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【出題編】 木嵜刑事の供述調書

出題編


「それでは、廣中慎治さん。前回の事情聴取で録取した内容を踏まえて、廣中さんの供述調書の下書きを作成しました。いまから私が読み上げますので、誤りがあった場合には都度訂正してください。いいですね」
 木嵜刑事の言葉に、廣中慎治は無言で頷いた。刑事課の取り調べ室といってもテレビドラマでよく見るような、格子窓から斜めに夕陽が射し込んでくる陰鬱で黄昏れた雰囲気はなく、四方に窓がない代わりに白色のLED蛍光灯が煌々と輝き、スチールデスクにパイプ椅子だけが置かれた、オフィスの小会議室然とした簡素な部屋である。デスクの上にお決まりのスタンドライトが置かれているわけでもない。
 ただし、木嵜刑事は有無を言わせず廣中を扉から最も遠い壁際の椅子に座らせて、自分は入り口に近いほうの椅子に踏ん反り返った。上座を譲ったといえば聞こえはいいが、デスクはあからさまに、廣中寄りに詰めて置かれている。ドア横の壁際のデスクにはもう一人、あとから部屋に入ってきた若い刑事がこちらに背を向けて座り、記録係としてパチパチとノートパソコンを叩いているから、この位置関係は逃亡を防ぐための通常の対応なのだろう。廣中は犯人ではなく、むしろ嫁を殺されかけた被害者側なのだが、それでも言い知れぬ圧迫感を覚えた。
 木嵜刑事は、手もとの下書きを淡々と読み上げ始めた。
「廣中慎治、東京都中野区上鷺宮×の×、一九七七年六月八日生まれ、四十一歳、株式会社白波音響営業部勤務。間違いないですね」
「はい」
 今度はしっかり声に出して、廣中は肯定の意を示した。調書の下書きがホチキスで数枚束ねてあるのを見ると、手短には終わりそうにない。廣中は覚悟した。
「私こと廣中慎治は、一月二日午後一時十三分、東京都中野区上鷺宮×の×にある自宅で、妻みどりおよび友人三名と食事中、みどりが突然、中毒症状を引き起こしたため、一一九番通報しました。当日の状況についてお話しします。……ここまでは間違いありませんね」
「はい」
 廣中が「はい」と言うたび、記録係の若い刑事がパチリパチリとノートパソコンを打つ音が追いかけてくる。廣中の発言ひとつひとつが文書として残り、法的に効力を持つのだろう。廣中の手には知らず汗が滲んだ。
「私は、事件当時、みどり、黒須智和、永瀬龍彦、松嶋明音と五人で鍋パーティーを催していました。妻の廣中みどりは専業主婦、三十八歳。黒須智和、四十一歳は会社の同期。永瀬龍彦、二十九歳は会社の後輩。松嶋明音、三十五歳は夫婦共通の十年来の友人で、勤務先はシオミカメラ。仕事上のつながりで黒須および永瀬とも親交がある。いいですね」
 そういえば永瀬はまだ二十代だったか。廣中は押し寄せてくる情報量の多さに戸惑い、一瞬思考が停止しかけたが、少し間をおいたあと「はい、そうだと思います」と応えた。
 パチリパチリパチリパチリ。
「続けます。その日は午前十時から自宅に黒須、永瀬、松嶋の三名を呼び、映画の鑑賞会を催していました。これは過去四年ほど、正月恒例の行事となっています。今年は、私が昨年末に購入したばかりのシアターオーディオシステムのお披露目会も兼ねていた。そうですね」
「はい」
 廣中が勤める白波音響は、音響機器の企画・製造・販売を行なう会社である。営業担当の廣中、黒須、永瀬は根っからの音響マニアであり、それぞれ自宅にこだわりのスピーカーシステムを所有していた。ハイエンドのスピーカーとなると、興味のない人には眉をひそめられてしまうくらい桁違いに高価なものになる。それでも新商品が出れば買いたくなってしまうのがマニアの性というやつで、給料の大部分がスピーカーに費やされるといっても過言ではない。幸い、かつては白波音響の社員であった嫁のみどりにも一定の理解があり、松嶋明音を加えて同好の士が五人集まれば、自然とオーディオ談義に花が咲く。
「鑑賞したのはミュージカル映画『レント』。私も見ましたよ、あの映画。たしか年越しのシーンがありましたっけ。感動しました。いやいや失敬、これは余談です。手越くん、記入しないでくださいよ」
 苦笑しつつ、木嵜刑事は振り返って背後の若い刑事に声をかけた。若い刑事は手越というらしい。手越はこちらに背を向けたまま、タイピングの手を止めて固まっている。記録係は言葉を発してはいけないという決まりでもあるのだろうか、背すじがピンと伸びて、いかにも警察官らしい毅然とした佇まいだった。その忠実な部下の後ろ姿を見て「よしよし」と満足そうに頷いて、木嵜刑事が廣中に向き直る。先ほどまで厳めしく見えていた木嵜の表情に、柔和な微笑みが覗いていた。廣中は、少し緊張がほぐれるのを感じた。
「映画の上映が午前十時から午後〇時十五分まで。ブルーレイ盤の商品表示によれば同映画の上映時間が一三五分となっていますから、休憩なしのノンストップ上映でした。その間、席を立った者はなし。自宅はカウンターキッチンになっていて、キッチンの内側からもスクリーンを見ることは可能でしたが、鍋のスープの仕込みはあらかじめ終えてあったため、みどりも加わって五人全員、リビングに座っていたと。ここまで、どうですか」
「間違いありません」
「上映終了後、私たちは、四十五分間の休憩に入りました。『手伝いますよ』という松嶋明音の申し出を断わり、みどりはカウンターキッチンでひとり、ご飯を炊いたり鍋を温めたりといったパーティーの準備に取り掛かりました。黒須と松嶋は、先ほど聴いたオーディオシステムの感想を語り合い、私は後輩の永瀬と世間話をしていました。そうですね」
「はい」
 松嶋明音は、大手家電量販店シオミカメラのオーディオ売り場の販売員だった。二十代前半の入社当時はオーディオに興味を持っていなかったが、彼女をオーディオの「沼」に引きずり込んだのは、他ならぬ嫁のみどりである。勉強熱心な彼女は短期間で各社オーディオ機器の知識を貪欲に吸収し、みどりが寿退社してからも、後任の黒須智和と淀みなく一対一で話せるまでに成長していた。廣中から見て同期でありライバルでもある黒須は生粋のオーディオオタクであり、その話についていくのは容易ではない。黒須は最近、若くして知識豊富な松嶋と話すのが楽しくて仕方がないというようなふしがあった。
「ところで、世間話といってもさまざまですが、後輩の永瀬さんとは、そのとき具体的にどんなことを?」
「仕事には関係ない、いろんなことです。彼はまだ独身なので、今年は結婚できそうかどうか、いい相手はいるのか、とか。サッカーが好きだというので、その話もしましたよ。前日に行なわれたサッカー天皇杯決勝の話で盛り上がったのを覚えています。永瀬は部下のなかでも営業成績で伸び悩んでいるところがあって、私も気にかけてはいるのですが、年明け早々からプレッシャーをかけてもよくないですからね。仕事の話はしないようにしていました」
「なるほど。廣中さん、いい上司なんですね。すみません、また話が逸れてしまいました」
 木嵜刑事はそう言って頭を掻いた。廣中も愛想笑いを返す。実際の職場では少々きつい口調で永瀬を叱ることもあるのだが、それがパワハラだという自覚はないし、事件に関係あることではないから、わざわざ言う必要もない。それに、最近の永瀬は、九つも歳上のみどりにたびたび色目を遣うことがあった。当のみどりも満更ではなさそうなのが、余計に廣中の気に食わなかった。この件は、いつか永瀬に問い質さなければならないと考えていた。
「では、調書の読み上げを続けます。休憩時間中、カウンターキッチンに入った者は、みどりの他にいませんでした。トイレに立ったのは、〇時三十分ごろに永瀬。それから続けて私。間をおいて四十五分ごろに黒須。みどりと松嶋の女性ふたりは、一度もトイレに立つことはありませんでした。これで間違いありませんか」
「はい。時間は大体なので誤差はあるかと思いますが、順番は合ってます」
「ふむ。続けます。私がトイレから戻ったあと、永瀬が『ブルーレイやCDのコレクションを見せてほしい』と言い出したので彼を書斎に案内して、私だけリビングに戻って黒須、松嶋との会話に参加しました。先ほど見た映画の感想などを話したことを覚えています。四十五分ごろ、黒須がトイレに立ったのを潮に会話は終わり、松嶋は『なんだか目がチカチカして疲れた』と言って、持参した使い捨てホットアイマスクを着用してソファーで休みました。鑑識の鑑定結果の通り、彼女が使ったホットアイマスクはあずき入りの市販品で、持続時間は約十五分。鍋パーティーの開始は一時からとあらかじめ伝えてあったので、ちょうど使いきれるくらいの時間だったと思います。黒須がトイレに立ったのが四十五分というのは、そのことが根拠にあります。ここまで、間違いありますか」
「間違いありません」
 廣中は首を横に振りつつ、不自然でなかっただろうかと内心で冷や冷やしていた。廣中は本来、永瀬とみどりの道ならぬ関係を疑う立場にはない。じつは廣中自身、松嶋明音と不倫関係にあったのだ。しかも最近、黒須がそれに気づいているのではないかと思われる出来事が何度かあった。どうやら黒須も、話が合う松嶋に惚れているのではないか。そんな警戒もあって、松嶋とふたりきりで親しげに話すのは、お互いになんとなく避けていたのだった。
「さて、鍋パーティーは、予定通り午後一時ごろから開始しました。まず私が書斎まで永瀬を呼びにいくと、永瀬は一枚のCDを貸してほしいと申し出ました。私は快く了承し、彼にCDを貸しました。彼はダイニングに戻ってテーブルにつく前に、リビングに置いてあった自分の鞄にCDを仕舞っていました。代わりにパーティー用に持ち寄った惣菜のパックを取り出して、席についた。その行動に、特に怪しいところはなかったと思います。これは本当ですね」
「私は先にダイニングテーブルについていて、リビングを見渡せる位置に座っていましたので、怪しい動きをしていたら目についたと思います」
「ほう。そのダイニングテーブルについた順番ですが、リビングからダイニングに移ってきた黒須が一番乗り。次に書斎から戻ってきた私。続いてCDを仕舞い終えた永瀬、鍋を持ってきたみどり、最後がアイマスク休憩を終えた松嶋でした。この点に間違いは?」
「ありませんよ。松嶋さんが『あー、終わっちゃった』と言っていたのは、あれはアイマスクの温熱効果のことだったんでしょうね。やたらと眠そうにしていて、ずっと片目をこすっていたのを覚えています。テーブルについてからもしばらく突っ伏していました。私が永瀬を書斎に迎えにいっているあいだ、黒須がなにをしていたかはわかりませんが、たぶんリビングでぼーっと座っていたんだろうと思います。横で松嶋さんは眠っていましたし」
「たしかに黒須さんには空白の一、二分間があるようですね。ふむ。鍋の内容物は、鑑識による鑑定結果の通り、蛤、蜆、煮干、昆布、鰹、それから鳥手羽の出汁をすべて漉したスープに、具は白菜、長葱、えのき、椎茸、春菊、豆腐、それから焼き餃子、パイナップル、アジフライ、駄菓子の『うまい棒』に『ベビースターラーメン』でした。ま、間違いありませんよね?」
「はい」
 こともなげに頷く廣中に、木嵜刑事は少々面食らったようだった。前回の聴取でも一度話して聞かせたことなのに、木嵜には味の想像がつかないらしい。
「また余談になりますがね、鑑識のやつが驚いていましたよ。試しに再現してみたら、意外とアレで美味いらしいですね。スープごった煮の時点で私なんかはウゲッとなってしまいますが、なかなかどうして、そのスープが美味しいと。よほど奥さんのお料理がお上手なんでしょうね」
「まあ、嫁は下手ではありませんね、有り難いことに」
「羨ましいことですなあ。さ、続きを読みましょう。私たち五人は一斉に鍋を食べ始めましたが、みどりを除く四人はなんともありませんでした。実際に刑事さんに見せてもらった鑑識の鑑定結果の通り、鍋の内容物自体には毒は入っていなかったと思います。そうですね」
「はい」
「パーティーの席の配置は、次の通りです。カウンターキッチン側に私とみどり。私が窓側で、妻は私の右横に座りました。妻がその席を選んだのは、カウンターキッチンに最も近く、給仕をしやすいからです。向かってリビング側に三人、窓側から順に黒須、永瀬、松嶋。これは、窓側から順に席についたからです。例年、黒須は決まって、私の向かいに当たるその席に座っていました。仕事上ではライバルであると同時に盟友ですから、これでも仲がいいのです。私の向かいに黒須、真ん中に永瀬、妻の向かいに松嶋という位置関係でした。絵図に描いて、証拠品として提出いたします」
 調書を読み上げながら、木嵜刑事がデスクの上に一枚の紙を差し出した。確かに前回の聴取のときに廣中が描いた略図である。仰々しく「証拠品袋」に入れられているのを、廣中はしげしげと眺めた。
「はい、間違いありません」
「ご確認ありがとうございます。さあ、ここからが大事なところですよ。録取した言葉をなるべく要約せず、忠実に再現していきます。午後一時のパーティー開始から五分と経たず、みどりは何者かに毒を盛られたようです。犯人は誰か。そのとき、嫁が聞いた人物です。『鍋に変なものを入れたのは誰!』と、みどりはかなりの大声で聞きましたが、最初は誰も気に留めませんでした。それもそのはず、現場では当時、大音量で音楽が流れていたのです。そうですね」
「ええ、まあ、はい」
「もう、なんでそんな余計なことを……」
 木嵜刑事は小声で愚痴をこぼしてから続けた。
「私が大音量で音楽を流していたのは、スピーカーのエイジングのためでした。エイジングとは、新しく購入したスピーカーから長時間、大きな音を流す慣らし運転のようなものです。そうすることでスピーカー本来の綺麗な音が出るようになる。そうなんですね?」
「はい。鍋パーティーの余興として爆音のBGMがエイジングを兼ねることは、あらかじめ参加者の全員に伝えてありました。鍋の食材といい、私たちマニアというのは大概、変わった趣向が好きなんですよ。かれこれ四年も集まりを続けていれば、飽きたりもしますしね」
「私ら警察官にはわからない世界ですなあ」
 木嵜刑事は嘆息してから調書に視線を戻した。
「みどりの異変を最初に察知したのは永瀬でした。一時十分過ぎ、斜め向かいで箸を止めて無言で苦しんでいるみどりを見て『おかしいぞ!』と叫んだのです。鍋を食べることに夢中だった私と黒須と松嶋は、みどりの様子を見て慌てて立ち上がりました。松嶋は食べたものを吐き出させるために、みどりをトイレに連れていき、背中をさすり始めました。私は音楽を切り、リビングの固定電話から一一九番通報をしました。黒須と永瀬はどうしてよいかわからず、オロオロしている様子でしたが、明らかに動揺が見られました。みどりが使っていた取り皿を含め、どの取り皿にも、黒須あるいは永瀬が細工を仕掛けた素振りは見受けられませんでした」
「その通りです」
 事件当時の光景を思い出した廣中は、やや青褪めた顔で答えた。
「以下は、消防に入った通報の録音をもとに再現します。一月二日午後一時十三分付の入電。『火事ですか、救急ですか』と聞かれ、私は即座に『救急です』と答えました。住所、氏名、電話番号を聞かれたので正確に名乗り、近くに何か目印になるものがあるかどうかという問いにも、真向かいにある小さな公園を挙げました。患者の症状は『食中毒』と答えました。どうですか廣中さん、この点は間違いないはずです。私も録音を聞かせていただきましたが、はっきりと落ち着いて答えておられました。素人にはなかなかできない、素晴らしい対応です」
「いえいえ、そんな。私や他の三人は同じ鍋を食べてもなんともなかったわけですから、大したことないだろうと楽観視していたのです。そのときは。それがまさか、あんな……」
 そう言って廣中は声を詰まらせた。無理もない。みどりはいま、昏睡状態で入院中なのだ。命に別状はないという医師の見立てが不幸中の幸いではあるが、いつ意識が戻るのか定かではない状態では、内心、気が気ではない。
「さぞお辛いこととお察しします。我々としても、一刻も早いご快復をお祈りしているんです」
「ありがとうございます」
 と返しつつ、廣中の胸中は複雑だった。奥様の言動からすると、奥様が毒を盛った人物の顔を見たか、あるいはどちらの方向から手が伸びてきたのかくらいは目撃していた可能性があります。奥様の証言によってそれが判れば、たちどころに事件は解決するでしょう。言外に、木嵜刑事にそう言われたような気がしたのである。
「供述調書はあと少しです。続きを読みますね。私は、救急車が到着すると庭先まで迎えに出て、松嶋明音がみどりを介抱するトイレまで救急隊員を誘導し、救急隊員の指示に従って救急車に同乗、中杉通りを南下して杉並区にあるK総合病院まで緊急搬送されました。家の鍵は同期の黒須に託しました。その黒須をはじめ永瀬、松嶋の三人は自宅の施錠確認後、追ってタクシーで病院に駆けつけてくれました。病院到着後、二十分ほど経ったころだったと思います。その後の警察の調べで、現場に残されていたみどりの取り皿のみから毒物が検出されたと聞きました。捜査の都合上、毒物の名前を明かせないことも把握しました。毒物はオブラートに包まれた粉末だったということですが、私にはまったく心当たりがありません。みどりが普段から粉末状の薬を飲んでいたということもありません。間違いありませんね」
「はい。本当にみどりは、あの三人のうちの誰かに殺されようとしていたんですね……」
「我々警察は殺人未遂事件として、本件を捜査しています。さて、次のパラグラフで今回の供述調書は終わりですよ。私には、最愛の妻であるみどりを殺害する意思はまったくありませんでした。同席した黒須智和、永瀬龍彦、松嶋明音に関しても、みどりを殺害したいほど憎む動機があったとは思えません。以上、本官録取のうえ調書とする。警視庁野方警察署司法警察員、木嵜翔彦。これでよろしいですか」
 そこで一瞬、廣中は答えるのを躊躇してしまった。本当は、同席した三人とも動機を持ち得るからだ。
 黒須はもともと、会社員時代のみどりに惚れていたというから、同期の廣中がみどりを射止めたことが悔しかったに違いない。そこへ来て、今回の松嶋明音との不倫疑惑だ。再び幸せを奪われそうになった怒りから、廣中の幸せの象徴たるみどりを殺そうとしたとしても不思議はない。廣中を殺すのではなく、みどりを殺すことによって、生きたまま廣中に地獄を味わせようという魂胆だろう。
 永瀬龍彦には、みどりとの不倫疑惑がある。痴情の縺れから犯行に及んだとしても驚けない。加えて、廣中による仕事上の叱責を本人がパワハラだと感じていたとしたら、廣中を悲しませ困らせてやろうという心理が働くかもしれない。
 松嶋明音とて例外ではない。みどりさえこの世にいなければ、廣中との不倫は不倫でなく純潔な恋愛だったのだ。みどりが死ねば、いずれ廣中が松嶋と再婚する目も出てくる。みどりが死んだら廣中が困ることは想定できたはずだが、松嶋はまだ若い。思い余って……ということは、あり得なくはない。
「誰にも動機はない。ええ、思い当たるふしはありません。ところで刑事さん、先日名刺をいただきましたが、お名前、かけひこって読むんですね。きざきかけひこ。なんだか珍しい響きで、格好いい名前ですね」
 うまく誤魔化せただろうか。廣中が木嵜刑事の顔色を窺うと、木嵜は照れ笑いを浮かべ、また頭を掻いていた。
「いやいや、カ行が多くて呼びづらいって不評だったりするんですよ。さ、これで供述調書の文面は固まりました。あとはご署名と指印を、ここと、それからここにいただけますか」
 木嵜刑事に言われるままに、廣中慎治は書類に署名し、左手の人差し指を黒のスタンプ台に押しつけて指印を捺した。指に残った黒いインクを、木嵜の差し出したティッシュで拭き取る。二度目の聴取ということで、手続きはスムーズに進んだ。
 しかしこのとき、廣中慎治の脳裏には、みどりを毒殺しようとした犯人の顔が浮かんでいた。いや、既に一度目の聴取の時点で気づいていたのだ。
 みどりが意識を取り戻せば、早晩、犯人の名前は割れるかもしれない。それまでに自分はどう動くべきか……。廣中は思案しつつ、自宅への帰路についた。

読者への挑戦状


 賢明なる読者諸君へ。
 私は読者に挑戦する。
 いま、諸君の前には、すべての手がかりが与えられている。
 頼りになるのは論理――ロジック、ただそれだけだ。
 これらの手がかりを用いて、諸君らが解くべき問題はひとつ。
 廣中みどりを毒殺しようとした犯人は誰か。

廣中慎治  廣中みどりの夫
黒須智和  廣中慎治の同期
永瀬龍彦  廣中慎治の後輩
松嶋明音  廣中らの共通の友人


解決編


 2020年2月17日付で解決編を公開しました。下記のnoteから読むことができます。

 ただし、今後も純粋に推理を楽しみたいという方のために、この「出題編」のコメント欄は「ネタバレ禁止」とします。解決編を読む前に考えた推理の軌跡のみ、書きたい方はこちらのコメント欄にお書きください。


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