が、そこでは見られるわけだ。

《公理》は物理法則や時間など、あらゆるものが考えられる。
 たとえば重力が地球の半分だとしたら、重力が半分の世界だからこそのユニークな物理トリックが生まれ、これが暴かれるかもしれない。
 時間を動かす《公理》として昔から有名なのは、タイムリープものだろう。タイムリープなど現実世界にはありえないけれど、著者が「ある」といえば作品世界内では「ある」ことになってしまう。その発動条件もまた著者のメタ的な設定の及ぶ範囲で、奥歯を噛めば時間の流れを遅くできたり、オカリナを吹けば時間を遡行できたり、それはもうさまざま。作者の決めたルール内で時間を用いたトリックが仕掛けられる。
 時間遡行ものには、現実世界を基準にすると往々にして逃れられない根本的致命的な論理の矛盾が生じるものなのだが、著者も編集者も納得ずくであえて不問に付して設定をゴリ押すことがある。著者が「そう」だといえば「そう」だからだ。
 その《公理》が、特定の人物だけに特別に与えられることもある。タイムリープ能力だったり、透視能力だったり、予知能力だったり。いわゆる「異能バトル漫画」と似たようなものだ。どんなに現実離れしていようと、著者が授ければその異能は作品世界内には存在しえて、謎解きにおいて重要な鍵となる。たとえば『デスノート』なんかも、作者が定めた《公理》がガチガチに固められていて、そのルールに則って推理ゲームが進んでいた。

 私がここまで《公理》と書いているのは、広義の「設定」とはちょっと異なる。
 医療ものを例に考えてみよう。現実世界の医療を下敷きにし、存在しない架空の病院や、架空の診療科などを舞台に据えるのは「設定」に過ぎない。出てくる病気や治療法は現実をモデルにしたものとなる。
 ところが現実にはありえない「著者完全オリジナルの病気」が作品世界内に存在するとなれば、それは《公理》だ。そのオリジナルの病気の発症条件やら治療法やらを探るのは、特殊設定ミステリといえよう。『ひぐらしのなく頃に』などもそうだった。
「特殊設定ミステリ」という造語のうち「設定」の語が、もしかするとカテゴリーミステイクを引き起こしてしまう一因なのかもしれない。いうなれば「特殊公理ミステリ」だ。

 以上、広義のミステリについて考察してきたが、読者に対してフェアであることを信条にする「本格ミステリ」に限定すれば、話はもう少しわかりやすくなるかもしれない。

 本格ミステリを標榜するならば、たとえ「読者への挑戦」を謳った作品ではないにしても、作中、伏線がすべて出揃ったポイントで「読者への挑戦状」を差し挟んで違和感がないように作られているはずである。
 通常のミステリにおける、この仮想上の「読者への挑戦状」挿入ポイントまでの出題部分を、詰将棋に喩えてみたい。通常の本格ミステリでは、広く一般に知られている駒の種類や動かしかた(=将棋における公理)を前提に、玉方、攻方の盤面図が提示される。
 ところが「特殊設定ミステリ」では、出題者が突然、誰も知らない「俺の考えたネオ詰将棋」のルール(=《公理》)を開陳する。たとえば、前方1マスにしか動けないはずの歩に「異能」を持たせて、任意の前方1マスないし2マスに移動できるようにすると。これだけでも、解くために検討すべき手は相当増えるだろう。この「ネオ詰将棋」が出題されるのが、本格ミステリにおける特殊設定ミステリだと考えている。

 通常のミステリと特殊設定ミステリとを比べると、真相が明かされたときの驚きの質が変わるかもしれない。
 優れた詰将棋は、百戦錬磨の将棋好きをも唸らせるであろう。歴戦の猛者でも「その手があったか!」と目を見開かされるはずだ。
 ところがネオ詰将棋は、いかに将棋に精通したプロであっても、いつもとは違うアプローチでの推理を強いられる。指したことのない初めてのルールに則って解くわけだから、過去の経験に加えて適応力、応用力が問われることになるだろう。その果てに「お手上げ」となって模範解答を見て意外な一手を示されたとき、純粋に「なるほど、その手があったか!」と驚けるだろうか。特殊設定の特殊度が——ネオ詰将棋においては、普通の将棋とのルールの乖離具合が——大きければ大きいほど、驚きは小さくなってしまうおそれがある。
 なぜなら、詰将棋の「その手があったか!」という驚きは、過去の膨大な経験に基づいているからだ。過去の膨大な経験をもってしても解けなかった詰将棋の解答を示されたとき、将棋の玄人は驚きと知的興奮を覚えるであろう。逆にいえば、指し始めたばかりの初心者がいきなり四十一手詰の解答を示されても、ぽかんとするだけなのが関の山。前提となる過去の経験がないから、驚きようもないのだ。
 ゆえに、過去の経験をそのまま当てはめて活かすことのできないネオ詰将棋となると、驚きの度合いは少なからず減衰してしまう。ネオ詰将棋で勝負したいならば、出題者は解答者がルールをいち早く無理なく把握できるよう、簡潔かつ明解な説明を工夫すべきだ。なるべく過去の経験を活かしたまま推理を行なえるよう、将棋でいえばどうぶつしょうぎの三×四マスだったり、5五将棋だったり、駒の動かしかたそれ自体は変えないようなアプローチなども検討する余地がある。

 とはいえ。
 これが特殊設定ミステリだ、あれは特殊設定ミステリではない、などとジャンルを細分化していくのは、狭い書き手の世界で作品の構造を分析し、トレンドを探るには有用かもしれないが、あまり読者のほうを向いてはおらず、読者の視点に立てばナンセンスと捉えられてしまうかもしれない。
 それこそ、いつか特殊設定ミステリの対義語として、純文学よろしく「純ミステリ」なんて言葉が出てきてしまった日には、私は頭を抱えるだろう。エンタメと対置される「純文学」なる分類ほど空疎なものはないと個人的には思っている。

 また、いまやウェブ上に無数に存在する私的な雑記が随筆だろうがエッセイだろうが日記だろうが、私はいずれでもいいし興味もない。

 結局のところ、特殊設定ミステリだのなんだのは、ミステリ好きだけが興じている言葉遊びに過ぎないのだ。大多数の読者にとって重要なのは、面白いか面白くないか、その一点のみ。面白いミステリもあれば期待外れのミステリもあるし、面白い特殊設定ミステリもあれば、つまらない特殊設定ミステリもある。
 再び幾何学を例に出せば、我々が紙の上に鉛筆で描いて理解している(と思っている)ユークリッド幾何学だって、じつは紛いものに過ぎないのだ。ユークリッド幾何学の公理上、直線は鉛筆ほどの太い厚みを絶対に持たないし、紙の上に幾何学的な「無限」を表出させることが不可能な以上、二本の平行線がどこまで行っても本当に交わらないままなのかどうか、直感的に可視化することは不可能だ。
 同様に、文字で創作されたミステリ自体がそもそも紛いものなのだから、扱われる題材が特殊かそうでないかも、些末な問題に過ぎない。いやそもそも殺人をまるでパズルのように扱うこと自体、倫理的に考えて、リアルであってもらっては困る。

「んなことみんなわかって楽しんでんだよ」

 ってやつである。



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