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連載 関東大震災映像デジタルアーカイブ・こぼれ話 第5回―岩岡商会のカメラ、下谷坂本から激震地・浅草北部へ

 関東大震災映像デジタルアーカイブにコラム「目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて」を寄稿しました。
https://note.com/shitaya_office/n/n364458d8b4fc
 
 5回の連載で、コラムに書き切れなかった、「こぼれ話」を紹介します。
 第5回は「岩岡商会のカメラ―下谷坂本から激震地・浅草北部へ」です。
 
 関東大震災では、本所区・深川区などの「江東低地」、神田区今川小路から神保町、猿楽町あたりの「神田西部」、下谷区龍泉寺から吉原、山谷あたりの「浅草北部」という、3か所の犠牲集中地区がありました。これらは、軟弱地盤の沖積層が厚い地区で、激震に襲われたため、多くの家屋が倒壊し、したがって早い時期に火災が多発した地区と重なります。
 
 コラムでは、「江東低地」と「神田西部」の出火の様子を捉えたクリップを紹介し、コメントを加えました。
「吾妻橋から大日本麦酒工場の火災を見る」(本所区枕橋界隈、江東低地)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_008.html
「火災炎上中の神田方面を望む」(神田区今川小路界隈、神田西部)
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/clips/m01_005.html
 
 ところが先日、ドキュメンタリー映画『キャメラを持った男たち―関東大震災を撮る』を見たところ、「浅草北部」の状況を撮影したフィルムとして、岩岡商会の『帝都の大震災 大正十二年九月一日』があることを知りました。
映画「カメラを持った男たち」
https://kirokueiga-hozon.jp/movie/camera/
 
 関東大震災当時、岩岡商会は下谷区上根岸にありました。映画の資料によると、9月1日、社主の岩岡巽たちは、下谷坂本から入谷を抜けて、浅草十二階を目指します。その道すがら、13時ごろに出火した「浅草北部」の濛々と立ち上る火災の煙を、北西方向に捉えていたのです。
 
 金杉通りの東側、下谷区の入谷から龍泉寺、吉原、山谷あたりの一帯は、約6000年前の縄文前期には、「奥東京湾」と呼ばれる海中に沈んだエリアでした。河川の運ぶ土砂で次第に陸地化しますが、中世ごろまでは「千束池」という巨大な池が残っていました。その地区は、軟弱地盤がほかより厚く、関東大震災では、震度7に達する激震に見舞われ、多くの犠牲者を出したのです。
 土が変わらない以上、再び地震が襲えば、同じような激震となるでしょう。竹内六蔵の調査によれば、吉原公園で490人、田中小学校で1081人が亡くなっています。

 岩岡商会のフィルムは、撮影記録がなかったので、分析できなかったのですが、田中傑さんの考証で、撮影の経路が分かりました。以下の映像の4:40ぐらいのところから、浅草北部より燃え盛る、すさまじい炎の様子が映っています。よろしければご覧ください。
『帝都の大震災 大正十二年九月一日』
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/movies/m03.html
 
コラム「目の記録、聞こえない声―関東大震災の映像記録によせて」
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/columns/c10.html
関東大震災映像デジタルアーカイブ
https://kantodaishinsai.filmarchives.jp/

岩岡商会撮影『帝都の大震災 大正十二年九月一日』
関東大震災映像デジタルアーカイブより

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